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ぼくらは本当に出逢っているんだろうか?

日光・二荒山神社の山内の山道を歩いていた時

まるで人と遭遇したかのように

意識に飛び込んできた巨木。

木の生命力が眩しいほどに伝わってきた。

そしてシャッターを押した一枚。

その日、多くの木とすれ違い

目で捉えたはずなのに

出逢ったと言える木は

この木だけだったかもしれない。


二荒山神社の山内を歩いているときは

周囲は全部、木ばっかりだったのに。

おそらくすれ違ったであろう何百本の木は

1本を個別に認識できるほどの印象が残っていない。

人間で例えるなら

1日中、都内を歩き回っていて

顔まで記憶に残っているひとが

たった一人だったってことと同じ。


歩いていて目に飛び込んできた1本の巨木。

ちょうど行者堂のある尾根の位置に生えていて

太陽の光を受けて燦燦と輝いていた。


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都内を移動していると

人とは沢山すれ違うけれど

全員マスクをしていて

顔の印象など記憶に残りようもない。


小児科では医者がマスクをするようになってから

乳幼児が泣く頻度が激増しているらしい。

乳幼児は顔、とくに表情で人間を認識しているんだものね。

見知らぬ場所で、表情が分からない大人が

突然目の前に現れるのだから

識別できない

何をされるか分からない存在だから怖い。


起きてから寝るまで

東京に住んでいて外出すれば

多くの人間と行き交う。


ところが行き交っただけで

どんな人なのか

どんな感情を持っている人なのか

どんな欲求を持っている人なのか

まったく分からない。


職場で同僚と話をしても

喫煙室で話を交わしても

ほとんどの場合、感情や欲求を相手に見せたりすることもないから

相手の感情や欲求を知ることもなく勤務している。


職場で自殺する人が出て驚いたり

家族で自殺する人が出て驚いてしまったりすることは

本当には出会えていなかったことを象徴的に表している出来事。


その根っこはぼくらが自分の感情や欲求に気づいてあげられていないってことなんじゃないか。

自分で気づいていないから

発信することも出来ず

発信されないから周囲のひとにキャッチしてもらうこともない。


好きで一緒になった二人が

お互いに傷つけあっているというのも同じ現象。

他人がひとつ屋根の下に暮らすという夫婦関係において

パートナーを大切に扱うことより大切なものってないはずなのにね。


うちに抱えている感情に気づいてあげて

一番根っこにある欲求を分かってあげる。

それをパートナーに説明してあげたら

きっと本当のあなたに出逢えたって感じてもらえる。


今日一日を振り返ってみると

大勢の人と行き交っていても

誰も記憶に残っていない日もある。


気持ちのいい接客をしてもらって

記憶に残っている店員さんがいる日もある。


ありがとうと声を掛けてくれたキラキラした瞳の人がいるときもある。


駅で乳母車を階段の上まで運んでくれて

笑顔で立ち去ったひとがいるときもある。


整体指導に置いても

本当の自分に出逢えたって感じてもらえるよう

思い出すと心が温かくなる出会いを目指していきたい。



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