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江戸時代が悲惨な時代はうそ! 鎖国をしていなければ外国に侵略されていた! 秘密の大奥その謎の実態に迫る!幕府の政策編前半 賢者は歴史に学ぶシリーズ⑦

前回は、織田信長が庶民のための国を
つくるため、豊臣秀吉や徳川家康と
協力しながら天下統一を
目指していた話をしました。
まだ読んでいない方はこちらから

そして、260年続いた江戸時代!
本当の江戸時代の姿に迫ります!
賢者は歴史に学ぶシリーズ⑦⑧⑨の
3回に分けて今まで習ってきた江戸時代の
誤解を解いていきます!
江戸時代ってどんなイメージがありますか?
鎖国していて閉鎖的。
多くの年貢を納めなければならず
役人は偉そうにしていて
農民に対して不当な扱いをする
人々はいつもお腹を空かせていて
餓死や貧困など苦しみながら生きていた
江戸時代の人達・・・
そんなイメージはありませんか?

いえいえ、そんなことはありませんでした。
江戸の人達はゆったりのんびり
四季や生活を楽しみながら暮らしていました。
労働時間は1日3~4時間くらい。
その時間も追い立てられるように
仕事はしません。あくまで自分のペースで
仕事をします。物は持っていなかったけど
現代と違って心の豊かさがありました。
生活を楽しむ余裕がありました。
私たち庶民の生活がおかしく
そして苦しくなったのは明治維新からです。
「明治維新バンザイ」にするために
江戸時代が悲惨な時代というイメージに
されてしまいました。
「勝者によって歴史はつくられる」
「勝者に都合が悪い歴史は消される」
学校で習った歴史はそういうものだと思います。

1608年から1868年の260年間は江戸時代。
明治維新から2022年の現代社会までは154年間。
江戸時代本当に長く続きましたよね。
庶民が本当に圧政などで苦しんでいた時代なら
こんなに長くは続かないと思います。
幕府にただ従っているほど
江戸の庶民は甘くはない。
自分達には人権があるという意識もありました。
そして、江戸時代の260年間は
戦争はなかったんです!
ただの一度も!!
しかし、明治維新になってから
戦争!戦争!戦争!のオンパレードで
国民が戦いに巻き込まれ
食うことも難しくなり
明日死ぬかもしれないという
大変な生活をしていました。
この事実だけでも江戸時代のほうが
平和だったんじゃないかと思いますよね。

いよいよここからが本題です。
まず、江戸時代の誤解を解くために
今回は江戸の政治にフォーカスして
みたいと思います。

以下、江戸の政策で誤解されがちな
8つのことを解説していきます。
最後まで読んでもらえると嬉しいです。
①鎖国
②大奥
③参勤交代
④士農工商
⑤役人
⑥年貢 
⑦生類憐みの令1687年
⑧天保改革1841年

まず①鎖国ですが
「鎖国は天下の愚策だ!!」なんて
言われていましたよね。
「海外と交流を制限したために
日本は世界から取り残されたのだ。」
なんて意見もありました。
はっきり言います!!
鎖国をしていなければ
日本はとっくに外国から侵略されていました。
侵略されていたら「日本」という国も
消されてなくなっていたでしょう。
そして
「日本は世界から取り残されていた」
という意見も見当違いだと思います。
江戸時代に日本独自の文化が華開き
それが海外で逆輸入される形になり
「ジャポニズム」という日本ブームを
巻き起こしました。
マネ、モネ、ゴッホ、ゴーギャン
ドビュッシー、ロダン、ムンクなど
世界的に有名な芸術家たちに影響を与えました。
日本が世界から本当に遅れているなら
こんなに影響を与えられないと思いますが
どうでしょうか?
江戸時代の日本の文化レベルの高さ。
それも西洋のような王様や貴族だけの
物じゃなく、庶民も芝居や浮世絵を
楽しんでいました。
庶民の生活に余裕があるから
庶民が文化を楽しむことができ
このような日本独自の文化が
花開いたのだと思います。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が
庶民のための国づくりをするため
天下統一を目指したことは
前回お伝えした通りです。
途中変更があって徳川家康が
天下を治めることになりましたが
庶民のために江戸時代が
つくられたことは変わりありません。
ただ、天下統一をするときに
織田信長の頭を悩ませた問題の1つに
外国諸国との関係がありました。
当時はコロンブスの大航海時代。
新しい土地を発見して、外国諸国は
自分達の領土を拡大していました。
実態は、先住民の人権などおかまいなしに
富を見つけると容赦なく奪い
住む人たちを排除し、奴隷として
こきつかっていました。そんな時代です。
日本も同じように、外国勢力が日本を
自分たちの領土にしようと目をつけていました。
そして、外国諸国が土地を奪い
侵略するためにある人達が
重要な役割を担っていました。
それはどのような人たちだと思いますか?

