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石巻が育てた天才彫刻家たち 第1部 英吉と達⑨ 令和2年 新たな作品との出会い
私の手元に英吉作品の石こう像の写真があります。私が英吉の参考書と思っている「青春の遺作 高橋英吉 人と作品」にも写真がない新たな出会いの始まりです。
初めて幸工房を訪問した時、事前の電話で幸子さんに英吉作品の所有について聞きました。手元には残っていないということでしたが、訪問した際に「そういえば、7年ほど前に戻ってきた石こう像があるよ」と教えてくれました。
次の訪問で、微笑んだ男性が足を組んでいすに座り笛を吹く像を見せていただきました。柔和な顔が英吉の顔と重なり、心が和みました。一緒に金属の棒がありましたが、笛の代わりだと思われます。
奇跡的に幸子さんたちのもとに戻ってきた石こう像
また、表面をよく見ると、たくさんの×印がありました。達は木彫作品を作る時、石こう像(原型)に×印を付け、彫刻技法の「星取り法」で木材に転写していました。きっとこの石こう像にも同じ技法で制作された木彫作品があるはずです。
奇跡的に戻ってきた石こう像は戦時中、英吉が東京から逗子に住む妻の澄江さんの母タカさんの家に持って来たそうです。その後タカさんは疎開しなければならず、近所の知人に「大事なものだから」と言ってこれを預けたそうです。
戦争が激しくなりお互いの所在が分からなくなったため、知人は石こう像を返せませんでした。その方は娘さんに「高橋英吉さんの大事なものだから」と言い残し亡くなったそうです。
ある日、娘さんがお宝鑑定の番組を見ていると、英吉作品が登場したそうです。これがきっかけで澄江さんの所在が分かり、石こう像が戻ってきたのです。
橋本資料の中にあったスケッチ
後日「青春の遺作」を見直すと石こう像のスケッチがありました。さらに橋本晶資料(本間英一さん保管)には、英吉が書いた作品一覧(11作品)にこの像らしきスケッチがありました。もう1つ、作品名と制作年月、所有者等を書いた一覧(15作品)がありました。
これはあくまでも私見ですが、作品一覧のスケッチと英吉関連の本に出てこない、この像に合う作品名が両方の一覧にあることから、作品名は昭和15年9月制作の「童子和音」で、当時の所有者は仙台の人ではないかと考えました。
幸子さんは「石こう像を石巻で展示してほしい」と言っていました。きっと令和3年開館の石巻市複合文化施設で他の英吉作品と展示されるでしょう。たくさんの人に見てもらい、新聞等で紹介されれば木彫作品が発見されるかもしれません。新たな出会いが再び生まれることに期待しています。
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