ルサンチマン・我慢・顛倒した我慢
ルサンチマン
〘名〙 (ressentiment) 怨恨、遺恨、復讐感情。特に、ニーチェの用語で、弱者の強者に対する憎悪をみたそうとする復讐心が、内攻的に鬱積した心理をいう。キリスト教の道徳、社会主義運動などのなかにこの心理があるとされる。
出典:精選版 日本国語大辞典精選版
以下、私の解釈
ルサンチマンはその高慢さと自我を立証したいがためのルサンチマンであり、高慢と自我があればルサンチマンなのだ。なぜならば、それらは立証不可能だから。
つまり、ルサンチマンとは人ではなく時代である。
時代が人に「高慢と自我」=「我慢」を求めるから人がルサンチマンになるのだ。
末人を崩すには時代を崩さなければならない。
時代を崩すとは時代認識を崩すことである。
それは今すぐにできる。まずは自分から、最後の1人もまた自分。
とか言ってたら蚊が飛んできた。
いま。
左の腕に蚊が止まって血を吸っている。これさえも自分。
チクチクする。すでにかゆい。長いな。。。長いな。。。遅い、こんなにも遅いのか。ゆっくりでいいんだね。ほら、優しい世界。いや、あまりにも長い。
お、満足げに逃げてった。
現代ではこのようなことを「我慢」という。
違う!!
これはむしろ我慢ではない。
我慢の逆だ!!
逆なんだよおおおお
死後はないの!
あるのは生前だけ!
生後もないの!
我慢しちゃだめなの!
ルサンチマンになるの!
できるのは超越だけ!
なれるのは超人だけ!
いつだっていまを超えてるんだ!
自分を超えて自分を好くええええええええ
p.s.
おそらく「労働」も倒錯、顛倒している。
働きを労う(ねぎらう)のが労働であり、
それは労働者というよりむしろ感謝する側である。
つまり、労働とは互いに感謝し合い、互いを管理する生活様式。
そこに管理者は存在しえない。
それが本来の「労働」である。
つまり労働とは高天原だ。
それはそもそも人間の為せる業ではない。
人間ではどこまでいっても「生業」がせいぜいなところ。
それなのに「労働」をしようとするから痛い目を見る。
「労の語源」http://yain.jp/i/%E5%8A%B4%E3%81%86
語源は奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈る意。また、相手の労苦をいたわる意であった。
そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」などの語が生じた。
ほらね、やっぱり。
労働組合、なんという慢心。
苦労、なんという図々しさ。
人間らしくていいけどね。
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