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石巻が育てた天才彫刻家たち 第2部 昭和8年5月 日和山にあった迎陽閣

 私の目の前に「宮城懸人」(昭和8年5月発行)という本があります。まねきショップ(石巻市門脇)の本間英一さんが所蔵しているもので、東京の宮城県人社が月刊で発行していた、宮城県の歴史や出来事を紹介する本です。

 この中で、玄生という人物は新しく誕生した石巻市のことを書いています。主な内容は、石巻を訪れ、日和山の鹿島御児神社の境内にあった「迎陽閣」で石母田正輔初代石巻市長と会談し、市長になるまでの経緯について聞いたということです。

1 宮城県人 市制施行記念 石巻特集号

「宮城懸人」の市制施行記念石巻特集号(本間英一さん所蔵)

 この日はここに宿泊したのですが「筆者は、迎陽閣の一室、小室達君の彫像のある室にて疲れを休めることにしたのであった」と記しています。私はこれを読んで、迎陽閣と達作品について知りたくなりました。

 本間さんから「石巻市の公舎だったはず」と教えてもらったので、日和山をキーワードに図書館で調べ始めました。最初に見つけた「牡鹿郡案内誌」(大正5年、髙橋鐵牛著)には「大正2年の夏、樹齢三百年の老松古杉が大風によって倒れたため、日和山奉賛会の有志者は社務所を新築し、迎陽閣と名付けた。休憩所として兼用され、風流を愛する人や参詣に来た人が風景を眺める場であった」と書かれていました。

4 帝展10回出品の「舞」

帝展10回出品の「舞」(しばたの郷土館所蔵)

 次に見つけた「新石巻案内」(昭和6年、佐藤露江著、郷土社書房)では「町営小会堂にして、遊覧客その他休憩のために開放す」、「観光石巻」(昭和25年、石巻市役所商工課発行、編纂者・佐藤露江、印刷所・石巻日日新聞社印刷部)では「市公館迎陽閣があり観光客の休憩所に充てられている」と紹介されていました。建物のことは分かりましたが、達作品のことは、どこにも載っていませんでした。

 ある時「石巻市史第5巻」の日和山の部分でずっと知りたかったことが見つかりました。始まりは前の3冊と同様でしたが、後半に「昭和4年、石母田正輔が町長に就任した時、帝展(帝国美術院展覧会)無鑑査の彫刻家小室達(柴田郡槻木町出身)は、同年帝展に出品のブロンズ『乙女の像』(高さ1米)を祝賀のために寄贈した。同町長はこれを公会堂備品とし、永く迎陽閣の床の間に飾ったがいつか何ものかの手によって処分され行方不明となったのは惜しい」と書かれていました。

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迎陽閣の表玄関

 達の出品歴や出身地まで知っている編集者は誰かと巻末を見ると…、佐藤露江でした。そういえば露江墓誌に石巻市史の編さんについて書かれていました。

 4年の帝展出品作品は、つま先立ちの女性が両手を挙げている「舞」です。達は「バレエ」「ダンス」と呼ぶ時もありました。第10話の露江に書いた手紙で「日和山に作る噴水に帝展十回のダンスを置いてはどうか」と伝えたのも、この作品です。ある時から行方不明のようですが、戦時中に金属供出にあったのではないかと考えています。

3 迎陽閣の竹の間から見た市街

迎陽閣の竹の間から見た市街

※豆情報 しばたの郷土館には石こう像の「舞」が展示されています。達の出身地のJR槻木駅前には、平成になってブロンズ化された「舞」があります。


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