【単語も国語もないのよ】列挙は反駁を起こし、連結は統合を起こす。生命は科学できない。

◆存在と概念◆

近頃よく、「自由と平等の両立は不可能である。」と論じているのを目にする。

個人的には、ものすごく絶妙な条件下(知と無知が奇跡的なバランスとなるように管理された環境下)でなら可能であると考える。


これを一般化するならば、

あらゆる概念の両立はハビタブルゾーンのような狭さ(低確率性、偶然性)を必要とするように思われる。

要は、そこに巡り合うか否かがそれを達成するための必要十分条件ということ、つまりは「運任せ」あるいは「奇跡任せ」ということになろう。


自由は自由以外のすべてを嘲笑う力(への意志)を持ち、

平等は平等以外のすべてを均す力(への意志)を持ち、

博愛は博愛以外のすべてを脅かす力(への意志)を持つのだ。


「諸概念」は「当概念」に対してのみ全き寛容を示す。

ゆえに列挙は反駁を起こし、連結は統合を起こす。



簡単な話だ。

「自由と平等」はほぼ不可能でも、「自由平等」は気持ち可能であり、

「自等」はさらに簡単そうに見え、もはや自明である。


そもそも「自と由」「平と等」とするだけでも、矛盾が生じ、想像しがたく、実現などありえないかように感じられるではないか。


想起可能な実物性の高い単語に1文字が多く、  
(物、猿、品、階、人、柿、、、)

想像可能な概念性の高い熟語に2文字が多く、
(善良、聡明、恋愛、人間、、、)

3文字熟語なると胡散臭く、
(非非想、為政者、 過不及、感無量、、、)

