松本盆地は、昔、湖だった...のか? (1)
松本地域に伝わる泉小太郎という民話には、昔、松本盆地一帯は湖であったけれど、泉小太郎とその母の犀竜が岩を割り、湖の水を抜くことで人が住める土地にした、というお話があります。
話の登場人物たちは実は神様であることから、この盆地や地形ができた理由を、神仏への信仰とリンクさせたお話ととることができます。
こういった類のお話は蹴裂伝説(けさくでんせつ)と呼ばれ、松本地域以外にもみられるほか、世界各地にも似た伝説が残っています。
世界のどこかにオリジナルがあって、それが日本に伝わったか、あるいは盆地地形を見た人が、それを神の仕業に結びつけるのは普遍的な事象なのか、定かではありません。
今回はそういった壮大な記事ではなくて(笑)、毎度のことながら、松本盆地に限定した内容です。
松本盆地の状況証拠
この松本盆地一帯には、この伝説が史実だったのかも、と思わせる状況証拠が点在しているのです。それは主に地名に関することなのですが。
ただのお話と侮るなかれ。拙い記事ですが、伝説と現実が繋がる面白さが伝わると嬉しいです。
状況証拠1 「崎」が付く場所
「崎」という単語は、デジタル大辞林によると、
海に向かって突き出ている陸の先端。みさき。
という説明があります。
海なし県の長野県に、海に向かって突出た地形を表す地名があるというのは、一体どういうことか...。
『松本市史 第3巻 民俗編』[1]によると、松本盆地一帯に「崎」の付く地名が7箇所あるとして、下記の地名が挙げられています。
1. 東筑摩郡朝日村、東筑摩郡山形村の境「横手が崎」
2. 松本市新村「岩崎」
3. 大町市「木崎」
4. 大町市「仏崎」
5. 安曇野市明科「押野崎」
6. 松本市「蟻ケ崎」
7. 松本市山辺にあったがはっきりしない
4の「仏崎」は、泉小太郎の両親や、小太郎自身が晩年にこもったとされる場所ですし、5の「押野崎」は泉小太郎が館を建てたという十日市場の近くになります。
泉小太郎の民話に登場する地域に地理的に近い場所に、「崎」という名前がつく地名があるのは、いきさつ上とても興味を惹かれます。
また、7の「はっきりしない」は、次節でも触れる「松本市入山辺舟付(まつもとし いりやまべ ふなつけ)」と思われるようです。
「崎」と「舟付」という、水に関連深い地名のコンボ。これは湖があったの、確定ですね!?
ところが、冒頭の大辞林にはもう1つ「崎」の説明として、
山の端が平野に突き出た所
という意味も載っているのです。
そう。海や湖に関係なく、山の端が突き出たところも「崎」と称するんですね。
となると、「崎」という地名だけを根拠に、湖の存在を説明するのは難しそうです。
余談
海上保安庁のサイトには、「崎」について、次のような説明があります。(一部抜粋)
土へんの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山へんの「崎」は本来の意味として山の様子のけわしいことを言い、山脚の突出した所を示しており、平野の中に突出した山地の鼻等を言う意味なので、海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しています。
状況証拠2 「舟を繋いだ」場所
『安曇筑摩の伝説』[2]には、舟が着いた、あるいは舟を繋いでおいたという伝承を持つ12の地名が挙げられています。
海や湖のない松本盆地で、舟を繋いだという伝承があるのもすごいですが、それが12地点もあるのには正直驚きました。
このうち、明科町七貴上押野(現 安曇野市明科)の「舟窪」は、前出の安曇野市明科「押野崎」にごく近い場所にあり、次のような伝承を残しています。
昔、湖があった頃、対岸の穂高町牧方面との間に舟による交通があった。
明科町七貴上押野と穂高町牧との位置関係 (Google Mapに追記)
