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掌編小説 | too less,too much


大体この男は出逢った瞬間から口が巧くて、そんなことはとうに解っていたはずだった。

「・・・じゃぁさ、三次会は植物園で。」

たっぷりと一呼吸置いてから、スツールの上の太腿に骨張った左手が乗せられたその時には、淡く緩い前戯は始まっていたも同然で。体勢を変えぬままオリーブを噛んで一瞥を寄越すと、さぞ愉しそうに零した眦の皺を由佳は今すぐに人さし指でつう、と掬ってしまいたくて、くちの奥からじゅわりと唾液が湧いた。

いつか白塗りの壁の一軒家を建てたら玄関脇にオリーブの木を植えよう。それは結婚願望などまるで持たない由佳の唯一の矛盾した願いで、決して叶わないと知っているからこそ、その願いは何時迄経ってもうつくしいのだ。


「ウチの中は上下左右みどりに囲まれてるんだよ。ねえ、由佳ちゃん今度観においでよ。」

ちょっとそこの醤油取って、くらいの軽さで初対面の坂井がにこやかに放ったその誘い文句は、煩いくらいに流れていた70年代だか80年代だかの洋楽を悠々と飛び越えて私の鼓膜を通り過ぎていった。実年齢不明のすらりとしたスーツ姿にいけすかない、と由佳が下した第一印象は、やはりいけすかなかった、という結論に切り替わる。


「はあ。」
「うわ、すーごい眉間。堪んないね。」

由佳がピンヒールを履いて160センチ後半になりそうな身長を持ってしてもまだ見上げる余裕のあるその佇まいも、怪訝な態度で張った防御線を易々無視するかのような気持ちの悪い張り付いた微笑も、すべてがいけすかなくて今すぐにでも立ち去りたいのに、由佳のジミーチュウは深紅のカーペットに刺さったまま一寸たりとも動きそうになかった。


大学時代の友人(9年振りの再会)の結婚式に二次会だけ参加した、という今夜の選択がそもそも間違いだった気がする。落ち着いたドレープの白いドレスが良く似合う彼女も、きっと人数合わせで由佳を呼んだことがばれていると自分で知っているだろうに。深い仲で無かったのだから、適当な理由をつけて断れば良かったのだ。それなのに、まぁたまには、なんて思ってしまったのは永らく箱に入ったまま眠るジミーチュウや、ざっくりと背中の空いたブラックドレスを着ることで、女としての自らを思い出す必要を感じてしまったからだった。

「瑤子はやっぱり来れないの?あれ」
「行けないよ、チビ達預けらんないもん。」
「えぇ、独りかぁ。やめとこっかな。」
「行きなさいよ。あんたこのままだと枯れるよ?新しい出逢いとか、良さげな男も来るかもじゃん。」

同じ女子校育ちの瑤子は、その恵まれた容姿を存分に生かしてヒエラルキーのトップに常に君臨する目立った存在だった。それなのに話してみると竹を割ったような性格の波長が合い、すぐに親友になれた。親よりも深く彼氏よりも濃密に女同士の秘密の会話を交わし合った、青春時代。いつだって二歩先をゆく瑤子は由佳にとって、どんな定理よりもどんな四字熟語よりもいちばん知りたかったことを誇張なしに教えてくれる生き字引のような存在だった。


「はーあぁ、もうね、too less。」

あれはいつだったか、たしか社会人になって間もない頃、瑤子が唐突に口にした英単語。

「なにそれ。レス?え、今度の人そっち?」
「違うの、直接的にそうじゃなくて、なんていうか、愛情表現が。too lessなの。」
「ふうん、ちょっと良く分かんないけど。」

瑤子は由佳のぼんやりとした返答など意に介さず、吐息混じりに語り出した。

「あぁ、今愛されてるなぁって思うこと、あるじゃない?たとえば、直前まで手繋いで歩いてて、改札を通り抜けるときに一回離しちゃうでしょ。そしたらまた、自然と繋ぐまで手のひら出して待ってる後ろ姿とか。」
「え、全然分かんない。」
「うっそ信じらんない。じゃぁ、隣で目覚めたときに何をするでもなくこっち向いてくれてる朝のひと時、とか。」
「あー、私すっごい睡眠浅いから。たいてい向こうより先に起きるのよ。」
「あんたそれ、めちゃくちゃ損してる!」

つまり瑤子が言うには、その彼から自然と滲み出る愛情みたいなものが感じられない、という話で、直接的な行為以上にそれらは温かくやわらかな「愛」の形をしているらしい。


「由佳、私はね、too muchがいいの。ちゃんと愛されてたい。愛されてるって実感して生きてたい。」

年々美人度合いを増していく瑤子の、凛とした横顔が今も離れない。きっと容姿端麗な瑤子には瑤子なりの悩みがあるのだろう。昔から執拗なほど愛を渇望していた彼女は、現にこの数年後に満ち足りた笑みを浮かべて誰もが羨むような幸せを掴んだ。瑤子なら余裕だよね、なんて皆は言っていたけれど、由佳にはその華やかな結婚がどこまでも愛を求めて必死に努力していた当然の報いのようだと思えた。


