努力不要論、努力しない生き方について

努力をすることは本当にすばらしいことなのだろうか。ずっと違和感が拭えないでいる。学校では努力することのすばらしさ、大切さを学ぶ。しかし、なぜ努力することがすばらしいのか根拠が示されることはないように思う。さらには努力すれば報われるなんて虚構を刷り込まれる始末だ。もちろん努力が報われることもあるだろう。それ以上に報われない努力も多々あるはずだ。

僕は努力というものをしたことがない。高校受験も大学受験も模試で合格率100パーセントの学校を受験した。就職もソフトウェアの開発さえできればどこでもよかった。受験期に母がよく言っていたことを思い出す。どこの学校に入るかよりも、その学校を出てからなにをするかが大切なのだと。学校も企業も選ぶ段階では情報が圧倒的に不足している。可能性にかけて努力するのはリスクが大きすぎるんじゃないだろうか。

大学院を出てソフトウェア開発の企業に就職した。就職氷河期ではあったのだが、プログラミングのスキルがあったことが評価されたのだろう。そのプログラミングスキルは努力して身につけたものではない。そもそも努力が必要な時点で、その分野には向いていないのだと思う。努力が必要なければなにが必要かというと、楽しむということだろう。僕にとってプログラミングは楽しみでしかなかった。同じだけの労力をかけるのであれば、努力が不要な分野を探すことに注力したほうがしあわせになれる気がしている。

個人的に「努力します」「がんばります」という言葉をできるかぎり使わないように心がけている。どうにも思考停止しているように感じるからだ。がんばることを美徳とした教育を受けてきて、逆にいうと、がんばればOKのようなマインドが生まれてはいないだろうか。目的を達成するためにどうするかを考えるべきなのだから「がんばります」のひとことで思考停止してしまっては困る。メンバーが増えてきたら、社内でも禁止ワードにしようと考えている。結果がすべてという意味ではない。やりたいことをやるために、どう行動するのかちゃんと考えようということだ。そうすれば目標を達成できなくても次につながる。

うつ状態の人に「がんばれ」という声かけは厳禁というのは、だいぶ普及した気がする。がんばりたくても、努力したくても、できない人がいる。それはかつての自分だった。そして明日の誰かかもしれない。また、生まれながら努力できない環境に置かれた人もいる。そういう意味では、努力は贅沢品なのだと思う。だからどうか、努力することを押し付けないで、と願う。多くの人は、努力することがすばらしいという価値観を刷り込まれて生きている。そうではないんだよ。無理をしないで。無理を押し付けないで。ただそれだけを伝えたい。

サポートしていただくと更新頻度が上がるかもしれません。