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ポイ捨ての文化

パリを歩いていると、ポイ捨てされているゴミや犬の糞の多さに驚きます。(犬の糞で洗礼を浴びた人も多いのでは。)公共交通機関も例外ではありません。以下の写真はパリの公園の状態。

コロナでの外出禁止令が解け、多くのパリジャンが一斉にこうした公共の場所に集まり、日光浴をしながら、または夜を明かしながら、飲み食いする。コロナがまだ蔓延っているなか、慎重さにかける行為であることはそうなのですが、さらに悪いことに立ち去る際に後始末をしない。最初上の写真をみたとき、私はフェイク画像だと思ったのです。ところがこれはパリだけではなく、フランスのあちこちで見られる現象。

確かに日本でもごみのポイ捨ては見られるが、明らかにレベルが違います。なぜなのか?この背後にある(集団)心理はなんなのか。

渡仏して二週間の語学研修をしたとき、この事実に気づいた私は、フランス人の恩師になぜなのか聞いてみました。すると返ってきた答えは「公共の場所だから」という驚くべきもの。わたしたちは、(一般化するとまずいから)少なくとも私は、公共の場所だから綺麗に使わなくてはいけないと考える。理由は同じで帰結部分が真逆の人々がいるらしい。もしかしたら清掃をする人がいるのだから汚しても平気なのかもしれない。もしかしたら自分の暮らす場所ではないのだからどうでもいいのかもしれない。もしかしたらそういう教育をされなかったのかもしれない。

価値観がまったく違うので理解に苦しむわけですが、ではなぜ私は人生で一度もポイ捨てをしたことがないのか。考えてみると意外と難しいものです。母は絶対にポイ捨てをしなかった。父もしないがタバコのポイ捨てはする。母を見習ったのかもしれません。子供ながらにそれが正しいことだと認識したのかもしれない。それが恥ずかしいことだという認識はいまでもあります。正しいというより恥ずかしいのほうが本質的かな。恥というのは多分に文化的要素です。私がその文化に埋め込まれた結果こうなったのか。よくお天道様がみている、ご先祖様がみているといいますが、この考え方が恥の根幹を成しているような気がします。共同体に属しているという感覚。だからこそ和を乱す行為は恥ずべきものとして遠ざける必要がある。

対して個が比較的前面に出ているフランスでは、このような恥の観念が発達しきっていないのかもしれません。(といいつつ私の妻の家族はまったくポイ捨てをしないだけでなく、模範的な環境保護実践家でもあります。)都市と農耕地で考え方が違うのかもしれません。これも掘り下げると興味深いテーマです。ごみ捨てという行為が自分の立場を危うくする大きな力学が働いていると、恥と呼ばれる概念が発達してくるのかもしれません。

まあ、こんなのはへ理屈というやつで、なんの立証にもなっていないわけですが、こういった現象に集団の精神性というとらえどころのないものの一側面が現れているのではないでしょうか。

最後に菊と刀に出てくる一節を引用。

降伏の恥辱は日本人の頭に深く焼き付けられていた。日本人は、私たちの戦争でのしきたりからは異質な振舞いを当然のものとして受け入れていた。そして私たちのしきたりもまた日本人には異質なものだった。

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