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30:幼稚園は何色だったのか

5歳。
私は幼稚園に通うことになった。

幼稚園以前の出来事を鮮明に覚えている私だが、はじめて幼稚園に行った日のことは、自分でも不思議なほどに、ほとんど覚えていない。
嫌がっていて、涙で視覚情報を遮断していたのではあるまいか。

私は、幼稚園がとても苦手だった。
出不精で、基本的に家にいたい。
わらわらと大勢が集まる場所が苦手だし、集団で同じことをするのも、オエッと気持ちが悪くなる。

そして、なりふり構わず大騒ぎする"子供"が苦手だ。
自分も子供のくせに、というツッコミどころはあるにせよ、私は大人しい子供だったと思う。
自分が自分が、と存在を猛アピールする子供たちがいるなかで、私は気配を消そうとするところがあった。
だから幼少の私は、忍者に惹かれたのだろうか。

ちなみに、相手の年齢が子供に限らず、大人であっても「身の程知らず」な"子供"が苦手なのだ、といずれ知ることになるのだが、このときの私はまだ知る由もなかった。

***

そんなわけで、私はしばしば「幼稚園に行きたくない」とゴネた。
あの閉鎖空間のなかに、自分の居場所はない、と日々感じていたと思う。
朝「なぜ行かなければいけないのか」と言って泣き、母を困らせたことも一再ではなかった。

家を出て左へ向かう。
隣家を4軒通り過ぎた先に、横断歩道があり、遊具の置かれていない広めの公園に行きあたる。その向こうが、もう幼稚園である。
子供の足でも、そう遠くない場所。
だがその横断歩道は、私にとって三途の川のようなものだった。
渡ることは、すなわち家との断絶。大袈裟な話だが、そんな心境だった。
私があまりにも行きたがらないので、その横断歩道の手前まで、母が一緒に行ってくれていたこともあった。
忙しい朝に、手間のかかることであったろうと思う。

5歳 4月5日
母に贈った絵。なにを思って描いたのか。
喜ばれると思って描いたことは間違いない。

***

受け持ちの担当保育士と、母のやり取りが記された小さなノートが残っていた。母が保管しておいたものだ。
はじめのほうだけ少し見たが、やはり私は集団に馴染めず、苦慮していたようだ。
しんどくなりそうな気がしたので、続けて読み進めることはできなかった。

前年から入園していた子供たちが大半だったのか、私が入園してすぐに、いくつかのグループができていることに気づいた。
仲のよい者同士の2人~5人くらいの、複数のグループである。
過去に、夏休みの姉のラジオ体操について行ったときも、ふざけ合う子供の姿を見て「苦手だな」「嫌だな」と思っていた私が、そのグループに積極的に加わることなど、できるはずもない。
すぐに輪に入って一緒に騒ぐのが、平均的な子供の姿なのだろうか。

騒ぐ子供も苦手で、集団も苦手な私は、孤立していただろう。
引っこみ思案や人見知り、いまでいうならHSP気質(いわゆる繊細さん)など、持ち前の性質を総動員していた。

***

そんな私は、よく教室に置いてあったピアノの下にもぐりこんでいた。
使用していないときのピアノは黒い保護カバーがかけられており、そのカバーはステージの幕や、あるいは遮光カーテンのような材質で光を通さない。
床までカバーで覆われているわけではないが、もぐりこんで座っていれば、はしゃぐ子供たちの姿が視界に入らなくなる。
ある程度の外光と、騒々しい音や声も、わずかばかり遠のく。
それがよかったのかもしれない。

教室の隅には、マットなどを収納してある押入れのような空間もあった。
照明がなく、そこも暗い場所ではあったのだが、ほかの園児たちが暗がりで騒ぐことができる遊び場所にしていたので、使えなかった。
一度、園児の誰かが鋏を持ちこんでいたらしく、指を切ったと泣きわめく様子を見たこともあった。
私が求めていたのは、一人で少しでも落ち着ける場所だったので、その収納には一度も近づかなかった。
いわば、暗がりに危険なものを持ちこんで騒ぐ、繁華街の路地裏のようなものだ。いまに置き換えてみても、それはやはり私の居場所ではない。

集団のなかで感じる孤独。
それは、大人であろうと心を苛むものだ。
ピアノの作る薄闇の幕のなかは、唯一、逃げこめる場所だった。
そこに隠れて、私はときどき一人で泣いていた。

涙の理由は、なんだったのか。
なにか具体的に嫌なことを言われたから、とか、仲間はずれにされた、とかではない。
「ああ、もう嫌だ」と感じていたのだと思う。
その場にいるだけで、一方的に浴びせられる刺激や情報量が多すぎて、疲弊していたのかもしれない。

ピアノの下に隠れている私に気づき、ほかの園児が不躾に覗いて、からかってくる。
「かくれんぼ」をしているわけではないのに、ここに隠れているぞ、見つけた、と周囲にアピールすることも忘れず、執拗に絡む。
これだから"子供"は嫌いだ。

ただこのとき、単純に心配した様子で探してくれる子も一人だけいた。
見つけたからといって騒ぐでもなく、いたね、という感じ。
隠れてめそめそしている私を見つけて、どう思っていたのだろうか。

