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【試し読み】映画と文学が好き!人情編

HIBIUTA AND COMPANYの映画好き・代表大東悠二と書肆室室長村田奈穂が、原作書籍のある映画のレビュー本を作りました!大東は映画を見て、村田は本を読んで、それぞれの「好き!」や自分の経験をからめて語ります。

第一弾は人情編。

「このレビューでは、各映画の人情にパーセンテージをつけているが、そもそも人情とは何なのか」(大東)

レビュアー当人が悩み始める人情とは……。

生粋の映画好きと、30代になってから映画に目覚めた文学好きによる、映画語りをお楽しみください。

目次
まえがき
レナードの朝
スモーク
ビューティフル・マインド
カッコーの巣の上で
ショーシャンクの空に
あとがき

著者プロフィール

大東 悠二(著)
ひびうた/HIBIUTA AND COMPANY代表。生きにくさを抱えた人の居場所と、違いのある人が共に過ごせる共有地を、福祉と文化の力でつくっている。母親の影響で小さい頃から映画が好きになり、中学生の頃に観た「タイタニック」に影響を受けて、自主制作映画をつくり始め、10年間で20作品ほどの作品を監督・脚本・撮影・編集する。高校生の頃に観た「ポンヌフの恋人」に衝撃を受けて、映画の舞台になったフランスのパリに単身渡航し、撮影現場を巡回する。これまでに約1000本の映画を鑑賞。好きな監督はレオス・カラックス。好きな俳優はレオナルド・ディカプリオ。これまでに最も影響を受けた映画はフェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」。

村田 奈穂(著)
三重県津市(旧久居市)出身。2021年よりブックハウスひびうた管理者。2023年4月より日々詩書肆室室長。30歳を過ぎてから映画の面白さに目覚める。最近は全国各地のミニろぶアターに足を運び、週に1本は映画を見る日々を送っている。本でも映画でも古典的名作を好む傾向あり。好きな映画監督はスタンリー・キューブリック。好きな映画作曲家はエンニオ・モリコーネ。近年衝撃を受けた映画は鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」。

――試し読み――

「朝」は終わったままではない―「レナードの朝」
                    村田奈穂
オリヴァー・サックス『レナードの朝 (新版)』(春日井晶子 訳、早川書房、2015年)

 個人的な話で恐縮だが、かつて重病を患い、長期間の投薬治療を受けたことがある。病が重いほど投与される薬も強力になる。薬の効果が強いほど、副作用も大きくなる。投薬の効果あり、私は病を克服することができたが、2年間にわたって悩まされた副作用の苦しみは筆舌に尽くしがたいものがあった。これだけ医療が進んで、薬剤のメカニズムが解明されてきた2020年代でも、病気の治療はリスクと背中合わせだ。もし、今ほど医療が発展していない時代に病気になったとしたら? さらに、いまだに治療法が確立されていない病気と闘わなければならないとしたら?

 『レナードの朝』は、当時治療法がなく、凍りついたような不動と沈黙のうちに長年閉じ込められていた「嗜眠性脳炎後遺症」の患者たちと、効果未知数の新薬でもって彼らを治療しようとした医師との、奇跡、そしてその先を描いた医療ノンフィクションである。
 著者である脳神経科医・オリヴァー・サックスは、1966年アメリカ・ペンシルベニア州にあるマウント・カーメル病院に赴任する。そこで彼が出会ったのは、共通した特徴を持つ、重症パーキンソン症候群の患者たちだった。彼らは、全身が凍結したかのような無動の状態に陥っており、言葉を発することもできない。いわば何十年も生きながら冬眠状態にあるようなもので、医療者も彼らが再び心身の機能を回復する可能性を断言できずにいた。サックスは、動かない体の奥に隠された患者たちの確かな人間性、そして似ているようでそれぞれの患者によって違う症状に魅せられ、治療法の研究に没頭する。3年後の1969年、治療チームはパーキンソン病に対する新薬として注目されていたL‐DOPAを患者たちに投与することを決断する。同薬は、1967年にようやく臨床治験に成功したばかりで、当時その効能に対する確実な評価はなされていなかった。しかし、サックスをはじめとする医師たちは、一抹の希望に賭けた。何もしなければ、患者たちは一生眠りの中に閉じ込められたままなのだ。L‐DOPAにより彼らが人生を取り戻す可能性がほんのわずかでもあるのであれば、投与をためらっている時間はない。

