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疫病克服に努めた先人たち コロナが変える社会の姿

 羽黒町の寿福寺境内にはコレラに関する供養塔がほかにもある。麻疹(はしか)とともに全国的に感染がまん延し、石巻でも影響が出た江戸末期の1862年のものだ。

 表面の文字は、長年の風雪や強い日差しにさらされてすっかり薄れたが、資料によると次のような説明が刻まれている。

 「去年の秋、銭鋳る若きおのこども、麻疹を病み、または暴瀉病(コレラ)にて頓に多く死せし」

 鋳銭場で働く頑強な若い衆たちさえも死に至らせる疫病はどれだけ人々を恐れさせただろうか。できることといえば、「米俵のふたに赤い幣束を立てて、赤飯の握り飯と一緒に夜中ひそかに四辻の片隅に置いた」とか、「七草をまぜた餅を食べて神仏に祈った」などまじないまがいに頼るしかなかった。

大槻、富田、石母田

それぞれの立場で疫病対策に努めた大槻俊斎(左)、石母田正輔(中央)、富田鐡之助(右)

 同じ頃、江戸でコレラや天然痘などの感染病と闘っていたのが、現在の東松島市赤井出身の蘭医で「天下の名医」とまで称された大槻俊斎(1806―1862年)だ。コレラが大流行した1858年12月、所長を務めていたお玉が池種痘所(東京大学医学部の前身)が、不運にも神田大火により類焼。それでも病に苦しむ人たちを救うという使命のもと、自宅などを仮種痘所として対応した。のちの明治コレラ禍で同じ行動をとった住吉の医師、勝又昇と重なる。

 ところで「江戸(東京)とコレラ」といえば地元関係でもう一人、少年時代を現在の東松島市小野で過ごした富田鐡之助(1835―1916年)が思い浮かぶ。

 コレラが広まる原因の一つに住民の使う水資源があることから、東京府知事だった明治26年に水源地の多摩地方を東京へ帰属させ、衛生管理に乗り出した。それまで同地方は神奈川県の所属で、上流の水質管理に下流の東京府が手を出せずにいた。

 富田の生涯に詳しい元石巻市教育長の阿部和夫さんによると、多摩3郡を東京に組み入れることに地元は激しい反対運動を展開したが、富田は自ら地域を回り、誠意をもって説得した。

 それが実現したことで府民の命を守る水を確保するに至った。恩恵は現在にまで続いているのだが、こうしたことを知っている都民は一体どれだけいるのだろう。

 前述したように、度重なる石巻のコレラ禍を終息させたのも〝水〟だった。

 大正中期からの懸案だった上水道の整備は財政的な問題でなかなか進まずにいた。それを動かしたのは、昭和4年に町長として14年ぶりに再登板した石母田正輔だ。公言した「市制施行と水道の二大事業」に向けて手腕を発揮し、8年にいずれも実現させた。安心できる飲用水の確保と同時に市民の衛生思想の高まりもあって、長年にあたる疫病の苦しみから脱却できた。

⑤上水道落成記念(石巻日日新聞記念誌より)  (2)

昭和8年の上水道通水記念式典の参列者たち

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 歴史的にみても疫病の流行は社会変革のきっかけになってきた。代表的なのが14世紀のペストの大流行だ。それまで支配層にあったカトリック教会の権威を失墜させ、宗教革命とともにルネッサンス(文芸復興運動)を生んだ。

 国内では、例えば江戸末期。西洋医学を学んだ蘭方医は漢方医より軽んじられていたが、天然痘やコレラの治療、予防に専心した大槻俊斎らの活躍を世論が後押しし、幕府も公認する存在となった。

 100年前のスペイン風邪は、日本国民に感染予防対策としてのマスク着用を習慣化させた。コレラ、赤痢、チフスなどの防疫を目的に上下水道が発達した。

 今回の新型コロナウイルスも〝新しい生活様式〟を生み出したが、それだけではとどまらない現代人の意識改革が求められそうだ。以前から叫ばれている持続可能な社会形成が、コロナ時代には一層進んでいくかもしれない。後世の人々が顧みた時、どのような転換点となるのだろうか。
【平井美智子】


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