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石巻が育てた天才彫刻家たち 第2部 昭和10年5月 石巻が生んだ代表作

 私の目の前に「石巻市長 石母田正輔」と記された芳名録があります。これは達が伊達政宗公騎馬像(政宗像)の小品(小型の像)を頒布した人の名簿です。

 達が昭和8年から制作し始めた政宗像は、10年5月に仙台城址に設置されました。これを見た多くの人は戦いに行く姿と思うようですが、達は政宗が采配(扇)を腰に当てて仙台城に入場し、新しい街を造ろうとしている姿を表現したのです。

⑭1 伊達政宗公騎馬像小品①

伊達政宗公騎馬像小品

 東京のアトリエで完成した約4トンの政宗像は、トラクターに付けた荷台に乗せられ、仙台まで運ばれました。一緒に移動した達は各地で歓迎を受け、喜びの気持ちで仙台に到着しました。が、除幕式の前日に入った連絡は「制作者の挨拶はなくなった」。展覧会への出品をやめ、一世一代の仕事として宮城県民のために取り組んできた達にとって悲しい出来事でした。

 5月23日に行われた除幕式の後に開催された知人との祝賀会で、達は幻の挨拶文を披露しました。そこには、自分のことを前面に出すのではなく、お世話になった人たちへの感謝の言葉が記されていました。

⑭2 藩祖伊達政宗卿御像頒布会記念芳名録

藩祖伊達政宗卿御像頒布会記念芳名録

 その後、達は支えてくれた人たちからの要望に応えて政宗像の小品を制作、頒布することにしました。11年11月に希望者の名前が書かれた「藩祖伊達政宗卿御像頒布会記念芳名録」を完成させ、12月15日に小品を伊達家に納入しました。この芳名録に正輔の名前が記されていたわけですが、そこに渡辺忠右ヱ門、佐藤露江、小室十郎ら石巻の知人の姿も見える気がします。

 完成から8年後の昭和18年、達のもとに再び悲しい連絡が届きました。内容は、政宗像の出陣式への参列依頼でした。太平洋戦争の情勢が厳しさを増す中、軍による金属供出が行われていました。宮城県の象徴である政宗像も例外ではなく、むしろ県民に広く知らしめるため出陣式という形で台座から降ろし運び出されたのです。

⑭3 芳名録の石巻市長 石母田正輔

芳名録の「石巻市長 石母田正輔」(上下ともしばたの郷土館所蔵)

 戦後、傷ついた政宗像が塩釜の鉄工所で発見されました。これを見つけた郷土史家が買い戻すための資金を集めている間に少しずつ解体され、再び訪れた時には、胸から上しか残っていませんでした。現在は、仙台市博物館の裏庭に置かれています。顔には大きな傷はありませんが、引きちぎられたような腕の部分からはこうした逸話が想像できます。

 達は、亡くなる前年の日記に政宗像の復元について記しています。生前にこの願いはかないませんでしたが、昭和38年に実現しました。柴田町で保管されていた原型(石こう像)を基にあの勇姿がよみがえったのです。

 達は昭和6年から政宗像制作の開始まで何度も石巻を訪問し、各分野の人との交流により高橋三郎翁像、光明皇后施薬之像を制作する機会を得ました。達が政宗像の制作者になったのは、もちろん本人の努力や周りの人たちの力添えがあったからだと思います。が、加えて石巻での出来事が、完成に至るまでの大きな原動力になったのではないでしょうか。

※豆情報 政宗像の制作過程は、石巻市図書館にある「みやぎの先人集2」(宮城県教育委員会平成30年発行)に載っており、高橋英吉や達の親友の佐藤忠太郎(白石紙子の工芸家)も紹介されています。インターネットでも本の題名を検索すると見ることができます。

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