宣教師です。
日本だとフランシスコ・ザビエルが有名ですね。
宣教師!?と思われた方もいると思うのですが
この人たちが脅威になります。

まず侵略したい土地を見つけると
その土地に宣教師を派遣します。

宣教師は表向きの姿で実はスパイです。
布教するという名目で各地を歩きます。
その国の隅々まで知ることができます。

その情報を本国に流します。
地理などもそうです。
当時は地形を知ることが占領するための
重要な鍵でした。

そして、その土地に住んでいる人に
宣教師は「自分達の文化を広めること」
「考え方を変えること」をします。

内側からその土地に住んでいる人たちの
文化を壊していきます

そして、機が熟す頃に
武力で制圧します。
これが侵略までの典型的なやり方です。

宣教師は愛と平和を説いている宗教を
人々に教えながら、一方で侵略するための
スパイとしての役割を担っていました。
残念ながら、宗教というものが利用され
支配するためのツールとして
使われていたのです。
支配者たちは、本当の愛や平和とは
何かを分からなくするために
宗教を使って人々を分離させ
戦い合わせます。
そのほうが支配しやすいからです。
そして、支配者の考え方は
西洋人(カトリック信者、白人)だけが
神の子であり
他の人種は人間以下の存在
という考え方です。
だから、侵略する場所を見つけたら
どんな非道なことをしてもいいと
思っていました。
人間に対しての愛や平和は
西洋人(カトリック信者、白人)だけであり
それ以外は支配の対象でしかなかったのです。
だから、そこに住む人の人権など
おかまいなしに容赦なく排除して
富を奪っていました。
先住民を捕まえては、奴隷にして
売ることも何も悪いことだと
思っていませんでした。
しかも、それが「正義」だと
彼らは思っていました。
人間(カトリック信者、白人)以外には
何をしてもいいと思っているし
自分達に支配されることが
彼ら(先住民)も幸せになると考えていました。
そのためなら、どんな手をつかってでも
服従をさせるという考え方です。

いやー恐ろしい。
でも、もっと恐ろしいことをいうと
今の現代社会のトップエリート
(政治家よりも上の立場の人達
イルミナティーなど)は
この思想、この考え方なんです。
だから、人々の生活がどうなろうと
苦しくなろうとおかまいなし。
庶民のことは人間と思っていません。
家畜と思っています。
それが、今のトップエリートの考え方です。

そして、日本を侵略するために
戦国時代にザビエルが
宣教師としてやってきました。
ザビエルの本当の目的は
日本侵略だったのです!
そして、ザビエルの次に
本格的に派遣された宣教師が
ルイス・フロイスです。
新しい物好きだった織田信長は
さっそくその情報を聞きつけて
どうしても会ってみたくて
実際にルイス・フロイスに会いました。
そのときフロイスは、今までの経験から
自分達のほうが文化的にも武力的にも
優れている自信があって、どこにいっても
常に相手を見下していました。
これまで侵略してきた民族は自分たちが強気に
出れば、怖がって反抗することをあきらめて
支配されることを受け入れました。
だから、今度も最初から織田信長に対して
威圧すればいいと思いました。
初めて2人が会ったときも
最初に上から出て、威圧をすれば
力関係はすぐに出来ると踏んでいました。
ところが、織田信長の場合は
そうはいかなかったのです。
織田信長はそんなことでは怯みませんでした。
フロイスから目をそらさず、何も話さず
ただ、フロイスを見つめました。
フロイスはビックリ!!しました。
その手しか考えてこなかったフロイスは
反対にどうしていいか分からず、困りました。
その動揺しているフロイスの心を
織田信長は読んで、フロイスに向かって
にっこりと笑いました。
堂々とした笑み。
下からごまかしで見せる笑みではなく
あなたと私は対等であると主張する笑み。
その誇りに満ちた笑みを見てフロイスは
「これはすごいひとだ!!」と思ったそうです。
初めて自分達と対等に話す人物と出会った
瞬間でした。フロイスは
織田信長の気迫
聡明さと醸し出す気品に驚き
圧倒されました。
そして、織田信長の話した内容にも驚きました。
いつものように、自分たちの理想とする
国づくりの話をフロイスに熱く語った織田信長。
「庶民が平和に楽しく豊かに暮らせる国を
創りたい。そのために今自分たちは
こうして戦っているんだ。」と。
それまでフロイスにとっての
国王や貴族は、庶民の幸せなど考えず
人々を制圧し、他の国や土地を占領し
自分の富や名声を広めることだけに
躍起になっている人たちのことでした。
それが当たり前だと思っていました。
ところが、そうではない人間がいることに
大きなカルチャーショックを受けたのです。
フロイス自身もまた、そんな国王や貴族の
片棒を担いでいることに気付きました。
熱く語る織田信長の前で自分達の
していることが恥ずかしくなりました。
それと同時にフロイスは織田信長に
尊敬の気持ちを抱きました。
そして、織田信長とフロイスの間に
深い友情が芽生えたのです。
そして、フロイスは自分が来た本当の目的
(日本侵略)を織田信長に話しました。
さすがに、これには織田信長も驚きましたが
この貴重な情報をどう使うか考えたそうです。
強大な武力を持つ国々とまともにやり合って
勝てるわけもなく、穏便に事を
進めようとしました。
一応は受け入れる態度を取りながら
少しずつ関係を細くしていく方向で
動くことにしました。
宣教師の受け入れの人数を減らしたり
自由に動き回っていた宣教師の動きに制約を
かけたり、こちらの情報が流れないように
そして、日本の文化が壊されないように
守っていくことにしました。
それが、後々の日本の鎖国への道へと
つながっていきました。
日本を守るために国を閉ざしたのです。
織田信長がそれをしなかったら
もっと早くに日本は占領されていました。
そして、重要な情報を織田信長に流した
フロイスでしたが、織田信長が
「フロイスから情報を聞きました。」と
誰かに言わない限り、フロイスのことが
本国にばれることはなかったので無事でした。
反対に、フロイスは「日本は今までの国の
ようにはいかない。この国を侵略するには
かなり困難だ」と報告してくれました。

