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That’s 雑

今日から秋のお彼岸のようです。

野暮用を済ませがてら近所を歩くと、お花を持つ人に白檀の香りと、お彼岸らしい光景です。今日はお天気で良かったと思いました。

お彼岸といえば、今年の春彼岸にあったしょうもない出来事を思い出したので、誰のためにもならないけれど書いてみます。



「ろうそく、ついてるよ」

今年の春彼岸の最中、私はちょっとした用事があって実家に行きました。

常識といわれるものがあったりなかったりする私は、正直なところ、お彼岸の日にちもよくわかっていません。近所にお寺があるので、やたらとお線香の香りが強い日は、なにかの日なんだなあ、という程度の認知です。

春彼岸だとは知らず、立ち寄った私に母が一言、「ろうそくついてるよ」。

ろうそく?と思い、そうなんだ、ついてんだ。私は何しに来たんだっけ。あ、物を取りに来たんだ。

と思い出し、必要なものを取って帰りました。


「怒り狂ってる」

数時間後、母と同居する弟からLINEが来ました。
「(私が)拝んでいかないから、母が怒り狂ってる」。

まったくわけがわからず、弟に理由を聞いたところ、その日は彼岸の入りでお仏壇にお膳もあげてろうそくもつけたから拝んでいけって言ったのに!、ということでした。

私はそれを聞いて、なんて雑なコミュニケーションなんだろうと母同様に怒り狂ったんですね。「ろうそくついてるよ」=「拝んでいって」。こんな雑で難しいコミュニケーションがありますかな。


常識とは

いや、確かにお彼岸の日程も知らないのは、仏様もご先祖様にも失礼だろうといわれれば、そうですよねすみませんでした、となります。

でも、私と同じような30代で彼岸の入りや中日を把握している人はそれほど多くないんじゃないかなあ。

私には無宗教という言葉ほどの強い宗教観もなく、神様仏様はいるかいないかわからないけれど、いると信じていればいるでしょうというくらいで、特定の信仰も特にありません。ご先祖様は拝みたいときに場所を問わずに拝むスタイルです。

たとえば、祖父が好んで食べていた羊羹、特にとらやの羊羹を切り分けているときや、渋くておいしい煎茶が淹れられたときにはいつも祖父を思い出しています。また、ニンジンやリンゴの皮をすこし厚く剥いてしまったときにも、祖母の鋭い眼光を感じています。

要するに、日々の至るところで思い出しては、いつも思い出して拝んでいるわけです。だからお彼岸じゃなくてもいいでしょ、と思うのですが、非常識でしょうか。

地域も年代ももちろん関係しているので、一概には言えません。でも、母の「ろうそくついてるよ」で伝わると思っている自分本位のコミュニケーションは雑ではないのか……。

「お彼岸だったら教えてよ。私すぐ忘れちゃうし、家のカレンダーにそういうの書いてないからわかんなくて」とやんわり伝えて、春彼岸のちいさな事件は終わりました。


そして今日、秋彼岸

今朝、またしてもお彼岸だと知らなかった私。また実家に用があって立ち寄りました。すると母から「今日からお彼岸だよ」と言われ、おお、成長している…!と感心しました。

むしろお彼岸だとわかっていない私のほうが成長していないし、歩み寄っていないのかもしれません。反省しました。

鐘を鳴らして木魚を叩き、ぽくぽくぽく。
私のようなずぼらな人間を見て、祖父母を含むご先祖様方は「雑!」と一言で思っているだろうな。なんか、すみません……。

今日拝んできただけで偉いのではないでしょうか。やっぱり雑かな。

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