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【もやもや病】泣くことが死ぬことと見つけたり -Don't close your sky-


もしも“笑う”や“泣く”といった行為が制限されるとしたら、
貴方はどうするだろうか。


私たちは感情の起伏によって、笑顔や、涙といった表情を自然に表現してしまう生き物だ。

嬉しければ笑うし、
悲しければ泣くし、

哀しくても笑うだろう。

子供の頃は特に顕著に体現してしまうもので、
何かの感情を得るたびに大きく笑い、大きく泣き叫ぶ。

しかし、それを制御することを余儀なくされるとしたら。

それも、命に関わる形で強要されるとしたら。


私たちは幼少期の記憶を鮮明には思い出せない。
私たちの記憶は一定期を過ぎないと確立できない。
物心、というものだ。

でも想像は出来る。

きっと私も、往来の子供達のように、激しく笑い泣き叫んでいたのだろう。

それが自然なのだ。

しかしこのだだっ広い世界、狭っこい日本において
何万分の一の確立でそれを抑えて過ごさねばならない赤ん坊もいることを
今年の春に知った。


“もやもや病”

正式名称、ウィリス動脈輪閉塞症。

笑ったり泣いたり、急激な運動をすることで、
手足の麻痺、痙攣等、さらには脳内での虚血・出血の症状が起こる。
(詳しくは違うけど、今は割愛)

これは軽症でも重症でも、厄介らしい。

軽症の場合は、子供側のほうが先にその異変を自覚し、
自ら“大声を上げない”とか、“激しい運動はしない”と自制することで
発見が遅れるらしく、

重症の場合は、発作のたびに
その都度命が危険にさらされるというのだ。


正直な話、私は慈善的な行動力は持ち合わせていないので、
同情することくらいしか出来ないのだが、
自分に置き換えてみると、やはり怖くなる。


私は基本的に理性的な性格である。
酔ってもあまり、自分を壊さない。

だが“楽しむ”一点に限っては誰よりも貪欲だ。

どの場面においても、自分が楽しくなることを第一に考える。
それが満たされれば、私は笑うだろう。

それと同時に、涙もろくもある。
哀しくて泣くよりは、悲しくて泣くことの方が多い。

それはドラマだったり、漫画だったり、友人の話だったり。

その度に体が軋むというのは、いささか不憫である。
心配してあげるどころか、一緒に泣くことさえできなくなる。

その度に死掛けるなんてまっぴらだ。
友人の失恋話に殺されるなんて死んでも死にきれん。

私は
人間にとって、笑えない、泣けない、というのが一番の生き地獄だと思う。
物理的な身体への刺激も、精神的な心への刺激も、そりゃ辛いことだとも思うけど。
だって、それを受けて泣くことも出来ないじゃない。


耐えるだけの痛み。

忍耐、我慢、って言えば響きはかっこいいけど、悲しいよ。

ひたすら自分の心を押し殺して生きていくとしたら、
そのことほど悲しいことなんてないんじゃないだろうか。

やはり症状を気にして、
一緒に遊んでも笑わなかったり
葬式の場でも泣かなかったり
スポーツ等に打ち込めなかったりすることで
誤解や偏見を受け易いとも解説されていた。

そういうのも、きっといじめの対象にもなるだろうし。


喜怒哀楽を表現する手段を、ごまんと与えられた私たち。
大人になるほど乏しくなるその感性を
今使わないのはやっぱり勿体無いと思わないかな?


今一度問う。

もしも“笑う”や“泣く”といった行為が制限されるとしたら、
貴方はどうするだろうか。

きっとあと半世紀も過ごせばそういうことになるんだから、
今はもっと感情に素直に生きてみてもいいんじゃないかと、
私は思んだけど、どうかな。。。


もっと素直に。
もっと快活に。

人生に潤いを。

欲望だけじゃなく
望み欲することに邁進しよう?


・・・なーんて言ってる私も
“怒る”って感情はどこかに忘れてきたんだけどね…




上で若干“イジメ”ってワードが出てきたので続けます。

学校側と教育委員側の対立ってのはテレビとかでもよく見るじゃない?
私的には、どうせ罪の擦り付け合いだからどうでもいいやとか思うんですが、

じゃあ当の生徒達はなにしてんの?って話。


たぶん学級会とか開いて話し合いとかもして
「いじめよくない!」とか言ってるんだろうけど

で、少しひねくれた生徒が
「いじめられる側にも問題があるんじゃないか」とか
ませたことほざいてんだろうケド


あのさ、そうじゃなくて、

みんな集めてあーだこーだ言うんじゃなくて


……誰か一人でも、いじめられてるそいつに手を差し伸べろよ、って話。

いじめられっ子にもプライドがあるだろうから
同情なんていらない、とか心にもないこと言うだろうケド

そこはJanneDaArc曰く
「望まないとしても 差し伸べ続けるよ」
の精神だぜ?


まぁつまり、意見を主張するために挙げたその右手を、
拳も心も開いて
いじめられたやつに差し出してやれって話。

クラス全員の足並みを揃えるより容易いことだと思うんだけど・・・


どっかのCMで「何千、何万人に、みんなが必要、って言われるよりも
たった一人に、貴方が必要。そういわれるだけで私達は生きていける

ってのを見たとき、泣いてしまったのは私だけじゃない筈。

そういう人間って、クラスに一人はいないかな…?

いないんなら、
尚更いじめは何が原因だとか追求してる場合じゃないと思うんだが。。。


まぁ、所詮私は外野にいる人間なので、こういうこと言えるかもだけど。


ただ、最後に。


いじめられる側にも問題がある?

そんなのいじめる側が悪いに決まってるだろ。

どんな理由があろうと人を陥れるより重い罪なんてない。

以上。

afterword

こんなことを書いたら、
いじめられてる人に手を差し延べればその人もいじめの対象になりかねない
という意見をもらいましたが
私自身中学高校っていじめられてる人とわざと友達になるような真似してきたけどいじめられてなかったもん、という自負があります。

あくまで生活行動範囲内でしかできないことではありますが
いじめられてる人はぜひ私のもとに来て欲しいですね。
友達になりましょう。

――となるのが私の根源に関わる人格形成から生まれた考え方です。
鬱を患った今でもその考え方は変わってませんが
助けられるほどの器量はちょっと足りてないかもしれません。苦笑

尚、この文章は2007年にmixiに投稿したものを再編集したものになります。
少し前に「もやもや病」というワードが旧Twitterのトレンドに入り、
「なんだか感情がもやもやする」といった”五月病”みたいな扱われ方をしてるのを見て、いやいやそんな生易しい病名じゃないのよ!?と思い
ここに再掲してみた次第です。

先天性の病気もなく、病気になりにくい体に生んでくれた母親に感謝ですよ。
心の病気ばかりは、どうにもなりませんでしたが……


最後まで長文お読みいただき誠にありがとうございました。 つっこみどころを残してあるはずなので 些細なことでもコメント残してくれると嬉しいです!