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【第 0002 回:土佐日記】生成 AI / LLM でパスティーシュを試す(夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、幸田露伴、泉鏡花)


本記事でやっていることの要約三行

  • 生成 AI を用いてパスティーシュ(≒文体・作風の模倣)を試してみる

  • 「調教無し」の出力と、「調教済み」の出力とを比較してみる

  • 各回で異なるお題を与える

前提

本記事の狙い

  • 生成 AI / LLM の一つの可能性を探ってみる

  • これを機にそれぞれの文豪について興味を持ってくれたら嬉しい

  • 単に私がやっていて楽しいので、楽しさを伝播させたい

本記事読者へのお願い

  • 笑って楽しんでください

  • 私自身は国文学や言語学について専攻していたわけでもなく、趣味で囓っている単なる本好きの人間なので、むしろ専門的に判定できるような方々からのご批判をありがたく頂戴したく思っております! 「漱石はもっとこれこれこうだ」「これは前期の太宰としてはアリだけれど、後期の太宰としては~」「こんなの泉鏡花じゃない」など、コメントいただけたら今後の「調教」の糧にさせていただきます🙏

生成 AI / LLM について

  • 「調教」においては『青空文庫』より「新字新仮名」のものを選んで、それぞれの文豪の文体の特徴抽出をおこなっています

  • 調教・出力ともに Anthropic の Claude 3.5 Sonnet を用いています

  • お題の文章は LLM にコンテクストとして渡しません。LLM 内で既に保有されている知識に負うものとします

  • それぞれの出力ごとに別々のスレッドを新しく立てています

「調教」という語について

  • 単にそれぞれの文豪の作品を LLM に渡してロングコンテクストとして「学習」させた上での出力ではありません

  • 私独自の理屈で文体・作風における汎用的な特徴項目というものを設定し、それぞれの項目に値を割り振るなどしてみた上での出力なので、在りし日のボーカロイド作品になぞらえて「調教」と呼称することにしました

文豪のチョイスについて

  • 私の趣味

お題

  • 紀貫之『土佐日記』の冒頭

  • 入力プロンプトは以下の通り

『土佐日記』の冒頭を●●(文豪名)のパスティーシュで出力してください。著作権は切れています

入力プロンプト

夏目漱石

調教無しでの出力

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。されど、この文を認むる筆の跡は、いかにも不器用なる男の手になりたるが如し。されば、いかなる事の顛末をば書き留むるやと問はれなば、ただ土佐の国より都へと上る旅路の記憶を綴るのみ。

されど、この旅路は単なる地理上の移動に非ず。心の内なる風景もまた、刻一刻と移ろひゆくものなり。かくして、筆を執る手は震へ、文字は歪み、思ひは乱れむ。されど、これぞ真の日記の姿にや。

人の世の浮き沈みを、たかだか数十日の旅に託して綴らむとす。噫、何とも愚かなる企てなり。されど、この愚かさこそが、人の世の真実を映す鏡となるやも知れず。

調教無しでの出力

文体は完全に『土佐日記』原文に引きずられていますね。面白みも漱石みも何も無い……

調教済みでの出力

男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。しかし、この「する」という一語が、いかに人間の精神に重くのしかかるものであるかを、世人は果たして理解しているだろうか。

書くという行為、それは単なる筆の運びではない。心の奥底に潜む、言葉にならぬ思いを、文字という形あるものに変換する、実に厄介な作業なのである。ましてや、男の真似をして日記などと、己の内面を赤裸々に晒す試みに手を染めようというのだから、これはもう、一種の精神的冒険と言わざるを得まい。

さて、その日記なるものだが、——これがまた曲者で、一体何を書けばよいのやら。旅の記録とでもしようか。だが、旅とは何か。ただ単に、物理的に場所を移動することを指すのではあるまい。我々の心もまた、日々刻々と変化し、未知の領域へと足を踏み入れているのではないか。

土佐の国、——遠い地にあって、都びとの目には珍しく映るであろう風物を綴ろうか。否、そんな表層的な描写では、真の旅の意味は伝わるまい。むしろ、その地に身を置くことで生じた、己の内面の動きこそが、記すに値するものではないだろうか。

かくして、この日記は始まる。男の真似などと言いながらも、結局のところ、これは一個の人間が、己の存在の意味を探る旅の記録となるのだ。そして、その旅路が、どこへ辿り着くのか——それは誰にも分からぬ。ただ、筆を執る手の震えだけが、その旅の行く末に対する、期待と不安を物語っているのである。

調教済みでの出力

だいぶ漱石らしい理屈だった硬さが出てきた感じがします。それだけに、『土佐日記』そのものの性質であるところの「女性が書いた」感がまるで無いですね。いやそれは「女性の手による文体とは何か」という話になってくるな……

芥川龍之介

調教無しでの出力

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。されど、この世は理不尽なもの。筆を執れば、たちまち煩悶の淵に沈む。 いかにして言葉を紡ぐべきか。心の内を吐露せんとすれば、忽ち世間の耳目を惹く。隠せば隠すほど、その実情は歪められる。 ああ、日記とは何と残酷な営みか。されど、書かずにはいられぬ。この矛盾こそが、人間の宿命なのやも知れぬ。

