科学と学問
ファインマンによる科学的手法の定義は非常に簡潔です。
Observation, reason, and experiment make up what we call the scientific method.
統一理論に向けた多大な貢献でノーベル物理学賞を受賞したワインバーグは、
現代科学の実践を見たことがない人にとって、その方法は何一つとして明らかではない
と言っています(『科学の発見』)。
科学っていうとそれだけでもの凄い説得力があります。この科学は人類が長年にわたって発展させてきた手法であり、経験的にその効力が確かめられてきたもの。「科学的に」というとき、その言葉の裏には、実際に研究に従事する研究者が積み重ねてきた実証の過程があるのですから、当然それを無視して「科学的」結果の信憑性を論じることは無意味なわけですが、専門外には確認しづらいですよね。
だからそのときは、その論文(論文が書いてあることを前提にします)が発表されているジャーナルが信頼に足るか、もしくは同業他者からたくさん引用されているか、などで間接的に仕事の信憑性をある程度評価することができます。
また研究慣れしていれば、全然専門と違う分野の研究も追えることが多い(理屈の部分だけ)ですが、どこに問題意識があるのか、つまりその分野で培われてきた文化がないと、論文の意義まではわからないことが個人的には多いです。(論文の意義は本文で繰り返し強調されるのですが、「ふーん…」で終わって「すげえ、ありがてえ」とはならない。超弩級の論文はまた別。ただどんなにニッチなところを攻める論文でも、「変なことしてんな~」という認識が私を勇気づけてくれます。)
査読つき論文の場合、レフェリーと呼ばれる自分の専門に近い研究者が論文を評価して最終的に公表の是非を決めるのですが、これに多くの時間と労力がかかる。数ヶ月かかるのが普通、レフェリーや投稿者のレス次第ではもっとかかる。だから多くの研究者は複数のテーマを同時並行で進めて、ある論文の査読中に別の論文を書いたり、論文のための実績作りをしているのです。
そもそも発表論文の数がないと競争に負けるので、みんな必死です。こういう『研究』という名の競争は、研究者がより高い視座で自らの研究の原点を見つめ直す機会を奪っています。だって論文書かないといけませんから。ある狭い一分野にとじ込もって巣を作っていた方が、今までわかっていなかったことに巡りあえて論文が出せますよね。そんなの研究じゃねえ!学問じゃねえ!といってこの状況をぶち壊そうとする人もいます。
個人的には一転突破は大事だし、あるひとつのテーマを納得いくまで掘り下げるのも大切だと思います。話が逸れまくり。
研究楽しい!って人ばかりだといいのですが、辛い状況の人も多いです。金銭的にだったり、人間関係(特に研究室のボスとの)だったり、研究の進捗が芳しくなかったり。ポスドク問題も深刻です。コロナと重なってさらに厳しい世界ですが、研究者のみなさん、学問を愛する気持ちを忘れないでいきましょう。そういえば哲学(philo-sophy)は知を愛するという意味だそうです。訳語、哲学じゃなくて学問でいいんじゃないですかね。
学問といえば、物事を深く考え理解すること。文字通りそれはうまい問を見つけることから始まります。ファインマンは理解することを次のように説明します。
We try gradually to analyze all things, to put together things which at first sight look different, with the hope that we may be able to reduce the number of different things and thereby understand them better.
物理学者ってある意味ミニマリストかもしれないですね。