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基礎に戻ることの弊害

それは風呂敷を広げすぎて最初の目標を見失うこと。以下、私自身の経験をまとめます。

アウトプットまでとりあえず進める

基礎に戻ったあとの切り上げのタイミングが本当に難しいと思います。なにかを気合いを入れて学習していると、ちょっとでもわからないことがあれば基礎に戻りたくなる。私はちょっと完璧主義的なところがある(あった)ので、ちょっとの不理解でも気にかかり、後ろ髪を引かれます。

でも基礎に戻っても、本当に知りたいことは一部にしか書いていないことがほとんどです。本当に知りたいこととは、学習している内容をアウトプットするために使うのに支障がないようにする最低限の知識です。(大抵は、その程度の知識は学習に使っているテキストに含まれているはず。もし無いなら、前提知識として最初に断られています。)ここだけを抽出して元の学習にもどればいいものを、関連している基礎事項の理解も不安になって一から始めてしまう。これが建設的であった試しがない。

実は不安とは別に、変な安心感もあります。基礎部分はそれでも知っていること、理解できることが多いし、アウトプットが求められないので、そこに留まるほうがストレスなく気持ちいいです。これも基礎に必要以上に留まってしまう要因かもしれません。

学習していることが自分のレベルの少し上で設定できているか

そもそも理想は、自分の人生の目的に沿った、短・中期的目標(具体的なアウトプットの仕方)が(ゆるやかに)設定されており、その目標を実現するために必要な手立て・知識を逆算することで学習が(ゆるやかに)計画できている状態だと思います。これに加えてモチベーション(熱意)があればなお完璧です。(ゆるやかにというのは、あまり細かく計画しても意味がないということです。予想外の変更は多いので。)

この目標の設定は、今の自分のレベルの少し上に設定する必要があります。これには今の自分のレベルを把握している必要がありますが、その判断基準のひとつとして自分が前段階の学習で目標として達成したアウトプットがあります。

たとえば語学なら、中級試験の合格ラインに立てていれば(これは試験結果などを含めて客観的に判断します)、次は上級者むけ・中級者よりのテキストを使って学習を進める。このときの目標は上級試験合格とか、あるいはビジネスシーンでその言語を使って特定の業務を遂行するなど。専門分野であれば、演習問題を解いたり、人に口頭で説明したり、解説記事を書いてコミュニティに公開したり、自分なりの問題を構成して解く、論文紹介する、論文執筆するなどがあります。

目標とするアウトプットのかたちが曖昧だと、自分のレベル・理解度の把握や、どこまで基礎を理解していれば十分なのかの判断があやふやになります。なので基礎に戻るという行為にメリハリがなくなる。メリハリがなくなると、学習が弛緩して蒸発してしまいやすくなります。

学びに無駄はないと思いたいところですが、質のいい学びというのは確かにあって、それはほどよく律せられたインプット・アウトプットが、ほどよいインターバルで繰り返されているものだと考えています。こういうメリハリがなく漫然と学習すると、知識のうろ覚えになり、次の学習段階に進む地盤が固まらないです。自分で言っておいて耳が痛い。

ラチェット機構:一点突破の重要性

関連分野を広く眺めることは大切ですが、まずは一点突破するのが上達の早道だと私は思います。一点突破とは、その領域でなんらかのアウトプット、他人に評価してもらえるアウトプットを出すことです。どんなにニッチなことでもいいから、とにかくアウトプットする。ここまでをやれば、一点突破したときの経験から関連分野を新しい視点でとらえることができるし、学習の次の段階に進むのに十分な準備が整います。

人間とは不思議なもので、書かれていることを順番に追っても理解できないことが、一度一点突破してまた戻ってくると容易に理解できるということが頻繁にあります。人の学習には時間遅れがあって、現在までの学びの蓄積が過去のある時点の不理解を解消するということがある。こういうことからも、とりあえず進んでいくことを優先し、後戻りは最小限に済ませ、早くアウトプットするのが効いてきます。

イメージとしてはラチェット(下図。出典wikipedia)です。

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歯車の歯をひとつ超えるごと(一点突破するごと)にロックがかかって逆もどりの心配なく前進できる。アウトプットがないと歯車は逆回転して前のステップに戻ってしまいます。

基礎のすべてを網羅する時間は与えられない

人生のほとんどは強制的にアウトプットが求められ、そこに目標を設定しインプットをしていきます。受験なんかはその最たるものです。ところが主体的に人生を構築するにはそれでは不十分で、自分でゴールを設定し達成する必要がある。

しかし人生は自分の思う通りにはいかないもので、予想外の外乱がひっきりなしに入ってきます。時間も限られている。なので基礎に割ける時間はそれほどない。だけれど基礎をしないと不安、もしくは基礎をしていると安心、という引力が邪魔をしてアウトプットに進むのを阻んでくる。

私はフランスに留学する前はインプットを重視していて、アウトプットはどうでもよいと考えていました。いまでも場合によってはアウトプットで他人に評価してもらうなんていらんと思うことはありますが、大抵の場合は有益なフィードバックはアウトプットを通して得られるわけです。留学で数学を学んでアウトプットの重要性に気づかされたあとは(もっと早く気づけと言われればその通りなのですが)、インプット・アウトプットのバランスを保つようになりました。

モンテーニュのエセーはひとつのテーマがそれほど長くはないんですが、これもアウトプットを頻繁にしていたのではないかと思います。日常のインプット(彼の場合は古典)を、彼なりに自分の観察へと織り込んで文章にした。こういうサイクルを繰り返すことで、思考のレベルがちょっとずつ上がっていくんだと思います。



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