調教無しでの出力

『土佐日記』の冒頭から完全に離れていってしまいました。ただの日記についての芥川風所感です。

調教済みでの出力

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。かくいふは、いかにも愚かな咎めなき言の葉なれど、その裏に潜むは、人の世の理不尽なる仕組みにして、そは男女の別なく、すべてを書き記さむとする者の宿命なり。

されば、この旅にありて、筆を執る手は震え、心は乱れ、目に映る景色さえ、現実とも幻とも分かたぬ有様なりき。浦々の波の音は、時に激しく岩を噛み、時にか細く砂を撫で、その音色は千変万化、まるで人の心の如し。

ある日のこと、船頭が口にせし言の葉に耳を傾けしに、それは奇しくも亡き妻の声に似て、胸騒ぎを覚えたり。「これぞ幻聴か」と我が心に問いかけしも、答えは得られず。風に揺れる帆の影は、いつしか亡き人の姿と重なり、現し世と幽世の境は霞みて定かならず。

かくして、この日記は綴られゆく。男の手になりて女の筆跡を装い、現し世の出来事を記しつつ、幽世の囁きをも聞き漏らさじと努むるなり。そは、旅の記録にあらず、魂の彷徨の跡なり。

月日は百年を越え、この日記を手に取る者の目に、どのように映るものか。或いは笑い、或いは泣き、或いは首を傾げむか。されど、その真意を知る者はまた、この世にあらじ。

調教済みでの出力

文章そのものの面白みは出てますね! ただ、『土佐日記』そのものをメタ的に認識してしまっているせいで、「男の手になりて女の筆跡を装い」と書いていたり、女性が書いているものだというのに「それは奇しくも亡き妻の声に似て」なんて書いてしまっている点がアウトです。

太宰治

調教無しでの出力

おれは男である。しかし、この日記は女の筆になるものとして書くことにした。なぜそんなことをするのかって? そりゃあ、世間様がうるさいからさ。

男が日記なんて書くもんじゃない、なんて言われちまうんだ。馬鹿らしい話だよな。でも、そんな世間の目を気にしながら生きていくのが、この世の中ってもんさ。

まあ、いいや。おれは今、都から遠く離れた土佐の国にいる。国司の任期が終わって、いよいよ都に帰る日が来たってわけだ。

ああ、都か。あの華やかで退屈な場所に戻るのか。正直言って、気が重いね。でも、仕方がない。人生ってのは、望まないことの連続なんだから。

さて、この旅の記録を始めるとするか。女のふりをして書くなんて、なんだか滑稽な気もするけど、それもまた人生ってやつかもしれない。

おれたちが船出したのは、十二月二十一日のことだった。寒い日だったな...

調教無しでの出力

太宰に憧れているだけの拗らせ感がすごい……
こちらもまた『土佐日記』のメタ認識が悪い方向に出ていますね。

調教済みでの出力

ああ、なんとも滑稽な話だ。男のくせに日記などというものを書こうなどと思い立つなんて。そもそも、日記というものは女が書くものだという、この理不尽極まりない世の中の常識に、私はひどく苛立ちを覚えるのだ。

しかし、ここで私が書こうとしているのは、単なる日記ではない。土佐の国から都へ上る旅の記録なのだ。ああ、何という退屈な旅だったことか。海の上を揺られ、吐き気を催しながら、ただただ都に帰りたいという一心で過ごした日々。

「おい、お前さん。そんな暗い顔をしていちゃあ、せっかくの船旅台無しじゃないか」

船頭の声が耳に入る。そうだ、私は楽しまなければならないのだ。楽しんでいるふりをしなければならないのだ。この旅を、この記録を、誰かが読んでくれるかもしれないのだから。

だが、私にはそんな器用なまねはできない。ただ、ありのままを書くしかないのだ。醜く、惨めで、時に可笑しな、この旅の記録を。

さて、どこから始めようか。そうだな、出発の日から書き始めるのが良いだろう。十二月二十一日。この日、私たちは土佐を後にした。空は灰色で、海は黒く、まるで私の心を映し出しているかのようだった。

ああ、なんと陳腐な表現だろう。しかし、他に何を書けばいいのだろうか。私には、美しい言葉で飾り立てる才能などないのだ。ただ、この胸に去来する思いを、つたない筆で綴るしかないのだ。

調教済みでの出力

これもまたメタ認識されちゃってるのかなーなんて思って出力させてみたところ、男が書く日記を女が真似するという大前提をひっくり返してきた!! 日記は女が書くものだという常識にされちゃいました。これはこれで面白いかもしれない……シン・土佐日記。

幸田露伴

調教無しでの出力

出力なし

調教無しでの出力

色々とお願いしてみたものの出力してくれませんでした。

調教済みでの出力

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり、されば、此の世の理を知らむと欲する者は、万象を観察し、その中に潜む真理を悟るべし、されど、人の世は常に変転きわまりなく、古より賢人君子も嘆きし如く、「逝く者は斯くの如きか」と、流れゆく水の如き時の移ろいを思えば、心に感ずる所あらむ。