そして、豊臣秀吉の時代になり
バテレン追放令というものが出されました。
このときはまだ強制的な禁教を
するためではなく
「少しずつ進めていきます」
という意思を表明するものでした。
しかし、ある事件が起きてから
穏便にはできなくなってしまいました。

サン=フェリペ号事件
二十六聖人処刑という事件です。
土佐国にスペイン船が漂流したのですが
土佐の人々が乗組員たちを町に幽閉して
所持品をすべて没収、航海日誌などの
書類をすべて破棄しました。そのことに対して
船員の人が直接、豊臣秀吉に抗議をしようと
都に行ったのですが、そのとき交渉の
仲介を頼もうとしていたフランシスコ会など
スペイン系の宣教師を豊臣秀吉は捕らえて
処刑したという事件です。豊臣秀吉が
キリスト教徒に対して行った直接的迫害。
ここまでが教科書の話です。

実は、土佐の人々はスペイン船が漂流したとき
人として礼をつくし、客人として
もてなしていました。
しかし、この船に乗っていたスペイン人は
軍人であり、ある勘違いをしていました。
当時のスペインは他国をどんどん侵略して
いました。ペルー、メキシコ、フィリピンを
武力制圧してきた経験から、日本もいずれは
同じように自分たちの植民地になり
日本国民は自分たちの奴隷となる運命だと
勘違いしていました。
だから、助けてくれた土佐の人々に対しても
無礼な態度をとったり、荷物を触っただけで
腕を切ったりする傍若無人な事をしました。
その話を聞いてひどく怒った豊臣秀吉は
織田信長から聞いた話は本当だと思いました。
宣教師は前乗りのスパイ。
そのあとは武力で侵略に来るという話。
このままでは日本も他国のように植民地に
されてしまう。
悠長なことはしていられないと思いました。
急いで禁教令を出して、都で宣教活動していた
キリシタンの宣教師を捕らえて処刑することに
しました。日本を狙っている欧米に対して
思い通りにはさせないという強い意思を
豊臣秀吉は見せたのです。
これが本当の事実です。
いやー歴史って一方的な方向でみるのは
危険ですね。同じ事件でも
大分事実が違ってみえます。

そして、江戸時代になり
三代目徳川家光の時代に起きた島原の乱。
この頃は豊臣秀吉の時代よりも
多くの外国諸国が日本を占領しようと
ねらっていました。
まだ、江戸時代もこのときは完全に
鎖国という状態ではありませんでした。
そして、外国諸国とうまく関係を
作るということは大変難しい状況でした。
食うか食われるかの世界。
外国諸国にとって、アジア、アフリカは 
侵略、征服する対象でしかなく
日本と対等な関係を結ぼうなどとは
最初から考えていないことを 
徳川家康は嫌というほど知っていました。

