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高校を辞める選択をして気づいた「自分で選択していく」ことの大切さ

「やっぱり私、人付き合いが苦手なんだな」

そんなことを考えながら、3限だけの授業を終え、電車に乗りいつも通りアルバイト先に向かう。

ロッカーのカギを取りに行くためにバイト先に着いたのは14時30分ごろ。
忙しいランチタイムが終わり、アイドルタイムと呼ばれる「社員さんが賄いを回す時間」から私はいつも出勤していた。

ここでアルバイトを始めたのは高校2年生の春。

県外の私立高校から転入という形で通信制高校に通い始めた私にとって、高校2年生からの2年間は自分を知る機会になった。

新しい生き方や暮らし方が求められる今、私は「学ぶ場」も自分で選択して決めていけるようになったらいいなと勝手ながら思ってる。

せっかくなので、この機会に通信制高校を選んだ日々のことを書いてみようと思う。

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そもそもどうして私立高校をやめることになったのか。

正直「これが原因で私は学校をやめました!」みたいな明確な原因はなくて、たくさんの「それっぽい理由」が積み重なって、いつの間にか手続きが進んでいた。私にはそんな感覚だった。

元々通っていた学校は甲子園常連校の私立高校。県外から通うことはできず、寮生活を始めることに。

そこでの暮らしが辛かったかと聞かれれば、返答に悩んでしまう。

毎日先輩に怒られる22時以降の1時間は謎だったし、5時に起きて寮を走りながら挨拶して掃除場に向かうのも意味不明だったけど、普通の高校生には絶対に経験できないような毎日が当たり前にあって、正直今思い返してみるとどれも楽しかった。(もちろん時間が経って美化されている説はあるけど…)

そんな私の体調が崩れ始めたのが1年生の夏ごろ。人生初めての過呼吸を経験してから、何事も上手くいかないネガティブ思考になってしまい、ある日「もうしんどいな」と生きていくために張りつめていた糸のようなものが切れてしまった。

「この世界で生きなくてもいい」と感じたときの体と心の楽さは今でもよく覚えていて、死ぬことにたいして怖さを失ったとき、人は本当に死ねるのだと痛感した。

とはいえ、人生は上手くできていて、偶然聴いたサンボマスターの曲がキッカケでがんじがらめになっていた心は一瞬で開放され、スキップができるほどの身軽さで母に電話をして「学校やめようかな」と言えば二つ返事で「分かった」と言われ。あれよあれよと学校をやめる方向に人生は動き出していた。

とはいえ、本当に辞めるかどうかの決心が当時の私にできていたかと尋ねられると大きな声でYESとは言えない状況だったけど、2つの出来事がキッカケで私はちゃんと「やめること」を自覚できた。

1つ目は、担当の幹事さん(寮母さん的な人)に学校をやめることを伝えたとき、「同じ班のメンバー全員に自分の口からちゃんと辞めることを伝えてからやめなさい」と言われ、一人一人に話したこと。

今思えばすごく幸せな話だけど、自分が辞めることに対して本気で止めてくれる人もいれば、学校の教室の中で号泣して若干キレてくれる人もいた。

でも、16歳当時の私は「自分の忍道は曲げねぇ(CV竹内順子)」を掲げながら生きていたので、自分の選択を誰かに変えられる人生なんてありえないと思っていた。

だから、みんながどんな想いで私のことを引き留めてくれたのかも考えられなかったし、引き留められるたびに「絶対にやめる」といった強い意志が芽生えていたような気もする。

だから、もしみんなに「わかった」と簡単に別れを受け入れられていたら、性格がひんまがっていた当時の私は「うそ、やめないよ」なんてふざけた話をしていそうだな…と考えたこともあったけど、どちらにせよ辞める選択はしていたんだろうな。

そうやって、「学校を辞める」と言葉にしてみんなに伝えることで、「本当に私は学校辞めるんだな」と実感できるようになった。

2つ目の出来事は「通信高校の見学会に行く」と嘘をついて土曜日の学校を休み、某テーマパークのアルバイト面接を受けに行った日。面接はサラッと終わり、そのまま採用されることになった。

採用されるということは、ここで働くということ。それは学校をやめることになる。自分がした選択のひとつひとつが一本の道として繋がっていくことをこの時すごく痛感していた。

