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オタク生活55年が語る若きクリエイターを”AWAKING"=覚醒させるヒント㊿

”人に伝えるべき”と言う意識を、どのように育てたか⓷

さて、デイリー連載(やり切ったぞ~)50回目。コロナ対策で始めたブログ最終回。”人に伝えるべき”と言う意識を、どのように育てたか⓷ 1993年以降 ゲームショップの意見を聞き、開発や宣伝にフィードバックした時代を書いていきたいと思います。

昨日の記事に書いたように、アスキー映画の宣伝マンとして過ごした時期は、物凄く自分の意識を”人に伝えるために何をすべきか?”を、恐ろしいほどの濃密さで経験させてくれた。20代最後の時期と言う事は、アルバイトも含めてマスメディア・コンテンツ業界で10年を超えた時期、かつ社会人として6年目と言う時期で、”自覚をもって本気で仕事をすべき”と言うことが解る時期であったと思う。その時期の知り合いたちは、今でも友人だと言える。しかし、アスキー映画の劇場映画配給事業の撤退に伴い、僕は映画宣伝マンをやめて、まったく未知のコンピューターゲーム業界にシフトする。
一つ目の理由は女房がいて、ある程度の生活の安定が欲しかった事だ。これを否定する気はない。でも、㈱アスキーの中での部署選びには、自分がほとんど触れて来ないでいたコンピューターゲームの普及が世の中を変えてきてしまった事に対する恐怖と興味だった。コンピューターゲームを全く遊んでこなかったわけではない。当然『スペースインベーダー』は遊んだ。そして、下手だった(笑)100円玉が、めちゃくちゃに減っていき、インベーダーゲーム普及時に高校1年の僕は、10分で1000円が消えるゲームよりも、同額で3本立ての映画鑑賞=高校生料金で5時間を選んだのだ。大学で工学部の聴講をしてコボル、フォートランの初歩でプログラミングが面白くないと感じ(その頃、スクラッチかユニティがあればなぁ)たのもあり、ファミコン発売時期も夢中にならなかったのだ。ただ、アニメ映像を使った大型筐体『サンダーストーム』や『タイムギャル』は遊んでいた。やはり、この時期の僕はドット絵での想像力を掻き立てる事より美麗な実写やアニメーションに惹かれていたのだと思う。

さて、僕がファミコンを購入しなかった時期から10年。映画宣伝マン時代にも脱衣麻雀で時間を潰していたりもした。いわゆる仕事の合間だ。
映画宣伝マンとして新宿・歌舞伎町の映画館のプロモーションとマーケットリサーチをしていた人間にとっては、今はなき新宿ミラノ座を中心とする歌舞伎町のゲームセンターに吸い込まれる若者の姿は、自分の顧客と重なる
当然、気にならないわけがない。自分が宣伝する映画に費やしてもらいたいコインが『ストⅡ』(その頃は、その名前も認識していないが)に消えていくのを見て”だいぶ、絵がきれいになってきたな~”とコンピューターゲームの普及が世の中を変えていることを認識したのだ。
だから、アスキーからコンピューターゲームの開発でも、宣伝でもなく、営業兼マーケットリサーチの話を頂いた時に飛びついたのだ(まあ、入社の決め手は『競馬』好きであった事は、入社してすぐに知らされて苦笑いするのだが…運命で有る)

30歳までに、文字メディアでのライター稼業や小説投稿の経験、映像制作と映像宣伝を”仕事”として行ってきた経験があったからこその”驚愕”だったのかもしれないが、最初は会社からのレンタルで遊んだ”スーファミ”の作品群は ”ああ、この何度も遊べるゲームソフトが、この価格だったらば映画館には行かないな”。と、納得させるのに十分だったのです。
実は、この”冷静な目で、ゲームソフトとゲーム業界を見つめた”経験が、その後の僕にとっての基礎になっていると思う。

映画宣伝マンとして他人の作品を解析してきた僕にとっては、日本全国のゲームショップを巡りながら、売れ行き、商品特性・宣伝プラン・作品のクオリティや顧客の評価を、ゲーム業界の歴史を後追いしながら知っていく事は、大変な快感だった。
そして、その経験値を活かしたプロモーション(PS時代には開発にも口を出すようになっていくのだが)を行う中、”知識を得る他社の仲間””考え方を共有できる他者の仲間”=他のゲーム会社の営業マン・宣伝マン・開発者との関係を得る事が出来たのは、直接、購入者と接して”良い作品を遊んでもらいたい”と思っていた小売店の方々のお陰だ。
特に、葛西にあった名物ショップ
(小さな、おもちゃ屋の頃からの付き合いでした)の女性店長と旦那さんの社長ミシン、PC,カラオケなども手掛ける会社が運営したゲームショップの店長(出会いは戸塚。最後は溝の口でしたね。)中古レコード店が経営するゲームソフト部門の店長(最初は柏だったなあ)には、本当に世話になりました。
この3店は、要求も大きいけれど正しい情報が入手できる店でもあったために、各社も営業・宣伝のエース級を担当者にしていた。そのメンバーたちと信頼関係を得ていたことが、後のAMGでの人事・開発部門の紹介にもつながっている。そして、そこで知り合った皆は、今の友人であり、新たな仕事仲間になるかもしれないと思っている。

今回語った、僕が30歳以降の時期での
”人に伝えるべき”と言う意識を、どのように育てたか?”
個々のテクニック(ボキャブラリー、文章力、動画やサイトの構成力)は、今においても時代に合わせてあげています。(実際、先週初めて、パワポに音声録画してムービー化しました。動画教育の必要に迫られての使用事例の進化です)でも、キャリア5年、10年の人には”情報を吸収して租借。必要な人に、解りやすく与える”その行為が、自分以外の優秀な人物へのヒントになるのだ”と、言う事を理解してもらえればと思います。

連載の締めの回に、自分の会社の設立意図を話すとはな…と思いますが、
若きクリエイターを”AWAKING"=覚醒させるヒント 
読んで頂いたプロの方、そして、これから業界を目指す人にも”発信”していただければ嬉しいと思います。

週末版 思い出のコンテンツに関しては『009』も『マジンガーZ』も『魔女っ子メグちゃん』も語っていないです。人生を変えた”星野鉄郎”もです。
なので、このタイトルの記事を終了したわけではありません。

又、僕に”この話題を、どう思うか?”などとの意見を頂いた場合は、まじめな記事を掲載する場合もあるでしょう。だから、お別れは言いません。

ただ、皆さんの支えで、ラノベのレイアウトに換算して200ページ以上(本になるな~)を書けたと思います。この執筆作業で、自分自身の考えがまとまりましたしね。皆様の感謝をもって一端の区切りです。

有難うございました!

改めて、コメントやシェアをお願いしますね!!



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