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ヘルシンキのカモメ

ヘルシンキの夕暮れ。カモメたちはフランス語の鼻母音を力いっぱい発音したような鳴き声で会話し、太陽はジョギング中のヘルシンキ市民を応援している。夏至から1ヶ月経ち、フィンランドの森は、蚊が減りベリーが増えてきた。

ヘルシンキ大学に学士論文を提出して、いま卒業の審査が行われている。

学士論文は「The Early Development of Axiom of Determinacy」というタイトル。ゲーム理論から生まれた概念である「決定性」が現代集合論においてどのようにしてメインストリームになっていったのか文献レビューをした。数学の卒論である。

この2年間、初めての一人暮らしから始まり、ヘルシンキで、東京で、いろんなところで、いろんな人間と会って、いろんな仲間を作って語り合ってきた。ときには辛いこともあり、フィンランドの森をさまようこともあった。早期卒業したのは金銭的なストレスから逃れるためでもあったが、このかけがえのない2年間に感謝し、お金は後からついてくると信じている。

もともとヘルシンキに来たのは、情報科学をやるためだった。フィンランドの高校で受けた教育のデジタル化の衝撃が原体験となって、教育の中の情報をうまく解析してうまく使ったら、もっと面白い学校、もっと面白い社会になるんじゃないかと考えた。

ちなみに、今年の8月、日本教育学会第82回大会で「教育の中のデータ/データの中の教育:データ駆動型教育におけるデータの利活用と教師の専門性」というタイトルで、日本の研究者の方々とラウンドテーブルを持ち、僕もオンラインでヘルシンキから報告する。

話を卒業に戻す。専門は数学、特に数理論理学であるが、それは情報科学からの大きな寄り道だった。寄り道というと間違いかもしれない。コンピュータ・サイエンスはいわゆる数理論理学や数学基礎論と言われる分野から始まったもので、例えばヒルベルト計画もコンピュータ・サイエンスの萌芽に大きな影響を与えたと思っている。その意味で、情報科学の基盤であるコンピュータ・サイエンスを深く掘って数理論理学へ終着したのは自然なことだった。

情報科学をやりに来たのに、「よそ見」をしていたら数学専攻になっていた。

以前、教育系の研究会にオンラインで参加したときに、現役の小学校の先生とICTの利用について話したことがある。フィンランドでは、ICTの利用とPISAテストの結果に負の相関があることが明らかになっているが、その因果関係をアテンション・エコノミーから説明できるのではないかと話していた。すなわち、タブレットやPCを学校で使うと、子供は「よそ見」をしてしまうという説明だ。しかし、その先生はこう言った。

「よそ見したっていいじゃない」

人間には「よそ見する能力」があるという新しい視座を与えてくれた。これはどう考えればよいのか。「よそ見」は確かに一概に悪いことではない。僕もよそ見をして良かったことがたくさんある。ヘルシンキのカモメも、よそ見をして風に流され、思いもしないところで餌が見つかることだってあるかもしれない。

話をまた卒業に戻す。このあとは、数学も続けつつ、教育データの扱いについて情報科学の知見から修士論文を書きたいと思っている。具体的な話は、日本教育学会のラウンドテーブルでも触れようと思う。でもまずは、体を休めたいところである。実は、しばらく体調が悪く、いまは療養生活を送っている。フィンランドの病院に初めてお世話になった話も、こんど詳しく書きたい。体調が悪いと書く気にもならないが、時々こうして思ったことを書くと、気持ちが和らぐような気がする。家からほとんど出ず、今日もカモメの鳴き声で夕暮れを味わう。



2年前、フィンランドに到着したときの文章

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