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“思いやり”は見えない努力

 私の会社では毎日始業時間にチームごとの朝会をしています。目的は、今日何をやるか・何時にどこへ行くか等の共有と、横浜支社・京都支社・南丹のサテライトオフィス間の繋がりを常に意識することにあります。

 小学校で「朝の会」「帰りの会」をしていたことを思い出しました。日直の生徒の棒読みの進行で、“あさのあいさつ”から“せんせいのおはなし”まで淡々と進められていた記憶があります。

 一方的に人の話をある程度の時間黙って聞いているというのは、最初からよっぽど興味を持って臨まない限りは非常に苦痛なもので、運動会や金曜日の朝の全校集会での校長先生の話はまさにそれでした(頑張ってネタを考えてくれていた校長先生ごめんなさい)。 

 最近、私たちのチームでは連絡事項だけでなく、日替わりで誰か一人が数分間のスピーチをすることにしました。朝会の直後に予定が入っていることもあったりするので、短くまとめてしかもそこそこ聞いている仲間たちのためになりそうな話が期待されます。なので、毎日続けることで自然と“伝える力”“要点をまとめる力”が身についていきます。

 私たちは、日々思うところや感動したこと等が心の中で発生しても、それをその都度人に伝えているわけではありません。人によってその頻度は異なりますが。人に伝えようとするとき、伝える順番や自分が一番伝えたいこと、相手にとって重要な情報かどうでもいい情報かをある程度吟味するといった、ちょっとした作業が頭の中で行われているはずです。それを全くしていないと、聞いている方も何が伝えたかったのかわからないままで終わるし、つまらなくて記憶に残らないものです。

 人前で何かを伝える、ということはそういった“努力”という名の思いやりが必要とされます。その思いやりがあるかどうかは自然と聞いている側に伝わるもので、それが、話の内容が理解できたかどうか、面白かったかどうか、で判断されるものだと思っています。

 授業中に寝てしまったり一度聞いただけで理解できないのは、生徒に問題があるのではなくて、寝かせてしまうようなつまらない話しかできていなかった自分に問題がある、と授業をする側(発信する側)になって私は初めて気付きました。

 毎朝、思いやりに支えられた仲間たちのスピーチで、仕事が始められることを幸せに思います。何気ない短い時間ですが、とても意味のあるものだと改めて感じております。


 

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