***

外で遊ぶ時間のことで、よく覚えていることがある。
私は園庭のすべり台の上から、下の砂場で遊ぶ子供たちを見ていた。

プラスチック製の、柄が黄色で、先端と握りの部分が黄緑のスコップ、青いジョウロに、赤いバケツ。
複数人が、ああだこうだと騒ぎながら山を作り、トンネルを掘り、水を流す。
うまく流れず、一人が人のせいにする。
言われた者が、それをまた人になすりつける。
鬼ごっこの途中で、そこに乱入する者。蹴散らされて壊れる山。
砂山を壊されて泣く者。尻をついて泥まみれになり泣く者。
特になにも起きていないが、つられて泣き出す者。
そこまでが1セット。阿鼻叫喚で混沌としている。
「こういうことばかり起きる幼稚園の一体どこが楽しいんだろう?」と思って眺めていた。
我ながら、嫌な子供だなと思う。

***

帰り道。
幼稚園から公園横の道路を渡るところまでは、当番の保育士が引率する。
横断歩道の前で保育士が立ち止まり、園児のほうを振り向く。
「右手をあげて、右を見て、左を見て、もう一度右を見て」
お決まりの調子でリズミカルに言う。
そのとき、保育士も周囲の園児たちも手をあげているのだが、その手が私には不可解だった。

「右手をあげて」と言いながら、実際に保育士があげているのは、向き合って立つ園児と「同じほうの手」。
つまりこのとき、保育士は「左手」をあげているのだ。
園児たちは単純に「同じほう」だから「右手」をあげている。
鏡写しの状態だ。それでいいのだが、当時の私には不可解だった。

私は賢くない頭のなかで、こちらを向いて立つ保育士をぐるりと回転させ、やはりどう考えても『いま先生があげているのは、みんなとは逆の手ではないか』と判断し、みんなと逆の手、つまり左手をあげていた。

右手をあげて?

「右手をあげて」とは言っているが、この場では先生が左手をあげているのだから、コチラが正解だ。みんな、よく見て。みんな間違ってるよ。と、勝手に思っていた。
我ながら、嫌な子供だなと思う。

***

心底行きたくない幼稚園に行くことで、どこか屈折した心境だったのだろうか。
そんなとき私に、囁く声があった。
全員で整列しているときだ。
「前にいるA君の耳に、草の先を入れて」(草先でくすぐってやれ、の意)
私に言ったのは、前述の暗い収納で騒ぐタイプのB子。
と、もう一人二人も、B子と一緒になって言っていたと思う。

以前、2歳の記憶の記事にも書いたが
「人に喜ばれない自分は、存在してはいけない」
という潜在的な意識が私の根底にあり
「人から言われたことをやれば、必ず喜ばれるはず」
という、あまりに愚かすぎる短絡的な認識もあったのだと思う。
素行のよくない者や危険な場所を察知できないと、知らぬ間に絡め取られるものだ。
5歳の私は、人を利用して悪さをする者がいることを、まったく認識していなかった。

結局、私の浅はかさゆえに、B子のいたずらに加担することになってしまったうえに「A君が泣いた」「A君の耳に草を入れたからだ」という、騒ぎに発展してしまった。

母からは
「A君の耳が聞こえなくなったらどうするのか」
「そうなったとき一生面倒が見れるのか」
「自分がそうなったらどう思うのか」
「人を傷つけるようなことを絶対してはいけない」
と叱られ、諭された。あたりまえのことだ。

その件は、結果的に大事には至らなかったものの「草で耳をくすぐる行為」が招くリスクを考えず、言われるままに行動してしまったことは、幼少期に刻まれた大きな後悔である。本当に浅はかで、恥ずべき行為だった。

近年のニュースでも、教室で着席する際、前の席の男子の椅子を、後ろの席の女子がいたずらで引いていて、男子が気づかず転倒し、障害が残ったうえにスポーツ選手生命が絶たれた、というものがあった。
悪ふざけやいたずらが招く事態を、軽視してはいけない、と改めて強く思う。

***

いまでも、苦手だった幼稚園のニオイを覚えている。

かつての職場で、油まみれの換気扇を掃除したとき、不意に幼稚園を思い出した。
はじめはなぜ思い出したのかわからなかったが、換気扇にこびりついた古い油のニオイが、幼稚園の教室に長い間かけて染みついた、クレヨンのニオイと結びついたのだ。

またあるとき、出かけた先で、クレンザーと水の生臭さを感じ、そこから幼稚園の外通路に敷いてあった人工芝のことを思い出した。
園児の使うトイレへと向かう通路だったので、クレンザーを使った掃除のあとなど、ニオイが強かったのだろう。
人工芝は園児たちが裸足で歩くので、おそらくときどき水を流していたはずだ。人工芝の下はコンクリートだったが、年中敷いているので、乾ききらず、生臭さもあったのだろうと思う。
そこから紐づいて、手洗い場の蛇口にぶらさげられた、みかんネットに入ったレモン色の石鹸も思い浮かぶ。

そして、さまざまな苦手だったことも。

苦手なものは苦手なまま、私はなんとか、いまを生きている。


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