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オレンジ色からはじまった昭和の夏休み 

 夏の空気感を強く感じるようになり、この文章を書かなければならない、という気持ちになった。それは、おそらく二年前に亡くなった母の記憶を私なりに耕そうとしているのかも知れない。

 これは小学生時代の夏休みの記憶だ。それは、とても鮮烈で、その記憶を辿れば、辿るほど当時の光景がまざまざと思いだされる。

 少年時代の夏休みは上野駅から始まる。オレンジと濃緑色の高崎線のホーム。

 母親には乗車前にかならず買うものがあった。

 お弁当とかわいいプラスティックのお茶入れ(昭和のペットボトル)。

 そして、「冷凍みかん」。これが楽しみの一つだった。


 高崎駅に着くと、ゼロ番線ホームへ。それは母の実家、富岡の家に向かう上州電鉄の乗り場である。ふだんは目にしない農村風景が広がり、単線の線路が田舎へと私を連れていく。


  実は今年のGWに長野旅行に行く途中で、その実家を見てみたいという 
  子どもたち(つまり亡き母の孫)のリクエストに応えての寄り道だっ
  た。私も約半世紀ぶりの母の実家は気になっていた。しかし、事前に連
  絡していなかったこともあり、私のあいまいな記憶だけでは実家を見つ
  けることはできなかった…。



 ほぼ毎年夏休みを過ごした母の実家の「記憶」だけは、年を重ねても、いや年を重ねるほど、強く思い出されるようになった。

 亡き母の話では、実家はもともと庄屋で土地もたくさん持っていたが、戦後の農地改革で取り上げられたと不満をもらしていた。かつて上州では養蚕が盛んで、実家でも離れの家屋の階上で「お蚕さん」を育てていた。

 蚕の餌である桑の畑に、よく連れていかれた。桑畑にはアマガエルがいて、よく捕まえては遊んだものだ。その帰り道の小川では、羽根の黒いトンボをたくさん見かけた。羽根が透明のトンボが直線的に飛ぶのとちがい、このハグロトンボはひらひらと飛んでいたが、黒い色はどこか不気味だった。

 古い家のいわゆる台所は土間で竈があった。雇われ人も含めて、土間のテーブルで昼ご飯やおやつを食べていた。おやつにはよくスイカが出て、みな塩を振りかけて食べていた。基本的によそ者である私は、隅の方で食べていた。みな土間に種を吐き飛ばしていたので、私もこっそり種を飛ばした。

 午後3時頃になると、きまって夕立が来る。それもサッと降って、すぐに止んだ。すると、暑さは去り、清涼な風が流れてくるのだ。

 やがて、夕陽が微かに差し込む中、裏山から決まってあの声が聞こえてくる。「カナカナカナ」というヒグラシの声だ。物悲しく、でも力強く響き渡る。

 
 田舎の旧家の洗面所は、暗い廊下を通り、一番奥にある。もちろん。汲み取りなので、怖いことこの上ない。


 でも奥の世界には、楽しいこともあった。居間の近くに物置スペースがあり、そこには沢山の「缶」が積んであった。その中は、クッキーやせんべいなどのお菓子が常備されていた。小学生だった私はブルボンのホワイトロリータが大好きで、大人の目を盗んでつまみ食いしていた。

 寝る時間になると、布団を敷いて、「蚊帳」を吊っていた。布団2,3枚を覆っていたから、相当な大きさだった。都会育ちでいい空気を吸うために田舎に来ているはずだが、夜になると、決まって喘息の発作が起こった。

 翌朝、蝉の鳴き声で起こされると、大人たちはみなすでに仕事に出かけていた。がらんとした広い家に一人残された少年の私は、朝ごはんを食べ、夏休みの宿題の漢字ドリルを縁側に広げたのだった。



 東京の菓子屋に嫁いだ母親は都会の生活にどうやって馴染んでいったのだろうか。舅、姑をはじめ親戚付き合いは大変だったと思う。故郷群馬との関係は大切な心の支えだったに違いない。

 私が亡き母親の記憶を耕すことは、母の冥福を祈ることであるように思う。数々の遺品にも思い出は込められているであろうが、記憶の中にこそ大切なものが引き継がれていると感じる。

そういえば、母のことばから、群馬方言が抜けることはなかった…。


 

 

 

 

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