拗ねているところに本心がある。
私の拗ねポイント
プロフィール記事に
人と関わって嫌な思いをしたくない
→人と関わらなければいい
その根底には
人と楽しく接して生きたい
という思いが強くあり、そのうらっ返しであったことに気付き、今に至っています。
と書きましたが、何だか素直になれずに生き方を選択している部分がいくつもあることに気が付きました。
すっごい普通ですけど
「◯◯なんて出来ないから××にするんだ(ホントは◯◯にしたいんだけど(;´Д⊂))」
「どうせ××になるんだよ(ホントは◯◯がいいのに(;´Д⊂))」
これ、拗ねているんです。
子供だったら泣いてるとこなんですよね…
ケド
大きくなる過程で、自分自身の体験だったり、親や周りの人(同じく拗ねている人)の意見だったりに影響されて、
「別に」
というテイにしてしまいます。
そして自分自身拗ねているのかわからなくなってしまっている。
影響元が悪いと言うつもりはなく、あくまで受け取る自分自身の問題と思っています。
私は
ホントは〇〇・・・
のところが実現出来ているところを見聞きしたり、実現出来ると何だか涙が出そうになる、
ということがわかりました。今はそれで結構気付く。
そして拗ねているとその通りになるし、拗ねるのを辞めたら、本心の通りになることを今まさに体験していっています。
例えば…
仕事においては
仕事場には必ず天下りのような、純粋な事業貢献とは無関係な謎の高給取りがいたり、上司のご機嫌取りの方が重要だったり、仕事はイヤイヤやるものだ、
ということを父から感じて「仕事はそーゆうものだ」と思っていたら、
これまでの職場はその通りになっていました。
(実際父がそうであったか、は関係なく、そう感じていたことから自分で作り出している)
そしてその事にまた拗ねながら仕事をする。いわゆる「ほれみたことか」状態。
ところが最近は・・・
→良い同僚に囲まれ、スッキリした気分で仕事をする自分をイメージしていたら、転職後本当に気分良く毎日仕事が出来ている、という体験をしました。(究極的には、ちゃんとイメージが出来ていれば転職をしなくてもこうなっていたと思います。ただ、転職をはさまずに変わる、というのは実現イメージが難しい。)
別に事前にリサーチをして、次の職場は〇〇で、△△だから変なやつはいない、とか面倒臭いことをするわけでもなく。そんなことは始めてみないとわからないし。
拗ね防御
また、「拗ね」は一見防御にも見えます。
言ってしまえば
世の中そんなに甘くない (甘ければいいのに・・( ノД`)シクシク・・)
も「拗ね」の代表だと思いますが、それで「うん、やっぱり甘くない。わかっていたし。」となった人は沢山いると思います。
その「ほれみたことか防御」、いる?
なんだか、「知ってた知ってた」ってなると安心したような気持ちになるけど、それって実は本心でもっと泣いてない?
逆に「あれ?甘いと思ってたら甘くなかった・・・」ってなるのってそんなにヤバいことなのかな・・・
こう思い始めたら、人生がどんどん好転してきたのです。
甘いと思ったら甘くなるし!
大人の拗ね
最後に
拗ねている時の特徴としては、人に対して横柄な感じになっていたり、冷たく話す、ということが多々あると感じています。それこそ妙に論理的だったりして。凄く以前の自分を思い出します・・・。
周りの空気を悪くすることも多いです。職場だったらやたら厳しくてキリキリした雰囲気にするとか。
そんな人に会ったら、その人の主張を否定せずに優しい言葉をかけてあげると良いと思います。拗ねていると思ったら何だかその人の気持ちもわかるような気がしませんか・・?
逆に全く拗ねていない人って、ちょっと子供っぽかったりするけど、魅力的で応援したくなるんです。周りにそーゆう人いませんか・・?
こういうことを考えるようになったのって、やっぱり自分の息子の行動がきっかけだったりします。
「○○しなくていいの?」
子「××でいいもん!」
「ホントに?」
子「いいの!」
ああー、ホントは○○が良かったんだよね・・。よしよし。
これは最もわかりやすい例ですが、大人になると妙に落ち着いて冷静に拗ねていたりするので、わかりにくいんですよね。
自分で気付いてあげられるようになっていきたい。
⇒おかわり。に続く
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