「由佳が結婚に興味ないのは全然構わないけど、女として枯れるのはまだ早いってことよ。綺麗に化粧してヒール履いて、自分自身に戦闘体勢整えてるぞって教え込むのもたまには大事なんじゃない?」

妻になっても母になっても愛に潤う生き字引は、こうしていつも背中を押してくれる。だから今夜、この場に来たのだけれど。



知り合いもほぼいない会場の隅っこで、後悔し始めた矢先。おひとりですか、と声の方に振り向くとそこには坂井が立っていた。

あれよあれよと名前を訊かれ、その次の会話からは嫌味なほど自然と由佳ちゃんと呼ばれ、本能的にこの人を信用してはいけないと脳内の遠くのほうから警告音が鳴っている。

職業やら新郎新婦との関係性やらをすっ飛ばして、今日は寒いよね、とかローストビーフ美味しかったけど食べた?とか。坂井です、とだけ名乗ったその男の軽快な会話は口惜しいほどに心地良かった。


「由佳ちゃんはさ、独り暮らし?」
「はい、もうずっと。一人に慣れすぎて寂しくもないです。」

何とか軽くジャブを打ちながら冷静さを保つ。

「ふふ、そう。寂しくないかぁ。俺もね、ずっと独りだよ。でも寂しくない。みどりに囲まれてるから。」
「・・・みどり?」
「そう、観葉植物がね、たくさんいて。ウチの中は上下左右みどりに囲まれてるんだよ。ねえ、由佳ちゃん今度観においでよ。」


きっと、坂井はすべてお見通しだったんだろう。今夜名前さえ手に入れられれば、職業も関係性も何もかも不要だということを。自分にはそれが出来る魅力があって、必ずこの会場をふたりで抜け出せるということを。

パーティー会場からすこし離れた場所にあるバーで、隣に腰掛ける坂井の肩がずっと触れそうで触れない。


「・・・坂井さんって、」

今夜はじめて由佳から話しかけたことに驚いたように、坂井はゆっくりとこちらを見つめた。

「坂井さんって、どんな時に愛されてるなって感じますか。」
「え、突然なに、やらしい質問?」
「違います。なんていうか、ふつうに。」
「んー、そうだなぁ。ドライブしてて、眠いのにコクンコクンってなりながら頑張って起きようとしてる顔見た時とかかなぁ。可愛いよね、あの顔大好き、俺。」
「・・・。」
「ちょっと、自分から訊いたのに無言で気持ち悪いって表現するのは良くないよ、由佳ちゃん。後はね、俺よりも先に起きた女の子が起きるまで寝顔眺めてくれてた時とか?」


そう言ってけらけらと笑いながらグラスを傾けるその顔を、まだもうすこしだけ見ていたいと思ってしまった。

「由佳ちゃんは?愛されてるって、いつ思うの?」
「よく、分からないです。あんまり感じたことなくて。愛に疎いのかも、私。」
「へぇ、愛に疎い。いいね。」

坂井は何故だか嬉しそうに肘をついて笑っている。整った鼻筋が腹立たしい。

「なんで。なんで疎いのがいいの。」
「え、だってその分これから知れんでしょ。大人になってからそれを知った方が、余計にぐっと来そうじゃない?」
「・・・これから、」
「そう、これから。由佳ちゃんまだ若いんだし。こんなこと言ってるとおじさんみたいだけど。疎いほうが楽しいよ、ぜったい。」
「おじさんでも坂井さんみたいなチャラいひとっているんですね。」

なんだよ、と小突かれた肩がついに触れた。
あぁ、抱かれるだろうな、と思った。


「ね、もう一杯飲む?それか、場所変える?」
「そろそろ帰る、っていう選択肢は?」
「んー、俺の中ではその顔してないっぽいから出さなかったんだけど、必要?」

試すような、目。もう完全に面白がっている。

「私、一応大人なので。帰りたいと思ってても露骨に顔には出しません。」
「ふうん。・・・じゃぁさ、」


いつしか触れたままの肩の熱は、左手が乗せられた太腿に伝わり。腰掛けたスツールがタクシーのシートに変わってもまだ、じわじわとあつくて溶けないままだ。会話の無い車内で絡めとった薬指だけを撫でる長い指先も。自宅近くのコンビニで下ろされて、必要なものをどうぞ、なんてカゴを渡される慣れた姿も。馬鹿みたいに典型的な一夜だけの幻を自分の足で一歩ずつ辿ってゆく夜更けは、切なさを飛び越えてひどく可笑しい。

そしてコンクリート打ちっぱなしの植物園は、噂に違わず上下左右にみどりが溢れていて、この部屋で独り暮らしているらしい知り合って数時間足らずの目の前の男のことが、由佳にはもうどうしたって愛おしくて仕方がなかった。


「ねぇ、明日の朝先に目覚めたら、私のこと眺めててくれる?」

腕のなかで眠りに落ちる直前に交わした会話に、返事は返ってきただろうか。由佳自身がその言葉を最後まで口に出せたかすら危ういほど、もうあとすこしで全身が無くなってしまいそうだ。

それは、これがもしも愛じゃないのなら私はきっと一生愛に疎いままだとさえ思うような途方もなく永い夜だった。


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