 そのようにしてL‐DOPAを投与された20人の患者たちの「目覚め」とその後の経緯は、第2章に詳しく描かれている。
 L‐DOPA投与直後は、患者たちに劇的なパーキンソン症状の改善が見られた。彼らの強張った四肢はほどけ、固まった舌はほぐれた。何十年も指すら動かしたことのなかった者が歩きだし、再び言葉を発することはないと思われていた者が活発に会話を交わしては笑い声を立てた。患者自身、そして治療者たちが熱望していた奇跡が訪れたのである。しかし、L‐DOPAは喜ばしい目覚めと同時に、過酷な副作用も引き連れてきた。副作用の現れ方は、患者によって千差万別だった。激しい筋肉の不随意運動、幻覚や幻聴、極端な気分変動……そのような症状に悩まされ、薬の投与を控えると、今度は抑えられていたパーキンソン症状が以前よりも重くなって再発してしまう。
 結局L‐DOPAを投与されたことによって日常生活に復帰できた患者はごく少数だった。何名かの患者は、副作用によって投与前より症状が悪化し、そのうちの数名は命を失った。

 では、マウント・カーメル病院における嗜眠性脳炎後遺症に対する一連の治療の試みは、患者を苦しめるだけの失敗に終わったのだろうか。
 私は、そうは思わない。
 確かに、L‐DOPAの副作用により非常な苦痛を味わった患者たちとその家族にとっては、その薬を投与されたことを手放しで喜ぶことはできないかもしれない。しかし、治療者がL‐DOPAが患者をよみがえらせる可能性に賭けたことにより、数十年間沈黙の中にとらわれていた患者たちは、再びその手で世界に触れ、大切な人に出会いなおすことができたのだ。たとえそれが、反面に大きな苦しみを抱えながらの一瞬の輝きであったとしても、この「目覚め」が訪れたことに意味がないとは思えない。
 私は、治療法の開発のためなら患者が犠牲になってもよいとは考えていない。だが、未知のものに相対するには、賭けるしかないのだ。医療の歴史は、膨大な負け戦の中で手にした一粒の砂のようなヒントを拡大するようにして発展してきたのではないのか。もちろん軽い賭けではない。失敗すれば、目の前にいる相手の命が失われる。そのとき間違えてはいけないのは、何のために賭けるかだ。サックスらマウント・カーメル病院の医師は、患者たちが人間らしい時間を取り戻すために賭けた。その揺るがない目的への献身が、「目覚め」の奇跡を生んだのではないだろうか。
 
 最初期にL‐DOPAによる治療を受け、劇的な回復から過酷な副作用の苦しみ、そして再度の沈黙という道筋をたどった患者、レナード・Lは、すべての経験を通り抜けた後、サックス医師にこう語る。

 今では、全てを受け入れることができます。あの体験はすばらしく、恐ろしく、劇的で、笑えるものでした。(中略)これまでずっと自分の周りに築いていた壁を突き破ることができました。ぼくはこれからも自分自身でい続けます。だから先生はL‐DOPAをしまっておいてください

 現在もパーキンソン病・パーキンソン症候群に対する根治療法は見つかっていない。しかし、L‐DOPAに多剤を組み合わせる薬物療法で、長期間患者の体の動きを保つことが可能になっている。
 レナードの「朝」は短いものだった。しかし、レナードが「朝」を迎えたことにより、その後のパーキンソン症候群の患者は、毎日やってくる朝の光の中を自分の足で歩くことができるようになったのだ。レナードの「朝」は終わったままではない。「朝」は、多くの患者のもとに引き継がれ、何度でも訪れる。

