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参加サークル:七つ森舎

文学イベント東京 参加サークル 「七つ森舎」の紹介ページです。


■ 「キラキラ」


なみなみ注がれたコップの牛乳に溺れてしまって遅刻した。

 友人の目から零れる『キラキラ』をコンタクトレンズのように加工して装着してみたり、なみなみ注がれたコップの牛乳に溺れて会社に遅刻したり。息苦しくて、さみしくて。懐かしくて、もう戻れなくて。けれど欠片みたいな希望も、きっと近くに転がっている——。
 そんな日々を集めた表題作ほか、幼いころに雪女と暮らした女の幻影を描く「銀色」、幽霊となった兄に触れたい弟の「とおくはなれ、ひとつ」等、ゆくあてのないさみしさをかかえた人へ贈る二十の掌篇。

サイズ 文庫版 ページ数86ページ



■ 「やわらかな心中」



真令、──
私のかわいいぬいぐるみ。

父親により歳の離れた男と婚約させられ、癒えない孤独と不自由に苛まれるあまね。真令は情緒不安定なあまねに当たられながらも、そんな彼女に尽くしていたが……。
ふたりの少女、その激情の果てにたどり着く結末は。

 
 *

 
 細い肢体に張り詰められ今にもその皮膚を破って噴き出しそうな彼女の不機嫌は、居間へ続く扉のノブに手をかけた瞬間、その姿を視認する前から、真令には伝わりすぎるほどに伝わってきた。

「ずいぶん遅いお帰りね、真令」

「ただいま、あまねさま」

 突き刺すようなあまねの言葉に、真令はへらりと笑ってこたえる。いっそ薄ら寒いほどに広々とした空間、高い天井から吊り下げられたシャンデリアの下で、背筋を伸ばしソファに座るあまねが真令を睨んだ。

 屋敷はいつも通り重苦しささえ内包する静けさに満ちている。あまねの父や兄が帰宅している気配はない。崖下の波が砕ける音だけが、一定の調子で遠く重なる。屋敷は海に迫り出した岬の上に建っていた。

 身体のラインを緩やかに流れるワンピースに身を包むあまねは、もう夕食も入浴も済ませたのだろう。いつもならすぐ自室にこもってしまうところを、なかなか帰らぬ真令が気がかりで待ち構えていたのだと、それが分かるから、真令はあまねの神経を逆なでするのを承知で、つい頬を緩めてしまう。

「草子先輩の手伝いに時間がかかっちゃった」

 真令があまねの通う高校に入学してふた月が経った。真令は時おり、放課後を園芸部と化学部の部長を兼任している草子のもとで過ごす。草子が温室にいるときも化学室にいるときも他の部員が姿を現すことはなく(皆名簿上だけの部員なのだと草子は言った)、真令はその気安い時間を存外気に入っていた。そしてそのことは、今真令の眼の前にいる彼女をひどく不機嫌にした。

「あのね、開花を待っていた薬草がようやく咲いてね、収穫して乾燥しているところなんだ。お茶にして飲むといいんだって。うまく行ったらあまねさまも飲んでくれる?」

「そんなふうに言って」顔を背けあまねが呟く。光を反射するやわらかく長い髪が、あまねの顔を真令から隠した。

「お前、私と一緒にいるのが厭なだけでしょう」

「あまねさま」

 真令はソファの横に腰を下ろし、膝の上に重ねられたあまねの両手をとる。冷たく冷えた十の指先には、何千ものなかから選びぬかれた、とびきり透き通った淡い桜貝のような爪が、丁寧に並べられている。