四字熟語ともなるとほぼ無意味になるのはそのためだろう。 


言葉はより煩雑になり、具体性と説得力が高まるほど、
汎用性と普遍性が失われる構造になっているのだ。


それもそのはずで、世の中には姿形ある諸現象と、

それに付随する「意」と、移ろう現象があるだけで、

全現象の中から「言語的なもの(記号、表徴)」だけをくり抜いて論ずることは、現実に対して不誠実であり、全体性に無頓着にならざるをえない。


しかしかくの世、現代では、誠に遺憾ながら、

個別具体的な緻密で細密な秘密体験(生の実感)は言語化不可能なもの、共有不可能なものとして、あろうことか「無価値」認定される始末である。


生の実感はお金にならないから。
お金がなければ生きていけないから。

ゆえに、人生が営む言語界、概念界、論理界、算術界に「生の居場所」はない。

生物界の上にそのような構造(異界)を作った当事者たちがそれを嘆く。

誠にお笑いぐさである。


***

◆存在と感覚器官◆

時代が密教に渇いている。
しかし、時代はそれを知らない。
――三密を避けるなどもってのほかだ。

時代が生命に飢えている。
しかし、時代はそれを知らない。
――微生を殺すなどもってのほかだ。


時代の細胞の多くが、「不可知なもの」を消化できない体質になってしまっている。

現代の「まともな大人」は生きていないのだ。

生きることは非科学的であり、スピリチュアルだから。


これはゆゆしき事体であるが、
大衆の多くは生命の危機を知る感覚器をそもそも持ち合わせていない。

古の昔から肉体と生命とを強く結んでいたそれは、いまや

彼らにとっては不必要な痕跡器官となってしまったかのようだ。


かつて「名もなき全かつ自かつ霊」であった『それ』

いまや「環境と肉体と生命と精神」となり、

さらに、ゆくゆくは「環と境と肉と体と生と命と精と神」になることだろう。

そのとき、自分(生の実感)はどこにあるのかと人々は考える。

突き詰めて考究し『それ』に(感覚的に)至ることができる者はその内の何割だろうか。


今はまだ無分別、無統合という領域はそれほど難しいものではない。


しかし、この先は、わからない。

いわばこれも「運任せ」でしかないのだろう。


***

◆存在と名称◆

聖書(創世記)において神は、
人類に無意味で下らない企て(神の門(バベル)の建設)をさせないために言語をバラバラに乱した(バベル)とされている。

失礼を承知で言うと、わたしはこれは筆記者の言葉遊びにすぎないと思う。


言語というものがあるとするならば、
それは統合(完成)を前に、乱れるようにできている。


国政が決して一枚板ではないように、

生命が一種類から成らないように、

宇宙がひとつではないように、

一度名付けられた『それ』の部分は、

その文脈の上で再び肉を得て「ひとつ」になることは決してないのである。


「もの」は名を受けたが最後(最初にして最後)、

部分としての「孤独」という生涯の伴侶(苦,問題の種子)を得る。

ゆえに孤独は「知的な性のもの」にとっては愛すべきものであり、

「知慮の浅い性のもの」にとっては永遠の恋敵である。


話を戻そう。

例え、何かある「ひとつ」に統合されることはなくとも、いくつかのものを精錬して鍛えて、新たな「真の如きもの(サンスクリット)」とすることはできる

その最たるものが、刻一刻と、過不足なく変成するこの「現実世界」であり、わたしはまさにその最中にいる。

ゆえに残念ながら、わたしはこの全き現実で十分満足であるため、言語の再鍛錬に取り組む意欲を持ち合わせていない。

これは我ながら誠に哀しいことである。

しかし、これ以外にライフワークとして相応しい取り組みが存在しえないのもまた事実である。

なんと度し難い不甲斐なさであろうか。

とりあえずは「奇跡任せ」でいこうと思う。


***

◆存在と意識◆

言葉(語句、文章)とは本来、一面的な「情報(解釈)」でなく、

それ自体が両面的、両義的、多面的な意味を持つ「実体(存在)」である。


それゆえ、事典と辞書は、形と役割は似ていても全く異次元のものである。


事典に順序はあってもよいが、

辞書に順序はあってはならないのだ。


というのも、 

物事(実物)を並び替えることは現実的に可能だが、

解釈(思考)を並び替えることは現実的に不可能だからだ。


物事は微小時間において静的(微分可能)であり、

解釈は微小時間においても動的(跳躍の嵐)である。


物事(現実)の動きは現実において一律であるが、

意識(精神)の動きは人によってバラバラである。


事典は現実的(確認可能)であり、

辞書は現象的(確認不可能)なのだ。


事典はそれぞれのページを単純に上から下へと順々に読み進めればよいが、

辞書を「正しく」読むためには、読者は「すべての文を同時に」読み上げなければならない。


そうしなければ、言葉(現象)の多義性と相互依存性を見落としてしまうことになる。


辞書を「さらに正しく」読むためには、

「あらゆる言語互換に対応した辞書」に記されているすべての文を一瞬で読み上げなければならない。

それをしてはじめて、人は「言語を知る」ことになるのだ。

 

(正直なところ、わたし自身もまだよくわかっていない。)

(しかし、その結果は想像できる。)


言語を知るとはつまり、「今ここ」の世界を読むことに他ならず、

自分自身が世界の一単語であるということ知ることなのだ。



そしてその全き辞書の読者は気付くだろう、

自身が順序をもった事典の中にいるということを。

自分という存在(単語)が、自らの意識によって今まさに読み上げられている最中であるということを。

また、これはマクトゥーブ(書かれている)という言葉で『アルケミスト-夢を旅した少年』でも紹介されている。


われわれは単語として別々ではあるが、同じ紙面に記されている。

われわれの生きる時空は別々であっても、同じ冊子に綴じられている。

この事典の筆読に相応しい言語、それこそが「意識」なのだ。

そこにははっきりとした単語や言語の区別はない。

「意識」はもともとグローバルであり、ユニバーサル以上なのだ。


あなたの意識は言語ではない。


人よ、少なくともコスモポリタン(世界市民)たれ


さもなくば、その意識の、鳥や虫や草木にさえ劣る、なんと狭きことか。

家も口座も、地位も名誉も、なんの価値があろう。


わたしはこの記事を愛国心で書いたのではない。

この記事は日本語で書かれているのではない。

これがわたしにとって最大限の世界言語「世界語」なのだ。

ゆえに、たぶんあまり人々には伝わらない。

それでもいまさら日本語なんて使ってたまるか。




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