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なんかしんどい春。先手を打って心を守る準備を

左肩の上で猫が寝ている。リズミカルに聞こえてくるピーピーという音がフエラムネみたいで可愛い。とはいえ、「鼻息は何かの病気のサインかも…」と、右手で昨夜どこかに置いたはずのスマホを探してみた。

部屋の電気をつけるリモコン。エアコンのリモコン。なぜか置きっぱなしにしている一人暮らしの部屋のテレビのリモコン。

リモコンをちゃんとリモコン立てに直しておけば、スマホはすぐに見つかるはずなのに、どうしてだかこの作業がとてつもなく面倒くさい。手の届く範囲で右周辺を探してみたけど、スマホは見つからなかった。

諦めたい気持ちと調べたい気持ちがせめぎ合うなかで、何とか勝利したのは調べたい気持ち。少し体を起こしてみると、枕の上にスマホがポツリと置かれていた。

スマホを手に取り「猫 寝息 ピーピー」で検索をしてみる。多分、前もこの内容で調べていたんだろう。過去の検索の予測に全く同じものがあった。

強調スニペットには「猫が安心してて熟睡しているからでしょう」という言葉が書かれていて、安心と同時にとてつもなく愛おしい気持ちを感じる。猫と暮らし始めて3年。「愛おしい」という気持ちがここまで暖かなものであることを知れて本当によかった。

肩の上で寝ている猫の頭をゆっくりと撫でると、しっぽがゆっくりと左右に揺れ動くのが分かる。愛おしさを感じた今、とても気分が良いのでこのまま起き上がれそうな気もするけど、残念ながらそうはいかなそうだ。

時刻は13時。今日はとてつもなく体の調子が悪い日。朝起きたときから口が乾く感覚と、鉄球でも肩に乗っているのかというぐらい、だるい身体。手先はピリピリと痺れていて、「あ~これはしんどい日だ」と長年付き合ってきた”私の感覚”がそう言っている。

周期的なものもあるだろうけど、どうにもならない日というのは突然訪れるもので、こんな日は寝るに限る。

だけど今日は最低限しないといけない連絡と打合せ、出掛けなきゃいけない用事が午前中から昼にかけてあったので、とにかく気合いでそれを終わらせた。

全ての用事をなんとか終わらせて部屋に戻り、ベッドにダイブ。今は電気を消した部屋のなかでゆっくりとスマホで文字を打っている。

窓を開けているので空気が部屋に入ってくる。爽やかな空気と一緒に流れてくる春特有の匂いは心がウキウキするような匂いだけど、どうしてもこの匂いと爽やかさがダメだと感じてしまう日がある。

「春といえばなんですか?」と聞かれたら「鬱々しい」と答えたくなるぐらい、春には特殊な空気感があると思う。外の空気も街の雰囲気も、五感で感じ取れる全てが爽やかでやわらかくて、ほがらかなのに、触れるだけでエネルギーを吸収されるような不思議な感覚。

楽しい、ウキウキ、ワクワクを感じられる代償に、精神力を削られるような感覚がある春は、やっぱり私には合っていなさそうだ。ヒリヒリと寒い冬が恋しいなあ。

先日、バースデーランウェイの表現者であるまことさんとランチに行った。まことさんとは感覚や考えていることが似ているなと感じることが多く、言葉にしづらい感覚も時間をかけて丁寧に咀嚼しながら会話ができるのでとても楽しい。

いろんな話をするなかで、心療内科やカウンセリングについて話していたときに、『ある程度元気なときに病院に行く』という話が出てきた。

落ち込んだり、辛くなったりしてから病院に行くと、求めていることが極端すぎて、その結果が返ってこないことにまた落ち込んでしまったり、悲しくなったり、怒りを感じたりしてしまうことがある。

もちろん、超絶元気なときに心療内科に行くのは違うけど、心が沈み切ってしまう前特有の、「あ、くる」という違和感を感じたときに、ちゃんと先手を打っておくことで、そのあとの過ごし方は随分と変わるもの。

たくさんある心療内科から自分に合うところを探そうと口コミを見ていても、悪い口コミが多いと感じることが多い。

あくまでも自論だけど、とてもつらく沼にハマったような状態のときほど、求めてしまうものが大きい。誰かに相談をするときも「こうアドバイスがほしい」と思ってしまうこともあれば、自分が予期しないアドバイスを全く受け入れられないことも多い。

しんどいときほど、自分以外の存在に”自分と同じ価値観”を期待してしまう。だからこそ、失望や幻滅が大きくなる。ときにはそれが怒りとなり、相手に向けることでしか解消できないこともある。そして攻撃の矛先が自分ではなく”他人”にしかできない自分に失望してしまう。

これは心療内科に行くときも同じで、しんどさの沼にハマりきっているときに病院に行くと、「欲しかった答え」や「寄り添い方」を”心療内科だから”と期待してしまう。精神科の先生はカウンセラーじゃないのに「話を聞いてもらえるのだ」と、安心してしまうこともある。

だから、求めていない寄り添い方や社会的な正論を言葉にされたとき、芽生えてしまうのは「どうして病院に来たのに分かってもらえないの」という不満で、正直、こういう感情を抱えてしまうときの自分は正常な判断ができない心理状態に陥っているのだと思う。

そんな自分に幻滅しないためにも、私はある時からしんどさに対して先手を打つことを始めた。

ある程度、社会との繋がりを保てている状態の時にしか受け入れられない言葉があって、その状態の時にしか握り返せない手も多い。病院はとくにその対象になると思う。

以前、「私はこういうことが苦手で、こういう傾向があって…」と話したときに、「それは思い込みなんじゃない?」と言われたことがあった。(前にもnoteで書いたかも)

「思い込むからこそそれが現実となる」という考えは一理あると思う。その人の価値観を借りて言葉を紡ぐなら、きっと私の目の前に良く訪れるあの敵は思い込みが生んだ何かなにかもしれない。

それでもやってくるのだ。必ずと言っていいほど。

自分にしか訪れない敵に対して私が先手を打つのは当たり前のことだと思う。「前回がああだったから、次回はこうしよう」と毎度策を練り、改善して、襲来の時期を少しでも伸ばそうと努力をしたり、来た時に「待ってました」と言わんばかりの防御ができるのは、私が私の未来を少しでも良くしようと向き合った証拠なのかもしれない。

今こうして、沈むようにベッドで寝転がりながらボーッと考え事をする時間も、きっと”いつかの日の私のため”になるのだろう。そして、私のためはみんなのためでもある。社会的な繋がりを持つようになると、自分が健康じゃないと人のことを幸せにできないのだと痛感することが多い。

「なんかしんどい」と感じる日はきっとこれからもやってくるだろう。そんなときは、いろんな未来を予測しながら先手を打っていこう。乾いた口の奥が少しだけカレーライスを求めている気がするので今日は昼夜兼用でカレーを食べようかな。










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