『書くこと』を仕事にするということ

新年度、マスコミ・広告・出版業界には多くの『書くこと』を好む新入社員が集まる。

一概に『書くこと』と言ってもその幅はとても広い。
例えば新聞記者やライターはありのままを報道として限られた紙面や字数の中で伝える要点整理能力、さらには日刊(webの場合もあるが)というスピードが重要視される一方で、広告代理店のコピーライターは一つのお題に対して、日常的に接している何かからほんの僅かでも手がかりを得られないだろうかと、血眼になって日々じっくりと人間観察を行いながら、何百本もコピーをひねりだす。

私は仕事上リリースを書くことが多いが、事実に基づいたあのベタな感じはとても苦手だ。何回書いても上手くかけたという実感が得られない。1度でもPR会社に勤めたことのある人なら共感してもらえるだろうが、「タイトルが大事。タイトルで興味を持たれなかっらメールすら開かれないよ」と、上司から常に口酸っぱく言われてきた。
今これを読んでいるあなたが普段リリースと縁遠いのであれば、ニュース番組のテロップ、もしくはVTRの右上に出てくる、そのニュースやコーナーの概要を10~16字程度で説明したものを想像してもらえればわかりやすいだろう。
どれだけ端的にその本質を伝えられるか。
それをあの十数文字に賭ける。
まあそんなところだ。

編集者は正しい日本語を紡ぎ、時には校正し、時には取材し、時には自ら筆を走らせ、締切と闘いながら奔走する。
文藝・コミックであれば作家のように。雑誌であればコピーライターのように。週刊誌であれば記者のように。ように、ではなく記者、か。
編集者に関して私の知識は曖昧だ。知っているようで実はあまり知らない。昔付き合っていた人が編集者だったが、作家と飲みに行った話と取材でどんぐりを拾った話しか聞かなかったので、結局編集者がどんな仕事なのかよく分からなかった。紙に印刷された原稿にひたすら朱を入れていたのは何となく覚えている。ただそれぐらい。

小説を書く人はどうだろう。
これはとあることがきっかけで、自分が小説に手を出して初めて気がついたのだが、とんでもなくテクニックが必要だ。
物語を進めるのは簡単。登場人物を決めて、それぞれについて生い立ちやら性格やらをとりあえず書き出し、ざっくりと道筋をひいたらキャラクター達が走り出す。
難しいのはここからだ。
走り出しだキャラクター達の心情をいかに緻密に描き、情景描写も含めてどのように伏線回収していくか。
予備校時代、現代文の先生が常に言っていた。
「風景動作は作家の計算!!!!!」
今でもあの声で脳裏にこびりついている。
でもまさにその通りだと思った。小説のジャンルに違いはあれど、どれもその一文、いや、その一ワードが物語の世界観をつくりあげ、読み手を引き込み、物語の鍵となる。
そしてそのワードセンスが異様に問われるのだ。

詩人はどうだろう。小説家とも似て非なるものである気がする。
小説がテクニカルなものであるとするならば、よりパーソナルでその意味が分からなくても楽しめるものが詩なのだと思う。
一人になって自分自身と対峙した結果生み出された思考の塊を、なんとか綺麗なリズムと言葉で装飾して、思考の形跡として残してあるものが詩には多いような気がしてならない。
まあでも恐らく、というよりも絶対に、言葉が好きで『書くこと』が好きなことには変わりない。

『書くこと』が好き。
その一言に閉じ込められてしまうにはあまりにも広すぎる世界が『書くこと』の中には詰め込まれていて、わ!これは私にはできない!みたいなことが頻繁に起こる。
例えば仕事柄、記者さんライターさんの書く文章に触れることが多いが、同じ内容の記者発表会を見ても、こんなボリューム書けない!と思ったことは何度もある。

こうやって思考のはけ口として文章を書くのは好き。
だが決して『書くこと』自体が好きとか得意だとかそういう訳ではないのかもしれないと最近ようやく気付いた。

昨日、部署内で「リリース王決定戦」なるリリースをどれだけ上手くかけるか年次関係なく競う大会を開催すると発表されて、なんか考えてしまったので、書いた。

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