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ねえ、ねえ、わたしのことふれてよ。

ひとりで留守番をしていた飼い猫は

飼い主が帰宅するとすり寄ってくる。

相手をしてよ~

遊んでよ~

ねえ、ねえ、わたしのことふれてよ。

そして実際にふれてあげると

満たされて安心する。


YouTubeにはそんな動画がいっぱいアップされている。


でも、これは猫だけのことじゃない。

ぼくら人間も同じこと。


赤ちゃんや小さな子は

ふれられることで安心する。

ママやバアバに抱きついてくるよね。

猫と何も変わらない。

ねえ、ねえ、ぼくのことふれてよ。


抱きしめてカラダが軽かったら

悲しいことや、嫌なこと、ショックなこと、打撲をしたなど

昼間なにかあったということ。


カラダがふだんの重さになるまで抱きしめてあげるといい。

カラダがママの気、注意で充ちてくると

重くなってくる。

そのまま安心して眠っちゃうかもしれない。


甥っ子が小学校1年生の時に

じいじと一緒だったんだけど下校のバス車内で

見知らぬ老人から怒鳴られ続けたらしい。

車内では我慢していたけど

バスを降りた瞬間

バス停まで迎えにきていたママに

抱きつくと泣きじゃくっていたそう。


この場合などもママに抱き着くことは必須だもんね。

ママにふれてもらわないとダメ。


でも、これは子供だけのことじゃない。

ぼくら大人も同じこと。


仕事で嫌なことがあったり

ショックなことがあったとき。

帰宅してパートナーに抱きしめてもらったら

安心して眠れたよって

経験したことない?


それは気が充ちてきたことを感じとったんです。


また寂しいっていうの気は欠けている状態でもある。


信者間で義務としてSEXを行わせるって宗教団体があったけど

SEXをさせることで寂しさを軽減することはできてしまう。

その教祖はその効用を狙っていたのかもしれない。


一番気を伝えやすいのは『ふれる』ってことだからね。


実際には気が欠けてくると甘えたくなる。

自分の中の気が枯れてくると他者から充たして欲しくなる。

気がゼロというのは『死』ってこと、

穢れの語源でもある気枯れ。


日本ではふれるという文化がなかったり

セクシャルな問題もあるから

誰彼構わずに抱きしめるなんてできないけれど


以前、ダライラマ法王の講演会で

自殺未遂をした女学生が

自分が生きている価値が見いだせないと

法王に訴えた。


ダライラマ法王は言葉では

彼女を助けられないと感じたんだろうね。

壇上から降りて彼女を抱きしめていました。

彼女は号泣していた。


彼女はなにを感じたのだろう。

人肌から伝わる温もり

生きていてもよいんだっていう安心感

言葉では説明できないけど

確実に満たされていく何かを感じとったんだと思う。


そこで起こったことは実は特殊な体験ではなくて

ふだんの日常生活の中でスキンシップをとおして

伝わっているものと同じ体験でもある。


抱きしめてあげることが一番必要なんだろうなって

感じることはあっても整体指導の場では出来ないからね。


ぼくらは技術として

愉気で意識的にダイレクトに

相手を満たしていくことを行う。


空気が抜けたボールに弾力がないように

気が抜けたカラダからは意欲、要求が湧いてこない。

生きようという意欲さえも。


空気が充ちたボールは

弾力が戻りよく弾むようになる。

気が充ちた心身からは

要求が湧き起こり

ふたたび日々を歩み始めることができる。


ねえ、ねえ、わたしのことふれてよ。

好きな異性に耳元でささやかれたら

抱いて欲しいという甘い言葉にもなる。


ねえ、ねえ、わたしのことふれてよ。

温かさからエロスまでとっても守備範囲がひろい。


いずれにしても

充たし、充たされるという

とっても大切な人間関係の鍵であることは間違いない。


ねえ、ねえ、わたしのことふれてよ。

素直に伝えてみて

もっと身近なひととふれあってください。


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