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このnoteを書いているのは誰でしょうか? 1. 人間 2. AI 3. 人間でもAIでもない 4. 人間ともAIとも区別がつかない

こんばんは。関東は梅雨になりムシムシした季節に入りました。コロナコロナと言っては、今年の春は桜を見たような見ていないようなよくわからなくなっています。新緑が芽吹いたような気もするが、それは今年のことなのか去年のことなのか全然分かりません。そんなこんなで、いつの間にか紫陽花が咲いています。季節は巡っているのだが、季節が巡っている実感がありません。この感覚は何なのだろう?単に歳を取ったってことか?

STAY HOMEでオンラインだ、テレカンだ、っていうことになるにはなって、今やテレビはリモートでの出演者を映したモニターを放送している。自分は何を見ているんだろう?そのうち、人を映したモニターを映したモニターを映したモニターを見ることも出てくるんじゃないか?まるでマトリョーシカだ。そこまで行くと映っているものが何モノかわからないのではないか?それだけでなく、最近はただ映っているものも何モノかわからなくなってきた。

テレビに映っているモニターに映った人は果たして人間なのだろうか?精巧に作られたデータなのだろうか?そもそもテレビに映っている人は果たして人間なのだろうか?精巧に作られたデータなのだろうか?そんなバカなことを言うな!と言われるだろうけれども、それらを判別する方法を持ち合わせていない。

ビフォーコロナに撮られたものは、本当にあったことであるかわからなくなってきた。おそらくは、その頃に思い描いていた未来と今が違うものであるからだろう。近いけれども、遠くなってしまったようだ。

昨今はAIが音楽を作り、歌を歌い、マンガを描き、広告写真のモデルまで作れる時代になった。実在する人に、用意したセリフを自由に喋らせることが出来るような時代だ。逆に、Zoom飲み、Zoom婚活、etc...、いろいろなことが画面越しになった。画面に映った人とコミュニケーションを取っている。人とコミュニケーションを取っているのか、画面とコミュニケーションを取っているのか、果たしてどちらだろう?視覚と聴覚に落とし込められて、体温を一切感じられなくなった。

もし画面に映っているモノが人間ではなくAIが精巧に作ったモノだとしたとき、そんな相手とでも婚活するのであろうか?本当の人間との区別はどのようにするのだろうか?と言っても、映っているものを見ている限りはその術はない。俺の嫁が画面から出てきてくれない!というのは、だいぶ昔からあったセリフであるが、当たり前になる日が来るかもしれないというのは、否定できないかもしれない。画面に映ったのがAIが作ったモノと知らずに、永遠の遠距離恋愛をしているとしたら、人間でもAIでもどちらでもいいのかもしれないとも思える。ケンカばかりする人間よりも、とても気の合う精巧なAIの方が需要がありそうでもある。

こんなことを考えていると、俺の嫁が!と言っていた人は、未来を生きていたんじゃないか?という気にもなる。自宅警備員と揶揄されていた引きこもりも、自粛の時代は最先端だった。今の普通は最早時代遅れかもしれない。

それはそうと、自分が撮っている写真に映っているモノは果たしてそこに存在したのだろうか?自分の記憶の中では、確かにそこに存在していたのだが胡蝶の夢のようで、それが現実であったのか夢の中の出来事であったのか、という気にもなる。あらゆる写真が何なのか、どう捉えるものかというところで、全くの暗闇に入ってしまったようだ。単にフィルムで撮れば良い!とも思えない。

今は未だ無いが、AIが作った写真が氾濫するようになって、AIが喋ってるラジオ番組を聴き、AIとコミュニケーションする時代が来た場合、それが実在なのかAIなのかという区別を考えるのだろうか?人間だと思っていたらAIだったり、AIだと思っていたら人間だったり。完全に、区別出来なくなった場合に、どうなるのか?ということばかり考えている。もしかしたら政治家なんかはAIにやってもらったり、芸能人もAIに任せた方が不倫もしないだろうから良いのかもしれないとも思えてくる。SNSで石を投げても良いAIがいれば平和かもしれない。

人間とデータとの間にある何か。それを踏まえて、何か写真を撮りたい今日この頃。しかしながら、何を撮ろうか全くわからなくなってしまった。こんな時は新しい機材を買うに限るのかなぁ?

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