それぞれ松本盆地の東西に位置し、その間約8kmの距離がある。この間に舟による交通があったという。
明科七貴上押野と穂高牧は、盆地の東と西に位置していて、約8km離れています。もしこの間に舟による交通があったのであれば、現在の松本盆地とほぼ同じ、広大な湖があったと考えなくてはいけません。
先程否定された「崎」地名と「舟」地名が地理的に近いことも意味ありげに見えてきます。
同じく明科町光白牧(現 安曇野市明科)には「ふなつき」という地名と舟つなぎ岩があるとか、明科の近隣にある池田町にも「舟を繋いだ大木があった」等、この周辺には湖の存在を匂わせる地名や伝承がいくつか残っています。
少し南に移り、松本市には、前節で登場した舟付という地名があります。ここには、地名だけでなく舟を繋いだという岩まであるのです。
2021年2月撮影 舟付にある岩 通称舟付石
その昔、舟を繋ぐために使われたという
さらに注目しておきたいのは、これらの「舟が着いた」「舟を繋いだ」伝承地は河川の近くだけではなく、河岸段丘の上だったり、山の斜面等、河川から離れていて船を係留するには不適切な所があることです。
例を挙げると、松本市の舟付は標高約730m。松本駅付近の標高が580m程なので、現在の駅から150m以上登った地点で、かつ薄川(すすきがわ)の河岸段丘上に位置する場所に舟が着いたということになるのです。
2021年2月撮影 松本市入山辺舟付 薄川の河岸段丘上にある集落
今は山でも、大昔に湖が存在していたのであれば、そういった地名が残っていてもおかしくないわけですが...。
状況証拠3 「海渡」と呼ばれる場所
こちらに移り住んで気になったことの1つに、やたらと「海渡(かいと)」とつく地名が多いことがあります。
「海を渡るところ」と読めるので、海のないところに不釣り合いな名前だ、由来はなんだろう、とずっと思っていました。
そこへきて、この泉小太郎の蹴裂伝説です。ちょっとワクワクしました。
松本盆地に見られる「海渡」地名は、以下のところです。
1.松本市神林「梶海渡(かじかいと)」
2.松本市波田「上海渡(かみがいと)」
3.北安曇郡松川村「北海渡(きたかいど)」「南海渡(みなみかいど)」「窪海渡(くぼげと)」
いずれの地区も、河川やましてや湖とはあまり関係がなさそうな場所です。
それこそ、昔の湖端がこのあたりにあったとなれば、地名の由来に納得ができるのですが...。
一方で、「海渡」は「垣内(かいと)」に異なる漢字をあてたもので、「垣内」とは周囲を囲んで区別した土地を指すという説があります。
例えば、その土地の開墾者の専有地などを囲って区別したんだそうです。中世の荘園や名田内の地名である場合も多く、そうなると海や湖とは全く関係がないということになります。
果たして松本盆地の「海渡」は、どういった由来を持つのでしょうか。
まとめ
昔の松本盆地が湖だったという泉小太郎の民話の一節を、主に地名を手かがりに考えてみました。
地名や岩などに、湖があったことを伺わせるものがあり、それも1箇所ではなく、松本盆地に点在しています。しかも、それらには泉小太郎の民話とは独立した伝承がともなっており、大変魅力的です。
ただ、裏を返せば、どのケースも言伝えの域を出ておらず、また、泉小太郎の民話と完全に独立に成立したという確定的な証拠もないため、今回の内容だけでは古の湖の存在を裏付けるには十分ではない印象です。
個人的には、地名や人名は"音"が重要で、漢字は後で適当に充てられたケースが多いんじゃないかと考えているので、「崎」や「海渡」という地名を証拠にするのはやや弱いかなぁと思います。(今言うな)
参考文献
[1] 松本市. 松本市史 第3巻 民俗編. 1997.
[2] 矢口正明. 安曇筑摩の伝説. 銀河書房, 1994.
関連記事
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?