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「なんだか」で暮らしていく

 やっと、「目的」なく生きていてもいいよ、という時代になった。

 ほんとうにわからない。
 人生の「目的」なんて。

 実は「目的」をめざしてがんばるうちに、世の中は変わっていく。
 であるなら、何かをめざすよりも、なんとなくでいい。

 変わる世間、そして変わる自分。
 その変化のプロセスを楽しめばいいのではないか。

 以前、雑誌「&Premium」が「センスがいいとは?」という特集をやっていた。

 その中で、哲学研究者の永井玲衣さんの言葉が気になった。

「なんかわかる」こと。ただ、「わかる」のではなく、
「なんか」という部分がきっと大事。

&Premium 2022.5

 感覚として「わかる」というのは、明確で論理的なことばでは、説明できない。だから、私たちは「なんかわかる」としか表現できないのだろう。

 そして、「じゃ、この「なんか」をちょっと考えてみようかな・・・」

 という具合になる。そのうちに視野は広がり、いろいろなことが見えてくるようになる。これが楽しい。

 この「なんか」とか、「なんだか」いう感覚、実はしょっちゅう経験する。

 例えば、ジブリ映画の新作「君たちはどう生きるか」を観て、感じたのはまさに「なんだか良かった」というものだった。

 わたしは毎日、本を読んで暮らしているが、お気に入りの作家が書く文章は「なんだかいい」。とくに梨木香歩さんのエッセイは、「なんだかいい」のです。

 この「なんだか」について最近、翻訳者で有名な藤井光さんがわかりやすい説明を書いていた。

物語にふれて「よかった」と感じるタイプには二つある。
「やっぱりよかった」
➡期待通り。自分の価値観の繰り返し。
「なんだかよかった」
予想を裏切られ、物語に揺さぶられることで自分が変化する。
   自由の瞬間があるかも。
「なんだか」がいつ訪れるかはわからない。
 その不確かさを楽しみにする。

藤井光「空想書店」「本よみうり堂」読売新聞、2023.8.13 参照

  ある本を読んで、予想通りの内容で終わると、私たちは安心する。そして、「ああ、やっぱりよかった」となる。それは、それで精神的な安定をもたらしてくれるかもしれない。

 一方、一体ぜんたい何が言いたいのか、わからなかったという読後感の本もある。でも、「なんだかよかった」という感覚だけは残る。

 そういう私も最近、海外文学を読むようになった。イタリア文学やフランス文学の作品はよくわからないことが多い。

 海外文学の宝庫の一つ、新潮社のクレスト・ブックスにはたくさんの「なんだかいい」文学が揃っている。
 
リュドミラ・ウリツカヤ『子供時代』
アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』
ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』

 考えてみると、「なんだかいい」と感じることができるものは身の回りに溢れている。

 野菜、草花、陶器、音楽、天気・・・

 日々の暮らしの中で、「なんだかいい」を毎日感じつつ、生きていこうと思う。
  


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