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デンマーク映画『罪と女王』を観て、家族の秘密、権力構造、正義と欲望の犠牲について考えたこと

デンマークでも話題の衝撃作

※内容は、一部PTSDにつながりかねない描写や作中のネタバレを含みます。未鑑賞の方はお気をつけください。(あくまで一個人の感想としてお読みいただければ)。

デンマーク留学中の友人から「すごい作品がある」と聞いて鑑賞したデンマーク映画『罪と女王』。まず簡単に、あらすじを。

知的で愛情深い女性が、悪意と支配に染まる―
児童保護を専門とする優秀な弁護士のアンネは、優しい医者の夫と幼い双子の娘たちと美しい邸宅で完璧な家庭を築いていたが、夫と前妻との息子である17歳の少年グスタフが問題を起こし退学になったため、スウェーデンからデンマークに引き取ることに。グスタフは衝動的な暴力性があり家族に馴染もうとしなかったが、そんな子供達と仕事で常に接しているアンネは根気よく彼を家族として迎え正しい方向へ導こうと努める。しかし、グスタフと少しずつ距離を縮めていくうちに、親密さが行き過ぎてしまい、アンネはグスタフと性的関係を持ってしまう。そして、そのことが大切な家庭とキャリアを脅かし始めた時、アンネは残酷な選択をする-。(公式サイトより)

家族の秘密、転換、権力構造、正義

本作中にも度々発せられる「おぞましい」という言葉がしっくりとくるような作品で、しばらく余韻が続いた。普段は児童保護を専門とする弁護士として、職場でも家庭でも「悪と闘う正義のヒロイン」のように描かれるアンネ。しかし、義理の息子(夫と前妻の息子)の登場で変わる日常。自身のこととなると、なんとも残酷な選択をしてしまう彼女のおぞましさから何度も目を背けたくる。メイエル・トーキー監督は「家族の秘密」をテーマに、小宇宙でもある家庭での権力構造に興味をもち、本作を制作したという。優秀な弁護士で、母でもある女性と、その夫で医師の男性。一般的に、社会的権威ともされる職位にある夫婦と、その家族の秘密が描かれていく。

転換

近親相姦、インセスト・タブーをテーマにした作品において、「父と娘」、「年上の男性と若い女性」(映画『私の男』など)という設定は多く見られるものの、その逆はそれほど多くはないように思う。今回は、母と実の息子ではなく、女性と血縁関係のない義理の息子(男性)との関係性が描かれていてる。

わたしたちは特に、義理の息子を誘惑し、息子が中拒否したとき、彼をレイプで告発したギリシャ神話のフェドラに触発されました。また、私たちは生徒とセックスをした女性教師に関するいくつかの記事を読み、それぞれの記事の違いを分析し、年上の男性と若い女性との関係よりも、年上の女性と若い男性との関係を人々が過度にロンマンチックに捉える傾向があることを議論しました。(監督インタビューより)

大人の正義と欲望の犠牲

アンネの発する言葉からは、一見すると「正義」が感じられた。夫から、問題を起こし、前妻の手に負えなくなった息子の引き取りについて相談をもちかけられた際、積極的に「私たちでケアをしていきましょう」「彼には家族が必要」「彼にはわたしたちという存在が重要」と受け入れに難色を示すこともなく、よき母として振る舞う。「問題児」「かわいそうな少年」「守られるべき存在」として、弱き者として、彼を受け入れる。実の娘ふたりにも、「もともと彼はわたしたちの家族だったのよ」と諭す。

次第に、義理の息子グスタフとの距離が近づき、自身の家庭(ここにはグスタフの存在は含まれていない)やキャリアが脅かされはじめたとき、彼女の本性があらわになる。実の息子、グスタフの告白と妻の言い分に揺れる夫。グスタフの登場で、誰から観ても円満で恵まれた家族像がもろくも崩れていく。ひとりの少年の出現でいとも簡単に揺らぎ、疑心暗鬼となってしまう夫婦関係がいかに危いものであったのか。信用と信頼をめぐる家族像が鮮明に描かれている。

彼女が守りたかったもの

彼女が守りたかったのは、グスタフでも、娘でも、夫でも、「家族」でもなく、彼女自身だった。すべてを失うことを恐れると話した彼女には、彼女しか見えたいなかった。義理の母から大人の欲望をぶつけられ、犠牲となった少年。グスタフ。「私の目には、あなたも楽しんでいるように見えたけど。何か証拠でもあるの?」と、残酷なまでの言葉を吐き捨てるアンネ。児童保護を専門とし、子どもたちを守る立場にあったアンネが、ひとりの女性として、大人として、ひとりの少年を深く傷つける。その後のグスタフからもわかるのは、少なくとも、幼少期の性体験は自身を深く傷をつけ、心身をえぐるような行為だということ。消えることのない強烈な身体体験を植え付けるものだということだ。グスタフから初体験をたずねられたアンネは「不適切な関係だった。でも、時には過ちは起きてしまうもの」だと、いまの自分を正当化するかのように語った。見方を変えれば、彼女もまた、かつて大人の犠牲者となった子どもだったのかもしれない。

犠牲者が大人になって思うこと

わたしも、幼少期に実の祖父から性的虐待を受けていた。両親が離婚し、祖父が面倒を見るようになった従姉妹までもが、その犠牲になっていたことを後に知った。数十年経ついまでも悪夢をみたり、フラッシュバックのような現象を体験したりする。その当時は、共働きの父母にかわって面倒を引き受けてくれる優しい存在(祖父)の前では、わたしは弱き者であることを求められた。また、離婚した両親にかわり「母親がいないかわいそうな子どもたち」(弱者)として世話をしてもらっているのだという彼女たちの負い目が、大人という権力に逆らうことを妨げた。どうしてもグスタフをわたしたちと重ね、祈るような気持ちで見守らずにはいられなかった。かつて、力を振り絞り、実父に祖父からの性的被害を打ち明けた。「なかったこと」にされた。わたしたちが最後の望みを託した母もまた、同じ女性としてわたしたちの味方になってはくれなかった。「子どものちょっとした勘違い」として、片付けた。世間体を、たいしたこともない「家族」、を守るために。なにより、自分たち大人を守るために。

死ぬようにして生きるような感覚が長く続いた。けれど、こうした映画を鑑賞できるまでには、ときが経ち、大人になった。これを自身の成長として喜ばしく思うと同時に、ひとりでもグスタフやわたしたちのように、大人の餌食に、犠牲になるような子どもたちがいなくなることを願ってやまない。そのためにも、大人や親という存在が子どもにとっていかに権威と暴力性も兼ね備えた脅威になり得るのか。大人になった自分に、親になるかもしれないいつかの自分に、自戒の念も込めて問いかけ続けたい。直視したくない現実だが、自分自身の内にもないとは言い切れないアンネのおぞましさと向き合い、そうじゃない側の大人になりたいと、つよく思う。賛否両論を覚悟のうえ、女性として、また表現者として、こうした作品を世に送り出してくれた制作陣に感謝を込めて。


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