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「聖火リレー娘と一緒に」 石巻市恵み野・鈴木典行さん

 未曾有の大災害となった東日本大震災から間もなく10年を迎えます。石巻市、東松島市、女川町から成る石巻地方は悲しみの中から立ち上がり、復旧、復興を遂げてきました。そこには一人一人の思いや願いがあります。地元紙として「次代への軌跡~東日本大震災から10年」を企画し、歩みを振り返りつつ、人の心に触れました。

心の復興程遠く 2段目

 「震災から10年でも区切りや節目と感じることはない」。石巻市針岡に住んでいた鈴木典行さん(56)=同市恵み野=は、津波で大川小6年生だった次女真衣さんを亡くした。今は大川伝承の会共同代表として語り部活動を続け、当時の様子を伝えている。復興を最大10段の階段で表せば「新しい街ができることが復興なら6段。でも心の復興は2段」と語る。

 あの日、勤務する同市内の会社で地震に遭遇。「大川小周辺に津波が来ている」との話を聞いて、すぐ向かい、大川中まではたどり着いたが、その先は道路が寸断されていた。

 翌日、他の保護者と子どもたちを探し、体を傷つけないように手で土をかき分けた。一人、または一人と見つかる中、真衣さんの姿があった。

 すぐにも家に連れて帰りたかったが、遺体安置所での確認が必要となり、引き渡しは数日後だった。その後も毎日、学校周辺で他の保護者とともに捜索を続けた。「いままで一緒に『わはは』と楽しんでいた家族があの日を境にいなくなった」と振り返る。

語り部として大川伝承

 大川小を巡り、市は学校管理下で子どもたちが犠牲となった真相究明のため、第三者委員会を設けた。「本当は市と一緒に検証をしたかった。誰を責めるわけでもなく当時の状況を知りたかったが、経緯を確認すれば必ず『誰が』と名前が出て責任の話に至る。だから市は第三者委を置き、直接の話し合いの場を避けたのだと考える。うやむやにされたのが許せなかった」と話す。

 審査後、大川小には教育、防災、企業などから多くの人が訪れる。そうした人々に当時の状況を伝えることを続けた。語り部として話していたわけではない。「物が壊れるのは仕方ないが、命は壊れてはいけない。同じような経験を他の人にしてほしくない」。その思いを話すうち、いつしか周囲から語り部と認識されるようになったという。数年後に「大川伝承の会」の共同代表となった。

鈴木さん (2)

聖火リレーを通じた教訓発信を語る鈴木さん

 話す時は、いつも当時を思い出す。「いつも真衣が隣にいるから続けてこられた。ここを訪れる子どもたちには、生々しいとか少し怖いと思う話もするけれど『逃げなきゃ死んじゃうんだよ』という事実を学んでほしいから」と鈴木さん。

 語り部活動を続ける中、延期となった東京五輪が近づく。「復興五輪であり、大川小の前を走ってほしいが、コースは中心部のみ。悲しいなと思った時、『そうか自分で走ればいい。トーチを持って聖火リレーを走り、その足で大川小を走ろう』と考えた」。聖火ランナーに応募し、選ばれた。

 「真衣と一緒に走りたい」と、震災の日に自宅に真衣さんが忘れていった名札を付けて走ることを決めた。「名札を付けて走ることで、大川小のことを知りたいという人もいるはず」と、復興五輪として教訓発信の場にもしていく。

 聖火リレーは、6月中旬。鈴木さんは「アスリートが頑張れる場所があって、それを見て微笑む姿があるのが五輪。その一部として聖火ランナーをさせてもらう。自己満足かもしれないが、石巻の地を手を振って走りたい。目的は真衣と一緒に走り、大川小を走ること。しっかり走りたい」と語っていた。【横井康彦】


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