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答えよりも問いを

凶悪な殺人事件の犯人の生い立ちや家庭環境の詳細がテレビで報道されている。父親からの虐待、母親が他界。屈折したパーソナリティが形成された要因が推測されている。環境によって形成されてしまったものに、犯人そのものを否定するのか、環境を否定するのかそれは難しい。もしその環境が彼のパーソナリティを形成する大きな要因なのであれば、彼と被害者を救う術は、この社会を変えるという、壮大なプロセスが必要なのだろうか。そんなこと僕が出る幕ではないと匙を投げてしまうのは間違っている。彼の気持ちが分かるわけがないと考えることをやめてしまえば、そこからは何も生まれない。もし彼に環境をプラスに変える要因があるとすれば、その要因が人であるとすれば、
僕はそういう人になることでしか、この世界は救えない気がした。救うとすれば、そういった人になるしかないと思った。


「ぼくたちの哲学教室」という映画を街の小さな映画館で観た。
アイルランドの小学校を舞台としたドキュメンタリー映画だ。
ここには哲学の授業がある。
北アイルランド紛争によりプロテスタントとカトリックの対立が長く続いているこの地域で子どもたちは暮らす。暴力には暴力で。そんな過去の苦しみや悲しみをなくすべく、ケヴィン先生は哲学の授業を続けていた。
それは授業だけでなく、生徒との対話にも現れていた。生徒同士の喧嘩に対しても彼らの意見を否定せずに問いを続けた。そして最後には彼らがお互いの気持ちを理解し、自分が今どんな対処をすべきなのか自らで問い、それを実行に移した。すなわち相手に自らの非を謝り仲直りしたのだった。

「哲学で大事なのは答えではなく問いである」

ケヴィン先生はそう言った。人の意見というのは無限にある、それをただ否定するのではなく、共感してみる。そして問うてみる。どんな気持ちになるのか、ならばどうしなければならないのか。


この世界にケヴィン先生がたくさんいれば、世界はきっと今よりよくなるのだと思う。だとすれば1人1人がケヴィン先生になるしかない。全ての意見に価値があると受け入れる。そして問いを立てる。対話する。また問いを立てる。
僕が目指すべき人はケヴィン先生のような人だった。

世界や社会や人に絶望するのはまだ早いと思った。


そんな日を過ごした。

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