見出し画像

後悔なく生きるきっかけ②母の死

【ご挨拶】

はじめましての方もそうでない方もこんにちは。
ひーちゃんとおししょーです。
都会から愛媛に地方移住したアラフォー夫婦です。こちらは主に嫁が更新しております。

前回、ひーちゃんが後悔なく生きるようになったきっかけの1つ目を書きました。

本日は、
後悔なく生きるようになった2つ目の母の死について書きます。


【突然やってきた死の宣告】

私の母はめちゃくちゃ元気で、
60代でもアクティブに活動していました。

自身でお店を経営していたにも関わらず、
週に1回の休みでも、家でゴロゴロしているのを見たことがありません。

休みの日には、親友と買い物に行ったり、
富士山の麓ハイキングに一人で参加したり、
一人で歌舞伎を見に行ったり・・・

私の家は両親が離婚していましたが、
母は父に頼ることもなく、悲壮感もなく、
むしろ自由を謳歌していました。

そんなある日、血尿が出たので検査に行ったところ、女性が2万人に1人しか罹らない癌になっていることが判明しました。

「まさかお母さんがこんなに早く・・・」

同じ年の年配の女性と比較しても若々しい母。
ユーモアもあって、お客さんからも人気でした。(飲み屋ではありません)
煙草もお酒も飲まない健康な母が、なぜこんなことに・・・?

原因は、職場の「たばこの副流煙」でした。
お客さんの為にずっと店内は喫煙可としていましたが、それを禁止したのは5年前。

たまにしか来ないお客さんは良いのですが、
そこで毎日長時間仕事をしていた母にとっては、
猛毒でしかありませんでした。

詳しく検査したところ、
リンパへの転移も見つかり、
「もって1年でしょう。」と医者に告げられました。

母も私も現実味がなく、
母も治す気でいたので、まさかその通りになるなんて思いもよりませんでした。

【憧れのヨーロッパ】

私の母はおしゃれが好きで、
私が大人になってからは、私の誕生日にイタリア製の変わった洋服などをプレゼントしてくれました。今でもどの服も大好きで着ています。

そんな母ですが、
ヨーロッパが大好きで、自身もヨーロッパの服を身に着けていたり、絵を飾ったり、映画をよく見ていましたが、まだその地に行ったことがありませんでした。

その昔、結婚する前は
「エルサルバドル40日間のバス旅」みたいな
ワイルドな旅をしていたようですが、
当時は結婚が最重要課題だったので、
仕事もやめて、自分がやりたいことをわきに置き、結婚をしました。

なので、当時から憧れていたヨーロッパの地を踏むことなく、今まで生きてきました。

残り僅かな命・・・
となったときに、病気を知った叔父(母の弟)が
「二人でヨーロッパのクルージングでも行って来たら?」
と提案してくれました。

飛行機やツアーだと、
他の参加者に気を遣わなければならず、
もし万が一病気で倒れてしまったら・・・という不安もあり、
その叔父の提案を受け入れることにしました。

クルージングであれば、
いちいち荷物を下ろすこともなく、
10日間くらいでイタリア、クロアチア、モナコなど、色んな国をめぐることができ、体調の悪い母にとってはぴったりでした。

現地でご飯を食べたり、観光するなどは、
自分たちの自由に決められるので、
色々なサイトを検索しながら、胸に期待を抱いていました。

ふと、たまに見せる母の辛そうな顔が気になっていたのですが、
希望でその想いをかき消そうとしていました。

【辛い決断】

そんな毎日を送っていましたが、
旅まで1カ月を切ったころ、
ある夜、母の容体が急変し救急車で病院に行くことに。

救急車では母の手を握りながら、
「大丈夫大丈夫」と自分に言い聞かせていました。

病院に着くと、即入院。

翌日、改めて病院に行くと、
点滴に繋がれている母を目にしました。

昨日まで、あんなに元気だったのに。
楽しく旅行のプランを練っていたのに。

「おはよう!」

できるだけ明るく挨拶した私に

「ごめんね。旅行行けそうにないや」
「悪いけどキャンセルしておいてくれるかな」

その言葉を聞いて涙が溢れそうになりました。
ここで行かない選択をするということは、
もう二度とヨーロッパには行けないということを意味しています。

一緒に旅行に行けないのも悲しいし、
何よりも、
母が若かりし頃からしたかったことを
させてあげられなかったことが悔しくてたまりませんでした。

もっと早くから親孝行しておけばよかった。

人生に「たられば」はありませんが、
この時ほど後悔したことはありません。

【母に学んだこと】

結局80万円ものキャンセル料を払い、
ヨーロッパに行くことを諦めました。

母とはそれ以降、
一緒に国内旅行に行くことも叶わず。
そして天国へと旅立っていきました。

安らか、、、
とは程遠く、闘病生活は辛いものでした。

しかし、母は
最後の最後まで私に大切なことを教えてくれました。

「いつ健康が損なわれるかわからない」
「やりたいことをやれる環境を作る」

「お客さんが困るから、お店を休めないよ」
と、自分のやりたいことよりも、
お店を優先してきた母。

しかし、本当にお店をやっている間、
ヨーロッパに行けなかったのでしょうか。

「そんなことはない」
これが私の出した答えです。

もちろん、お店をやっている以上、
営業日、営業時間通りにお店を開けるのは
大切だし、当たり前のことだと思います。

しかし、だからと言って、
自分の幸せを脇において良いのでしょうか。

昭和生まれの母なので、
お店を休む選択をできなかったのは、時代的に仕方がないと思います。

しかし、
休みの期間だけ、アルバイトを見つけて、
誰かに任せることはできたはず。

16年という長い期間お店をやっていたのだから、
人を育てる時間だってあったはず。

もし仮に長期間お店を休んだとしても、
16年営業している中のたったの2週間くらい。

それを許せないお客さんばかりじゃなかったはずですし、仮にそれを許せないお客さんがいるなら、それはお店にとっては「どうぞ離れていって下さい」という対象でしかありません。

母は奴隷ではないのですから。

冷たい言い方になりますが、
全てのお客さんを満足させるのは無理。
私もお店を経営してわかったことです。

「自分がやりたいことをやりたい時にやれる環境を作る」
「自由に生きぬく力を身に着ける」

母がもしそれを目指していたら、
ヨーロッパも行けたでしょうし、
遺跡が好きだったので、
南アメリカにも行くことができたと思います。

母が命がけで伝えてくれたことを、
残された私の人生に活かすことが、
唯一で最大の親孝行だと今は思っています。

【まとめ】

後悔なく生きる

そのためには、やりたいことをできる環境を作る。生きる力を身に着ける。

母が他界してもうすぐ8年が経ちます。
悲しみは少しずつ薄れていき、
今は自由に生きることが出来ています。

あの時、命を懸けてそれを伝えてくれた母には
心から感謝しています。
ありがとう、お母さん。

最後まで読んで頂きありがとうございます。
スキやコメント頂けたら励みになります。

次回からは後悔なく生きるには?
についてお話します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?