残念ながら、今でもアジア、アフリカは
搾取の対象です。その証拠に
政治家さんは気前よく海外に
お金をばらまいていますよね。

話を戻して、江戸時代のその時代に
外国諸国がよく使っていた手があります。
それは、宣教師をその土地の人に殺させること。
それを口実に開国、交流を迫り
最後には武力で侵略、占領する手口。
汚い手口ですよね。
これを日本でもやろうと企んでいました。
それをいち早く察知した三代目家光は
その手を逆手に取りました。
島原のキリシタンたちを刺激して
一揆を煽りました。
それを幕府が鎮圧。
その後
「こんな風にキリシタンの思想は
危険だから今後一切禁教とする」
というところまで持っていったのです。
うまくいくか分からない
スレスレギリギリの対策ですよね。
結果、鎖国できたからよかったですが。
外国諸国から日本を守るためには
貝のように固く閉じることが必要でした。
鎖国は外国から植民地にされることを
防ぐための素晴らしい政策であり
日本国民を守るためのものだったことを
お伝えできればと思います。

②大奥
これも世の中のイメージだと
将軍様のハーレムとか
権力争いとか思い浮かべる人が
多いですよね。
ドラマや映画とかの影響も大きかった。
小池栄子の顔の演技が今思い出しても
怖いのを覚えています。
実は大奥で起こったことは
あまり分かっていないらしく
将軍に近いところで仕事をするので
「大奥で起こったことは
絶対に口外致しません」という
誓約書を書かされたそうです。
でも、実際どんなものであったか
気になりますよね。
前回の「賢者は歴史に学ぶシリーズ⑥」を
読んだ人は分かると思うのですが
織田信長は世襲制を嫌いました。
血縁だけで能力関係なく、すべてが
引き継がれるのはおかしいと思ったからです。
また、生まれたときからチヤホヤされる
環境にいることで、権力や利権に執着し
「庶民は自分の所有物」と
勘違いすることを危惧していました。
徳川家康も同じ考えでした。
実は本当の大奥とは将軍のハーレムではなく
教育のためにつくられた機関です。
???となった方に。
この頃は、世の中の大名たちを
納得させるためには世襲が必要でした。
「将軍の血筋」
そのことだけで納得する時代でした。
反対に血筋ではない人を
将軍にすることは納得しない。
納得しなければ、自分が将軍になるという
人が出てきて権力争いに発展しかねません。
でも、本当の世襲はダメということで
できたのが大奥の制度です。
表向きは将軍の血筋を残すための機関という
ことにして、実際はいろいろなところから
リーダーとして適任のありそうな子を
連れてきて育てていた機関でした。
なので、庶民の子でも、武士の子でも
良かったのです。子ども達をスカウトする
専門の人達もいました。
スカウトしてきた子ども達を育てていくのが
大奥の本当の役割でした。
そんなところなので
女の闘いもなかったそうです。
子ども達の世話をするのに忙しく
闘いをしている暇はなかったらしく
大奥の女性たちは情報交換をしながら
仲良くしていました。
そして、スカウトしてきた子達の中から
その時に一番適した子を将軍として
選んでいました。
どんどん変化していく時代に合わせて
そのときに一番合う適性の子を選びます。
例えば、徳川家康の後に将軍になったのは
秀忠ですが、律儀で実直な実務派でした。
それは、徳川家康が引退はしましたが
実はまだ、いろいろな政策をつくり
政務をこなしていました。
引退したのは、将軍としてではなく
ちょっと引いた目で見ることによって
どんな政策が必要かわかるからです。
表向きは将軍を譲って、違う角度から
基礎固めをしたいと考えていました。
その時に必要なのは、徳川家康のアイディアを
律儀にこなしてくれる子でした。
自分の思ったことをどんどんやる
アイディア行動派は
ここでは適材ではないと判断しました。
アイディア行動派は
そのときの時代に合わせて
必要になったときに将軍になってもらう
そんな感じです。
次の三代目の家光は行動派を選びました。
鎖国を急ぎたかった家康は
出来るだけ早く鎖国したいと考えていました。
そのためには、機転の利く行動派が必要で
家光が選ばれました。
島原の乱で鎖国に成功したのは
さっき書いた通りです。
徳川家康の適材適所として
人を見る目の才能はずば抜けていました。
そして家光といえば参勤交代の制度を
つくった人ですよね。

③参勤交代
参勤交代の制度は教科書で習ったときには
いいイメージがなかったです。
大名の奥さんや子どもを人質として
江戸に住ませて、定期的に地方から
江戸に出てこさせることで
財政的に負担をかけ、幕府に対しての
謀反を起こすためのお金を貯えることを
出来なくさせるための制度。
また、参勤交代の長い行列が続く限り
庶民は地面にひれ伏さないといけなくて
とても大変な思いをしたという話も
ありました。
なんてひどい制度なんだろうという感じです。

