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クッションカバーで、【不純な動機で書くエッセイ】

祖母は手先が器用だ。
料理上手で、手芸の腕前は趣味の域を超えている。
 
今はもう、だいぶ高齢になってしまったので、台所にはたまにしか立たなくなり、手芸に取り組む時間も短くなったようだ。

以前はよく、手の込んだ料理を大量に作っては食べさせてくれた。祖母の揚げるさくさくの天ぷらは、この世で一番美味しかった。

また、ミシンひとつで、ちょっとした小物入れから上着まで、何でも作っていた。祖母が着物の帯から作ってくれたブックカバーは、僕の宝物の一つだ。



これは、10年ほど前に亡くなった祖父が着ていたシャツを、祖母がクッションカバーにリメイクしたものだ。

これを作った時、祖母の脳裏に「もったいない」という意識があったかどうかは分からない。
祖母の中では、「もったいない」という感覚は、もはや当たり前すぎて無意識の方に属しているのではないかと思う。

いずれにせよ、祖母は、持ち主がいなくなり、使い道がなくなってしまったものを、自らの手を加えることによって、使い道のあるものに生まれ変わらせた。それも、さも当然のことで、造作もないことであるかのように。


故人の使っていたものを捨てるのは、僕には何となく抵抗がある。感情的な部分で、どうしても躊躇いが生じてしまう。

ものには、使っていた人の思念が染み込んでいるような気がする。
その人の魂(と言われるもの)や、その人との記憶の手がかりが、内包されているような気もする。
もはやそれが、その人の一部であるかのような気になってくる。

それを捨てるということは、その人との紐帯をも破棄するということであるかのように思えてきてしまう。
その行為をきっかけに、その人との記憶が、ちょうどダムが放水する時のように、頭から流失してしまうのではないかと不安になる。


だから、祖母が祖父のシャツをクッションカバーにリメイクしてくれた時、僕はなんだかほっとした。

祖父との繋がりを断ってしまったと思い込まずに、あるいは家族にそう思わせずに済んだからだ。
そして不思議と、心強い気持ちになったからだ。
ありきたりな死生観風に言えば、「ああ、じいちゃんはこうして近くで見守ってくれているんだな」といったところだろうか。

ものを捨てるまでの間に、リメイクでワンクッションを置くことで、捨てる時の後ろめたさも軽くなるように思う。
それが使い古され、役目を終える頃には、前向きな心と感謝の念とをもって、それを捨てることができるようになっている気がする。

ものの形が変わっても、そこに宿るものは損なわれない。
祖父の生きた証や、祖父との大切な思い出は、祖母の手によってクッションカバーにその姿を変えた。
そのクッションカバーは、祖父だけでなく、祖母の生きた証にも、思い出の拠り所にもなった。祖母はまだ健在だけれども。

リメイクされたものは、そこに宿る思い出をより強化して、人々の暮らしに寄り添ってくれる。
祖父のシャツは、クッションカバーとなって、バトンを引き継いだ次世代とともに、月日を過ごす。
もう会えなくなってしまった人の存在が、ものを通して、今を生きる人の心を強くしてくれている。


物質的に飽和した時代だからこそ、ひとつのものを大切に、最後まで使う。できれば祖母のように、形を変えて。

ものには命があるわけではない。替えが利かないというわけでもない。だから、需要と供給とか、コスパとか機能性とか、そういうことだけで片付けてしまうこともできる。
でも、そうしてしまうのは、あまりにも心がさみしい。
ものには本来、人の想いが詰まっており、大切な記憶の断片が散りばめられているはずだ。

祖母がしたこと、つまりリメイクには、「もったいない」ということ以上の意味があると思う。

結局のところ、もったいないを突きつめていった先には、人がいて、命があるような気がする。


しかし、ここまでこう書いてきたにも関わらず、僕の中に手芸を始めようという気持ちが少しも起こらないのは、実に摩訶不思議なことだ。
リメイクの担い手たる祖母の健康長寿を願ってやまない。




くるり『魂のゆくえ』


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