「そんなわけない」

「嘘、嘘!」

 あまねが頭を振る。甘い花の香りが真令の鼻をくすぐる。半身をねじるようにして、あまねは真令から体をとおざけた。

 真令は追いかけるように身を乗り出し、あまねに言い聞かせる。

「早く帰ってこなくてごめんね、あまねさま。もうすぐ古河さまに会わなくちゃならないから不安なんだよね。お風呂もご飯もすぐに済ませてくるから、今日も一緒に寝ようね」

「……」

「ね、部屋で待っていてくれるでしょ?」

 あまねが真令に向き直るのを、真令は辛抱強く待つ。冷めやらぬ苛立ちに頬を染めたまま、やがてあまねが顔を上げる。

 唇を不格好に歪めたその顔は、それでも他のどんな人間よりも美しかった。

 例えるなら、熟練の職人が己の人生を犠牲にして生み出した精巧な硝子の人形に、通りすがりの神が気まぐれで魂を吹き込んだかのような、硝子と魂、無機と有機、相反するふたつが決して混ざらず、ため息一つで崩れてしまう危うい均衡の上で、ひとつの器に顕れた美という現象。それが久我あまねだった。

 透き通る硬質な頬に本来宿るはずのない瑞々しい赤が浮かぶのを、真令はいつも奇跡のように思った。

「お前は」

 白い喉から零れる掠れた声は、何より美しい呪詛。

「最近生意気だわ。……ただの、ぬいぐるみのくせに」

 真令は咲う。そう、私はあまねさまのぬいぐるみ。

  
 *

 
「で、一緒に寝たと。高校生にもなって」

 作業台の前に立つ草子が、複雑な表情で振り返る。草子は制服の上に白衣を羽織り、両手に厚いゴム手袋を嵌めて作業をしている。

 昼休み、園芸部の管理する古びた小さな温室は六月の昼の光に溢れている。長方形の台の上で整列する鉢植えの植物に、真令は端から水を注いでいく。青々とした葉は鳥の鳴き声に呼応するかのようにかすかに揺れる。校舎との間を雑木林で遮られたこの空間に、休息を楽しむ少女たちの気配は届かない。

「そうだよ?」

「そうだよって……。ああ、待って、真令。奥の一列に水はいらない。乾燥を好む植物だからね。その隣を頼むよ」

「はあい」

 空になった如雨露を手に、真令は草子のもとへ戻る。草子は鉢植えに園芸鋏を向けている。「気をつけて。この植物は葉や茎に棘が持っていて、うっかり触れるととんでもなく痛いんだ」

 作業台には収穫され広げられた葉や枝が並んでいる。葉の縁は刺々しい歯に彩られ、表面も鋭い棘で覆われていた。

「この植物もなにか薬効があるの?」

 真令が草子と出会ったのは、この学校に入学してすぐの放課後だった。廊下に倒れ込む彼女は腹部を必死で押さえひどく脂汗をかいていた。息も絶え絶えの様子は真令を焦らせたが、あとから聞いてみれば、それは実験と称して自ら有毒植物を摂取した結果なのだった。

『植物は毒にも薬にもなる。自分で試さなくちゃ、面白くないだろう?』回復した草子は反省の色など一切見せずに、そう言って真令に笑ったのだった。

「そうだね、これはたとえば、血行促進や貧血予防、アレルギーの症状の緩和に有効だ」草子が真令の問いに答える。

「ふうん。……あまねさまには必要なさそう」

 真令は草子から離れ、作業台の横に設置された水場に如雨露を置く。年季の入った蛇口は動きが悪く、真令は回す手に力を込める。

「そう、あまね嬢」草子が横道にずれた話題を戻す。「あまね嬢、久我家のお嬢さんと言ったら、良家の子女が集まるこの学校の中でも上の上のお家柄。成績よし、素行よし、何よりあの圧倒的な美! 寡黙で馴れ合わぬ孤高の存在に、全校生徒がひそかな憧れを募らせている。その我が校きっての偶像と、君の話す横暴なお姫様が同一人物だなんて、考えるだけで頭が爆発しそうだよ」