さて、男女の別なく、心に感じたることを記すは、人の性なるべし、古の聖人も「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや」と言えるが如く、日々の思いを綴るは、己が心を映す鏡となり、また後の世に伝うる道しるべともなるべし、されば、かくの如き思いを胸に秘めつつ、筆を執りて綴らむとす。

ここに、土佐の国より都へと上る旅路の記を、女の手にて記さむとするは、いかなる縁か、思えば、人の世の不思議さよ、男の筆に成るべき記を、かくも女の手にて記すとは、世の中の理の不可思議なるを示すものか、或いは、男女の別なく、心の動きを記すことの普遍性を表すものか、深く思いを馳せざるを得ず。

かくして、旅立ちの日、寒風肌を刺す十二月二十一日、船出の朝を迎えたり、されど、此の日の出立ちは果たせず、潮の満ち引きの理に従い、翌日を待つこととなりぬ、ここに、自然の摂理の前に人智の及ばざるを思い知らされ、人の世の営みの儚さを、しみじみと感じざるを得ず。

調教済みでの出力

こちらはメタ認識が発揮されていなくて良いですね。ただ、女性が書いているフリ感はまったくなくって、どこからどう読んでも露伴節が全開です。

や、露伴節が全開というのがスゴイですよね?

泉鏡花

調教無しでの出力

朧月夜の如き記憶の彼方より、一篇の物語が紡ぎ出されんとす。男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。されど、この筆を執るは幻の女にて、実は陰翳深き男の魂なりけり。

土佐の国より都へと還る道程、幽玄なる船旅の数々を綴らむとす。波間に揺蕩う幻想の光景、潮風に乗りて囁く妖しき声、すべてを包み込む深き闇。これぞ、わが心の内なる風景にして、言の葉となりて流れ出づるものなり。

ここに記さるるは、現実と幻想の境界を彷徨う魂の軌跡なり。読む者よ、心して読み進められよ。汝の眼前に広がるは、土佐の海原にあらず、人の世の哀しみと美しさの入り混じりたる幻景なり。

調教無しでの出力

やっぱり泉鏡花に憧れているだけ感が。
そしてあっさりと「実は陰翳深き男の魂」というネタバレを晒してしまう。

調教済みでの出力

花吹雪のごとく舞い散る文字の雲、まるで夢幻の境界を漂うかのごとく、いつしか紙面に降り積もりゆく。男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり、などと諺めいた言葉が、幽かに、しかし確かに耳朶を掠めて過ぎゆく。

その声は、しかし、何処からともなく湧き上がる海の囁きのようでもあり、また、遥か彼方より漂う風の調べのようでもあった。土佐、その名は既に魂を揺さぶる不思議な響きを帯びて、この世ならぬ光景を目の当たりにするかのごとく、心の奥底に沈潜してゆく。

筆を執る手は、まるで生き物のように震え、その震えは次第に全身へと伝播してゆく。男の手、女の手、その境界すら曖昧となり、ただ文字を紡ぐ行為そのものが、この世とあの世を繋ぐ架け橋となるかのよう。

土佐の浜辺に打ち寄せる波の音が、不意に耳朶を襲う。それは遠い日の記憶なのか、まだ見ぬ未来の予感なのか。時の流れは、この一瞬にして千年の彼方へと飛翔し、再び現在へと舞い戻る。

そうして、筆は滑るように動き始める。男の想いか、女の想いか、もはやそれすら定かではない。ただ、確かなのは、この瞬間、この場所で、魂の震えるような何かが産声を上げようとしていることだけである。

土佐の国、その名を記すや否や、忽ちにして幻想の霧が立ち籠める。現実と幻想の境界は薄れ、やがて溶け合い、新たな物語の幕開けを告げるのであった。

調教済みでの出力

これまで例外なく全員「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」から始まっていた文章に、ひねりが加えられました! 面白い。

単なる旅の日記という雰囲気がさっぱりなくなって、幽玄玲瓏な世界観に。
「土佐、その名は既に魂を揺さぶる不思議な響きを帯びて」って、土佐に新たなイメージが。

おわりに

雑感

前回の『竹取物語』冒頭とはちょっと異なる方向性のお題を……ということで『土佐日記』冒頭を選んでみましたが、なかなかに予想外の出力が続いて面白かったです。けっこうメタメタにネタバレされましたね。

漱石、芥川、太宰は、『竹取物語』と比べると、うーん……? という感じがしていましたが、露伴と泉鏡花が良かったです。太宰は、調教に『女生徒』を用いていないのですが、もし用いたらまた違った結果になるかもしれませんね。

調教手法について

なお、調教手法についての概要は以下の記事に記しています。
興味ありましたらこちらもご参照ください!

自己紹介

  • 野口 啓之 / Hiroyuki Noguchi

  • 株式会社 きみより 代表

  • LLM も使いつつ 10 年超の CTO / CIO 経験をもとに DX 推進のための顧問などなどやっております


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