そして電車に乗って寮に帰り、「おかえり~」と笑顔で言ってくれる幹事さんたちを見て、「ここで暮らすのはあとちょっとか」としんみりした瞬間こそ、高校を辞めることを一番感じたタイミングだと思う。

帰ってすぐに食堂に行くと、いつも通り班の友達が輪の中に入れてくれて、どうでもいい話をして、当たり前に笑って。その時間がとてつもなく愛おしくて、苦しかった。

新品のお風呂の桶に大量のアイスをいれて、カロリーの暴力みたいな「丼パーティ(通称:どんパ)を夜にすることはもうないだろうし、外線でかかってくる電話の呼び出し放送を聞いて「え?!あの子彼氏できた?!」と自分の部屋でニヤける時間もきっともうない。

こういう「青春」みたいな時間を過ごすことは金輪際ないのかと思うと、自分で決めた学校をやめる選択なのにとてつもなく寂しくて、部屋でシクシクと泣いてしまった夜のことは今でもよく覚えている。

とはいえ、「学校をやめる」という大きな選択をしたことで動きだした人生は止まってはくれないし、当時の私は「どこの高校に転入するか」という大きな選択を迫られていた。

高校をやめる!と母に話し、二つ返事でOKをもらったものの、母からすぐに「他の学校に通う話」をされていた。

正直、思いつきのような衝動で高校を辞める決断をした私にとって、その気持ちの根底に「中退してもう学校には行かない」といった確固たる意志があったかと尋ねられると、そうではなかった。

大人になってから気づいたけど、きっと母は私の「なんとなくやめたい衝動」を察知して、すぐに新しい学校に入る提案をしてくれたんだと思う。そう思うと、母のそのフォローがなければ、私はなんとなく高校を中退していたのかと思うと、母には感謝してもしきれない。

当時の私にあった選択は2つあった。

・地元の全日制の私立高校への転校
・地元の通信制高校への転校

全日制の私立高校への転校に関しては、入学テストの面倒くささもあるし、「転校生」として普通の高校に途中から入るのは絶対につらいことが目に見えていたので、消去法で通信制高校の選択肢だけが残った。

正直、通信制高校のことを何も知らなかった私は「ネットで勉強するの?」と誤った認識すらしていたのだが、母と父が一緒に学校説明会についてきてくれると言ったので、軽い気持ちで通信制高校の説明会を訪れることにした。

説明会に行ったのは2校。1つは公立の通信制高校でもう一つは私立の通信制高校。

1つ目の学校は「学校」とちゃんと呼べる大きな校舎があって、教室に入ると、窓から抜けていく風が気持ちよくて、この学校に通えたらいいなと直感で感じた学校だった。

でも、父と母の体感はあまりよくなかったみたいで、正直私は説明会の話より、その場で同じように話を聞く自分よりはるかに年齢が高そうな人たちが「今何をしている人」なのか、「なぜここにいるのか」ばかり気になっていたので、二人の話を聞いて「あ~そういう考えもあるのね」と頷くことしかできなかった。

2つ目の学校はビルみたいな見た目で、内観は学校というよりは塾。小学生の時に頑張って通った塾みたいな学校はどこか冷たくて、休日に説明会に行ったので他の生徒に遭遇することもなく、「学校なの?ここ?」という印象を持った。

説明会が始まると、近くの席に座る可愛い女の子と目が合い、ニコッと微笑んでくれたのがとてもうれしくて、なんとなく「この学校もいいかも」と思えた私はとても単純だと思う。

説明してくれる先生は「大学進学率」とか「将来のサポート」といった言葉をよく話していて、それがより塾みたいな印象だった。

父と母はこの学校を気に入っていて、「文化祭とか修学旅行もあるし、いろんなサポートもしてくれる。普通の学校みたいだからいいんじゃない?」と言っていた。「普通」という言葉に敏感は私は、「普通になれならここでいいかも」と結構早い段階で決断できたようにも思う。

あとは制服がかわいいとか、バイトができるとか、運動場がなくて体育は室内だけとか。いろいろ決め手となる理由はあったけど、私的には「普通に見えること」が一番の決め手だった気がする。