 彼女が本当にそんな情緒不安定な女なら、私は君が心配だ。そう言う草子にどうこたえたものか、真令は暫く思案する。

 ゆるんだ蛇口からようやく水が流れ出す。如雨露の底で跳ねる水が小さな湖に変わるのを待って、真令は口を開いた。

「さびしいひとなんだよ」

 如雨露から目を離さず、真令は続ける。

「あまねさまね、婚約してるの」

「? うん」事もなげに草子は頷く。ふたりの通う学校で、そうした話は珍しくない。しかし次の真令の言葉には、さすがの草子も天を仰ぐ。

「古河さまっていう、今年で七十歳になるおじいさん」

「……それは……随分……」

 あまねの婚約は、彼女が十二の頃、父親と相手の意向により取りまとめられた。婚約相手は代々政治家を輩出している一族で、父は政界にコネを作りたいのだと、あまねは以前真令にこぼした。

「ああ、なるほど。確かに久我家は政治的な方面へのパイプは太くなかったと記憶しているけれど。でも、流石に他にも選択肢はあったんじゃ……」

「そういう家なんだよ」

 家のために、使われる。

 己の持ち物はすべて家のものであり、自分という存在でさえ例外ではないのだと、言い聞かされてあまねは育った。彼女には父と兄がいるが、どちらも仕事と称してほとんど屋敷には寄りつかない。母親は真令が久我家と関わりを持つより前に蒸発している。

 あまねの持ち物は、真令だけなのだ。真令はそれを知っている。

 真令は蛇口を締めて立ち上がる。

「だから君があまね嬢の犠牲になるのも仕方ないって?」

「私があまね様のお家の子にしてってお願いしたんだもん」

「それで養子になったの」

「ううん、養子じゃないけど。全面的に生活の面倒を見てもらってる」

「そう。……今の話を聞いたら、まあ養子でなくてかえってよかったのかもしれないね」

 あまねの曽祖父は婿養子で、養護施設の出身だった。当主となった彼は一代で没落寸前の久我家を盛り立てると、生涯に渡って世話になった養護施設への援助を惜しまなかった。

 代替わりした今となっては恩義からなどではなく、成功した先々代にあやかるという目的に変わっているものの、援助は途切れることなく続いている。真令はその養護施設であまねに出会った。

 父親に連れられてやってきた幼い少女はーあまねに婚約者ができるまでは、あまねの父親は時折こうして娘を披露する場を設けていたー、何もかもが特別で、真令は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けたのだ。

「だからいいの」

 水遣りを再開した真令の背には草子のもの言いたげな視線がついて回ったが、やがて諦めたのか、如雨露を片付けた真令に話を続けることはしなかった。代わりに、小さな麻の袋を見せる。

「君の待っていたものだよ」

 中を覗くと、鮮やかな黄色の花が乾燥した状態で透明袋に入れられている。真令が先日草子に分けてもらえるよう頼んでおいた薬草だ。花弁を五枚持つその花は、濃い緑の葉と相まって、夜空の星を思わせた。

「お茶にして飲めば、ストレスを抑えて精神を安定させる効果がある。けれど効果が強い分使用には注意も必要だ。併用してはならない薬を書いておいたから、くれぐれも気をつけて」

 真令は渡された紙を開くと、小さく声を上げた。

「もし、君の服用している薬が載っているなら……」

「ううん。でも飲んでる人を知ってる」

「では、くれぐれもその人には飲ませないように」

「うん」真令は袋の口を締め、大事に胸元に抱える。

「草子先輩、ありがとう」

 真令は草子を見つめて微笑んだ。草子の頬にさっと朱が走る。

 遠くで予鈴が鳴った。温室を出なくては午後の授業に間に合わなくなる。暇を告げる真令に草子が尋ねる。ねえ、今日の放課後は来るかい。ううん、あまねさまが寂しがるから。

 外に出る。木立の間を抜けてきた風が涼しい。新鮮な空気を深く吸い込む。空は晴れ渡り、梅雨の気配はまだ遠い。真令は小走りに校舎へ向かった。
 
 
 *


サイズ 文庫版 ページ数36ページ



「キラキラ」700円
は、文学イベント東京 販売予定作品です。七つ森舎様の新作
「やわらかな心中」400円も文学イベント東京 販売予定に。

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