ゆっくり、いそがず 人情度 98% 大東悠二

 小学生の頃に観て以来、2回目の観賞。初めて観たときは、淡々と日常を生きる人物たちの姿から何かを感じることはなかったが、映像として印象に残る場面はいくつかあった。
 今年地元で開催された古本市で、たまたまこの映画のパンフレットが目についた。年老いた女性と中年の男性がしわくちゃになりながら顔を寄せ合うジャケット写真を見たとき、眠っていた過去の映像的な記憶が蘇り、もう一度観たくなった。

 都会のマンハッタンを背に、下町のブルックリンへと電車がゆったりと走っていく。いい映画はだいたいオープニングで決まる! という持論を裏付けするにはもってこいの始まり。
 現代は、サッカーなどスポーツの結果を速く知るためのハイライト動画が人気を博し、注文した商品が速く届くことに価値が置かれるようになったが、その反面、遅さは非効率であるために切り捨てられてきた気がする。
 時代とともに、近年の映画の映像までもが効率化したようで、観客を飽きさせないための短い場面転換が多く、劇中に流れる時間が偽物のように感じることが多くなった。
 そんな時代に逆行するかのように、ひたすら電車が人を運んでいくロングショット。この映画には、本物の時間が流れている。映画の中で進む時計の針と、映画の外で流れる時間が同じだからこそ、そのあとに展開される物語にリアルさが増すのかもしれない。
 ファストムービー派の人がいれば、全編を早送りして数十分を費やす代わりに、冒頭を再生速度そのままに数分だけでも観てもらいたい。そうすることで、映画に流れる偽物の時間と本物の時間を見分けるという、新しい観賞の楽しみ方が生まれるかもしれない。
 そして、本作のパンフレットと出会い、私が、もう一度観てみたいと思わされたように、ジャケット写真の二人は一体どんな関係で、どんな物語があるのか?という、想像力を膨らませることの喜びを感じられるかもしれない。
 このレビューでは各映画の人情にパーセンテージをつけているが、そもそも人情とは何なのか。他の言葉に置き換えようとしてもわからない。それでも、人情が人を暖かくもすれば、寂しくもするものだと認識している。
 そんな説明し難い人情に惹かれるのは、身近に存在する市井の人たちに対して私が感じる「好き」の気持ちからして間違いはなさそうだ。
 例えば、職場近くのお好み焼き屋さんは人情の塊だ。気分によって勘定はまちまちだし、人の好き嫌いもハッキリしている。客に同窓生がいれば、すかさず母校の校歌を歌い出す。冷凍の餃子を躊躇なく鉄板に放り込み「これうまいんや」と何のてらいもなくご馳走してくれる。
 家の近くの定食屋さんもしかりで、昭和の空気感を漂わせる店内の小さなテレビからはプロ野球中継が流れている。店主の息子と思われる中年の男性は、出前以外は客席に座って観戦している。お会計を頼めば、愛想なくレジを打って釣り銭を軽く投げつけてくるが、どうしても憎めない。
 煙草屋を営む主人公のオーギー・レンもまさにそのたちだ。万引き客を捕まえるつもりがあるのかないのか、いつも逃がしてしまったり、愛する人を喪失した友に寄り添ったり、別れた恋人の信じるに足りない話に耳を傾けたりしている。さらには、ろくに仕事もできないであろう店員を時には叱りつつも、愛しいものへ向ける眼差しで雇い続けている。
 ラストシーンにようやく登場するジャケット写真の老婆。クリスマスの日にオーギー・レンと出会い、お互いが事情を抱えたまま人情が交差する場面は何度でも観たくなる。
 居場所をつくる仕事をライフワークとしている身としては、何気ない人々の暖かい交流を描いた本作に励まされることが多い。

smoke

 初めて観たときにはわからなかったけれど、一般的には煙たがられる人々を、肺の奥までゆっくり吸って吐き出せば、吸ったときと同じ煙が漂う世界の尊さを、今は感じることができる。


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