月日は流れて4月。学校に初めて登校する日。午前中から昼過ぎまで全学年共通の単位制の授業を受けた後、午後から3コマぐらいの「学年別にクラスで受ける授業」に向かう。

初めて入った教室で転校生としてじろじろ見られることはなかったけど、一応持ちあがりのクラスに入ってはいるので、なんとなく「ああ、新しい人だ」みたいな視線だけは感じた。

だけど、私以外にも4人ぐらい転入してきた人がいたので、辞めた理由も聞かれなければ、自己紹介だってしなくて済んだ。これが通信制なのかも。うれしい。と思ったのと同時に一つ驚いたのが、男子の数だった。

クラスは全員で20人ぐらいで、女子は5人だったか4人だったか。「イケメンパラダイスみたいで嬉しい!」みたいな感情はゼロで(そもそもあれは男子校の話)「へ~こういう学校って男子の方が多いんだな」って驚いたことをよく覚えている。

キラキラしたスクールライフなんてものを望んでいなかった私は、とにかくアルバイトをしながら毎日単位を取るために学校に通っていた。

嬉しいことにそれなりに友達もできて、学校の授業が午前で終わったらUSJに行ったり、カフェに行ったり、プリクラを撮ったりと、それなりに普通の高校生活は送れていたような気もする。

とはいえ、「高校生活」が苦手だった私のスクールライフが上手く進むわけもなく、2年生の秋終わりぐらいにはやっぱり「クラス」という環境に拒否反応が起きてしまい、好きだった友達と突然話せなくなったり、誰にも会いたくなくて学校に行けなくなる時間がまたやってきた。

「普通」を目指して入った学校。でもやっぱり私は「普通」にはなれなくて。「また同じことで悩むなんてバカみたいだ」と自分のことを余計に嫌いになって…。「通学部」をやめて「通信制(単位だけ取る学科)」への移動を選んだ。

とはいえ、通っていた通信制はスクリーニングよりも通学制メインの高校だったので、学校にはいつも通り通っていた。

だけど、しんどさはそこまで感じなくて、それなりに人には会うけれど、「固定のクラスに所属していない自分(一応クラスはあったけどホームルームも参加自由だった)」でいられるのが楽で、少しずつ気持ちも回復して、話せる人たちも自然と増えていった。

それに私は学校に入った時点で結構単位を持っていたし、2年生もしっかり学校に行っていたので、3年生はほぼ学校に行かなくてもOKな状態になっていて、最後3ヶ月ぐらいは一度も学校に行かず、卒業証書と合成みたいな卒業アルバムが忘れたころに家に届いた。

こうやって思い返しながら書いてみると、通信制高校での思い出って本当にない。

いや、あったけど、せっかくできた友達ともうちょっと上手く話したかったなあとか、同じクラスの〇〇ちゃんが好きって打ち明けてくれた子のことをもっと応援したかったなあとか。教科書に書いたラクガキがめっちゃ上手だった子の絵をもっと見たかったなあとか。

当時気持ちが安定せず「逃げる選択」しかできなかった自分の後悔みたいな感情ばかりが心に現れる。

でも、楽しくなかったわけではなくて、単位のために出ることになった文化祭の出し物決めで「なにがなんでもフランクフルトの屋台だけは譲りたくない」っていつもは自由なクラスのみんなが結託した瞬間のワクワク感は忘れられないし、無事フランクフルトの屋台を出せるようになったのに、買い出しの子が「これが美味しそうだったから」って普通のフランクフルトじゃなくて「ハーブ入り骨付きフランク」を買ってきたときの衝撃と、なんだか分からないけどお腹の底から笑ったあの時間は、やっぱり『高校に通ったから』体験できたことだと思っている。

正直、通信制高校と聞くと、あまり良くないイメージを持たれることも多い。私自身、できることなら「普通の高校生」でい続けたかったことに変わりはないし、25歳になる今も「履歴書に通信制高校卒業って書きたくないな」と思ってしまう瞬間がある。

それでも、授業や進路など。全部自分で選択して決断しないといけない場に身を置いたことで、「自分で人生を選択できる自信」が持てるようになったと思っている。

新しい生き方や暮らし方が求められる今、学び方だって自分で選択できるはず。何気なく読んだこの記事が「学校」との付き合い方に悩んでいる人に届けばいいな…という願いを込めながら、私はあの日食べた激うまハーブフランクの味を思い出している。




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