実はこの制度
ずいぶん誤解して伝わっています。
まず参勤交代の目的は
地方の大名が独りよがりの勘違いを
しないようにするためでした。
???となった方に。
大名たちは部下や庶民から「お殿様」と
持ちあげられます。そして長い間その状況に
いると自分は偉いんだと勘違いし始めます。
気づけば井の中の蛙状態に・・・
「庶民は自分の所有物」
なんて思いはじめないように
定期的に江戸の幕府に顔を出させていました。
「国があっての庶民」
「庶民によってこの国は成り立っている」
そのことを忘れないようにするため
大名たちが勘違いしないように
幕府側は大名たちに釘を刺していました。

そして大名の奥さんや子どもを人質として
江戸に住まわせていたのも嘘です。
江戸が大名にとっての本当の勤務地で
任された土地に大名が赴任しているのが
正しいです。例えていうなら
会社の命令で単身赴任をしているお父さん
という感じです。
だから、奥さんや子どもが江戸にいることは
不思議でもなんでもありませんでした。

また、参勤交代の長い行列中
庶民は地面にひれ伏さないといけない
という話も実際はそんなことは
ありませんでした。
庶民は脇によけて道を譲るだけで
よかったそうです。
それどころか
庶民は行列を楽しみにしていたそうです。
大名によってそれぞれ行列の特徴があり
今の感覚でいうとパレードを見に行く
感覚だったとか。
「この大名は派手だな」とか
「この大名は面白い乗り物に乗っているな」とか
大名達も自分達なりのパレードをつくって
人々に見せることを楽しんでいたそうです。
お祭りパレードという感じですね。
大名行列を見物することは 
庶民の娯楽であり、大名も
それぞれ見栄を張るために 
見栄えをよくしたそうで
ひれ伏さないといけない状況では
庶民は見物は出来ないです。
しかし、お産婆さんと飛脚以外に
パレードを横切ると切り捨てられることも
あったと言われています。
これは、変な人が邪魔をしないように
厳しめにお達しを出したということ
だそうです。今の感覚だと
舞台の最中に変な人が乱入することを
防ぐための対策でした。
この時代は礼儀にはうるさい時代でした。
侍には侍に対しての礼儀。
百姓には百姓に対しての礼儀がありました。
行列を乱さないのは侍に対しての礼儀でした。
そして、侍は許可なく百姓の田畑に入らない
という百姓に対しての礼儀がありました。
これを守らないとかなりの問題に
なったそうです。
参勤交代が楽しいパレードだったなんて
驚きですよね。
「明治維新バンザイ」にするために
江戸時代をとにかく悲惨な方向に
持っていきたかった支配者の意図が
丸わかりです。

ちなみに江戸時代は
国の脅威は外国諸国だけでは
ありませんでした。
国の中にも脅威がありました。
それは朝廷です。
朝廷はナーガ系の血を引く人達。
縄文時代→弥生時代にかけて
「所有」の概念を持ってきた
宇宙人ナーガの思想を色濃く
受け継いでいた朝廷なので
「庶民は自分達の所有物」
「庶民に対して何をしてもいい」と
考えている人達が多くいました。
そこで
庶民がこの国の基盤であることを提示して
庶民が主体の理想の国づくりのため
朝廷が政治に口を出してこないように
作った法律が
「禁中並公家諸法度」です。
表向きは幕府は朝廷の命により国を治める
でも、実際には幕府の政治に朝廷は
口をはさまないようにという法律。
名目は朝廷>幕府
実際は幕府>朝廷の関係です。
この法律は倒幕されるまで、一度も
改定されることなく続き、国内の脅威を
小さくすることに成功しました。

国内にも国外にも敵がいて
庶民を守るために政策してくれた
江戸幕府の人たちに感謝しかないです。

次は④士農工商ですが
キリがいいのでここまでにして
次回をお楽しみに。

Twitterもしています。
noteではなかなか伝えられない
情報をお伝えしているので
よかったらご覧ください。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
この宇宙に1つしかないオリジナルで
スペシャルなあなたにこのメッセージが
届けられたことに感謝を込めて。

次回は江戸の政策の誤解を解く
後半になります。
④士農工商
⑤役人(治安)
⑥年貢 
⑦生類憐みの令1687年
⑧天保改革1841年
の誤解を解いていきます。

参考文献

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#織田信長 #豊臣秀吉 #宣教師 #歴史
#賢者は歴史に学ぶシリーズ

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