見出し画像

石巻が育てた天才彫刻家たち 第2部 昭和4年8月 キーパーソン「渡忠」

 私の目の前に達の昭和4年の日記があります。巻末の人名録には初代忠犬ハチ公の制作者安藤照や村田勝四郎などの美術仲間の住所が並んでいます。その中に「石巻 渡忠 石巻町中町内海橋通り」という記載がありました。6年7月の石巻訪問以前のことを再度調べた時、巻末で見つけました。

 最初に調べた時は、主な出来事と作品制作ばかりに目がいっていたため、石巻関連で見逃している部分がありました。日記に初めて石巻のことが出てきたのは、4年8月24日でした。

 「石巻渡忠氏から過日問合せの銅像設立の件の返答に接した。未だ具体案なく只僕に対して好意を持って居るとの由」。前後に詳しい記述がないため、「誰の銅像なのか」「好意を持っているのは誰なのか」「結果がどうなったのか」も当初は分かりませんでした(後に第1話で書いた鹿又村の高橋三郎翁ということが判明)。

画像1

昭和4年の日記(しばたの郷土館所蔵)

 この年の記述は、1日分と人名録だけでしたが、石巻町の知人に渡忠がいたということが分かりました。

 5年は4月14日の「石巻渡忠氏から石巻築港の起工式当日用の前掛けの図案の依頼」。16日の「午後、島、石巻渡辺、文等へはがきを書く」の2日分でした。

 6年になると石巻関連のことが急増します。主なものは1月24日「石巻渡辺氏から桃生郡鹿又村の社会公共事業功労者高橋三郎翁銅像建設の通知に接した」。5月12日「(白石で)渡辺忠右ヱ門氏に初めて会った。夜分、渡忠、佐忠と快談した」。30日「立像のブロンズを石巻へ発送」。31日「石巻渡忠氏へ手紙と写真とを出す」。6月4日「石巻から『水から』が届き感謝の電報が来た」

 この年の記述で、渡忠は渡辺忠右ヱ門という名前だった、渡忠とは5月まで手紙のやり取りだけだったということが分かりました。また、達は石巻に知人がいなかった頃、渡忠のことを「石巻」と呼んでいたようです。

2※石巻渡忠を残して、他はぼやかすように

巻末の名簿に「渡忠」の名前が記されている(同)

 最近、達の親友だった佐藤忠太郎(佐忠)の身内の方から、渡辺忠右ヱ門(渡忠)は明治20年生まれで、白石の佐藤家から石巻の渡辺家に婿入りした佐忠の叔父だと聞きました。もしかすると7月の石巻訪問は、渡忠と初めて会った5月、夜分に3人で快談した時に決まったのではないでしょうか。

 日記をすべて見て分かったことですが、渡忠は役場職員(石巻町・市)でした。内海橋通から南鰐山に転居しています。重要人物の渡忠ですが、石巻に関する文献に全く情報がなく、具体的な人物像が分かっていません。

 連載開始から、いきなり訪ね人のコーナーになってしまいますが、渡辺忠右ヱ門や身内の方のことを知っていたら教えてください。【鈴木哲也】


筆者プロフィール-01




最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。