毎日更新!とは何か・・・と心の勃起
数か月前より、独立して何らかの経済活動を行う、ということに興味を持って色々と教えを受けたり、調べたり、ということをやっていて、、、
流行りやご時世的なものもあって何となく
Web上を売り場にして、情報発信を行っていく
といったオンラインサービスの分野を調べることが多かったのですが(というより情報圧力により誘導されてる感もある)、何やかや違和感だらけでまごまごしてしまいました。
以前なら違和感をねじ伏せてそれなりに「努力」をするところ、切羽詰まっている(気がしていた)のもあって最初だけは確かに頑張ってみました。
そんな調子で具体的に行動したのは僅かになってしまい、違和感は増えて大きくなるばかり。ただ、これまでとは異なり、所謂「教育的でない」アドバイスをもらったり出来る環境を構築していた為、違和感を大事にして「努力」をやめて内省を行っていると・・・
結局、いい感じの経済活動が何となく降ってきたり、とりあえず情熱を注げるものをやる気になってみたり・・・と一旦落ち着いて、その違和感と真っ向から向き合わない精神状態となりました。
それら違和感の根源には、何一つ論理的に抵抗出来ないのですが、そのうちの一部について気分で語りたい。そう、気分で語りたい。
だからこれは、批判ではなく、ただの個人の好き嫌いの話。
そのうちの一部とは、何においても私が必ず目にした
どれだけ良いものであっても人の目に留まらなければ意味がない
という超正論、その超正論に基づく様々な超正しい手段。
その代表として
「情報発信は毎日更新(発信)するべきだ!」
といった類のものや、、、
他には「いいね」や「フォロー」巡りをすることで、より多くの人に見てもらい、結果フォロワーを増やして、増えたことにより、より目につくようになる(集客力!)、というものや、、、
うん、超正論。
その為に自動で「いいね」「フォロー」をしてくれるツールもあったり、ツール選びの為の情報サイトがあったり・・・うぉぉ
一日に巡る数を決めて日課にして継続する。・・・継続は力なり。うぉぉ
試しに、「いいね」「フォロー」巡りをやろうとしてみたら、他人の情報発信を一つ一つじっくりと見始めてしまい、気が付くと本当に自分が良いと感じるものを発している人探しをしており数時間が経った挙句ようやく一人ポチー、とかやっていて・・・。
バランスの良い人は、自分のクライアントになる要素を持っている人を見極めて、決めた時間内で一日何人というノルマを毎日こなしていくのだそうです。
それこそツールなのか知りませんが、完全作業でやっているのがばればれなお金ちょうだいフォローもたくさん目にします。
とは言え、私は突然来たりする「フォロー」や「いいね」に反応しないといけない、と思ったりもするので、そういう時は余程肌に合わないことがなければ「フォロー」や「いいね」返しをします。
私が日常的に更新を行ったりする情報発信ツールは、note含め三つ程度あります。みんなそういうものなのかも知れませんが、フォローをすると、その人が更新したものが新しいもの順でマイページ上で上位に表示されるようになります。あとツールによってはお知らせもきたり。
他にも色々と効果があるようですが、これも毎日更新が大事たる所以の一つですよね。
んで・・・
上記のようなことはすっかり忘れて、普通にツールとして利用している時にマイページ上位のものを眺めていたら、別に興味がないワケではないんですけれど、更新しまくっている人の情報で埋まっていて、
更新頻度が低い、よりちゃんと見たい人の発信に気が付きにくい状態になっている・・・。
加えて、設定で回避出来るのかも知れませんがお知らせ機能がうるさいツールも。
何か使いにくいなぁ、と思って何気なく各ツールの更新頻度の高い人のフォローを次々に外していました。
外している時は特に何も考えておらず、結果ちゃんと見たい人の発信を拾い易くなったのですが・・・。
数日経ってから、これって自分をクライアントとして見た場合に
セオリーが逆効果になっているじゃないですか
と思いました。
「更新頻度を上げて、内容も薄くならないように!〇文字以上!」
とさらりと謳っている人もいるし、もちろん実際に更新頻度が高く、且つ内容も充実している人もいますが、やはり私の心に響く内容のものは、傾向として更新頻度がそこまで高くない人が多い。
そして私自身毎日更新を少しだけ頑張ってみたことがありますが、全くもって無理、というのが結論で、たまには適当な時もあるけれど基本スタンスとしては本当に湧き上がってきたものに入魂して発信・表現したい。
人それぞれのペースがある。
加えてこれ、単にツールを集客ツールとして扱うか、楽しんで利用するだけとするかとか、どこに軸足を置くかの違いなだけ、という面もあるのですけれど。その重心を自分でコントロールすることが全く出来ませんでした。
また、もっと多くのツールを同時に利用している人もたくさんいると思いますが、凄い数の「更新のお知らせ」でスマホが埋まっていく状態を日々処理していくのって、一つ一つに注力してしまう私からすると凄い能力だと思います。
(そんな目まぐるしい中で更新頻度で競っていくことがアドバンテージになり得るのだろうか・・・?)
そして、自分自身がそう感じているのだから、そうでない人を相手にしようとしているセオリーに従ったら辛くなるに決まっている。それが違和感の正体なのかな、と。自分自身が辛くならないよう違和感としてサインを送ってきているのではないか、と。
私は組織であっても個人であっても、経済活動がストレスとなる原因のほとんどが顧客を選べていないから、と思っています。って経済活動に限ったものではないですね。また当たり前のこと言ってる。
じゃあ、その超正論を無視してどうやって経済活動に繋げるんですか?と言われれば物質的に説得力のある論理は何もありません。気分ですので。
っても実は心ではもう答えが出ているのですけれど、言葉にしても全く論理的でない表現になります。
ニヤニヤしてしまうこと、心が勃起するものを純度を上げて形を問わずエネルギーとして発する
・・・こんなところでしょうか。振り出しに戻っていますよね。
(もはや情報発信とか関係ない話ですが、)
これって子供が日々やっていることだったりします。
そんなことを続けていてはダメだ、と常々教わってきたような気がするのですが、本当にダメなのでしょうか。何故そのように教わるのでしょうか。
はて・・・?
今では自然にそう出来るようになってきたものもあるのですが、やはり最もらしい情報によって、気が付くと心が萎えていたりします。そういう時はだいたい違和感を無視していたりするんです。
どれだけ良いものであっても人の目に留まらなければ意味がない
ここで言う、人の目に留まらない「良いもの」って本当に良いものなのでしょうか。一見良いものに見えても、意固地になっていたり、背徳感といった重いエネルギーが乗っていたりしないでしょうか。
難しいけれど、そこにこだわってなるべく純粋なエネルギーを発しようとすることも今の私にとっては心が勃起することであったりします。チカパシ。
ちょっと無職だったもんで、「仕事」みたいなものに捉われている感もあるのですが。
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