友達と初めて喧嘩になった。本心を表に出さないのが「大人」で僕は幼いと言われた。
先日、友達と語り合っていた時、些細なことから口論になった。
お前は、これ、っていう意思を絶対に曲げようとしない。どんな相手でも、どんな場面でも関係なしだ。そんなんだからお前は幼いんだよ。そう言われた。
(中にはそれが大人ならこっちから願いさげだ、と言う人もいるが、僕は正直幼いと言われれば納得がいかない。)
そう僕に言ってきた人は普段からお世話になっている人で、僕のためを想っての発言だったことだろう。しかし、口論がヒートアップするに連れて僕の頭の中は相手の発言に対する疑問で溢れていった。
まず前提として、口論の相手との間に上下関係はない。そして世間一般的な多数派の意見としては、相手の意見が当てはまり、多くの人が僕の意見を批判するだろうと僕は思っている。
彼は言った。
「いいか。大人っていうのはたとえ腑に落ちないことを言われたとしても自分の意見を押し通そうとはしないんだよ。」
「仮に納得いかなかったとしても、私は違うけどそんな考えもあるんだ、くらいに思ってそこでとどめるんだよ。」
「なんでもかんでも言い返せばいいってもんじゃない。わかるか?」
「それができないようじゃ、今度は自分が何か伝えたいことがあっても、またあいつが何か言ってるよくらいに思われて損をするだけだぞ。」
「お前は幼いと言われても仕方ないし、それがお前の悪いところだ。」
と。
僕は口論相手のことは今でも嫌いではない。むしろ好きだ。
彼には良いところがたくさんあるから一緒にいて楽しい。
でも、彼の「大人」への考え方については、彼の言い分を聞いて
あぁ、この人もそうだったのか。社会が決めたよくわからない「大人」の定義がしっかりと浸透しているだけで、自分の頭で考えていない。要は「当たり前」が絶対だと思っている。だから社会の作った「当たり前」の範ちゅうから抜け出そうとしている僕を無意識的に批判し引っ張り戻そうとする。自分の考えが及ばないところに他人が行くのが怖いのだ。
場所をわきまえろ、というのなら理解できる。時には誰かと揉めることで場の雰囲気が悪くなってしまう。それは避けなければならないと思う。
しかし、そんな考えもあるんだ、で終わらせることが正しいことだとは到底思わない。僕だってそんな考えもあるんだ、で話を終わらせることはよくある。
そうなるときは、相手に興味がないか、ポジティブな意見交換をしたときか、場の雰囲気を察したときに限る。
だから「大人」になるために常に相手の意見を流すだけだと、誰にも興味がないのか?と思ってしまう。
納得いかないことがあって、話し合える場が整っているのなら、”自分”をぶつけて何が悪い。その先に自分が変わるかもしれないし、相手が変わるかもしれない。はたまた、誰も変わらないかもしれない。結果はなんだっていい。
僕がただ一つ言いたいことは、人が”自分”をぶつけているのを見て、”幼い”で片付けるな。はっきりとした理由がないくせに勝手にレッテルを貼るな。
もし僕に興味を持って、もっとこの人と交流してみたい、サポートしてあげてもいいかな、と思ってもらえたらうれしいです。成長のための大きな力になります!