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【第15回】ミントがいた頃

執筆:角田 ますみ(すみた ますみ)
   杏林大学保健学部准教授、 専門:生命倫理学、看護師

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 昼間から、ラブホテルとソープランドに囲まれたあたりを自転車で走るのは、ちょっと変な感じだ。特によく晴れた昼下がりなどは、派手な電飾や若い女性が肢体をくねらせたポーズの看板にも柔らかな光がさしていて、妙にのどかである。そんななか、黒服の、いわゆる客引きのオジサンが入口付近を掃除していたり、談笑していたりすると、違和感に脱力したくなる。
 
 その一角の奥を入っていくと、小さな木造の家が取り残されたようにひっそりと建っている。それがトラさんの家だった。トラなんていう豪快な名前がついているが、80代の女性である。出生時は違う名前がついていたが、体が弱かったので親が改名して、トラになったそうである。そのせいかどうかは知らないが、トラさんは猫が大好きだった。6匹の猫を飼っていて、家の中を自由気ままに走り回っている。心臓を患っていて訪問看護を受けていたトラさんは、風邪から心不全が悪化した時もギリギリまで入院を拒否した。理由は猫である。世話をする人がいなくなるといってきかなかったので、相談員の人が世話をする人をみつけるのに苦労していた記憶がある。
 
 そんなふうに大事にされて育った猫たちは、滅多に人が訪ねてこないので、私のような訪問客がいると、一目散にどこかに隠れてしまい、姿が見えない。そのなかで一匹だけ、そろそろと出てきてはクンクンと匂いを嗅いで、膝に上がろうとする猫がいた。その猫がミントだった。
 
 トラさんは、このミントがお気に入りだった。拾った時にミントの飴がポケットに入っていたからという理由で名づけられた猫は、6匹のなかで一番体が小さかった。その上、鼻から右目半分に茶色のぶちがあって、ちょっとブサイクだった。
 
 でも、ミントはどの猫よりも人懐っこく好奇心が旺盛だった。他の5匹の猫たちにも、新参者として最初は邪険に扱われていたが、すぐに仲良くなった。それだけではない。私のような見慣れない者にも恐がらずに近寄ってきて、頭を撫でてもらったり手をなめたりして甘える。しまいには私の訪問看護用バッグに頭を突っ込んだり、血圧を測っている横に丸くなって毛づくろいをしたりする。この懐っこさは、何か人の心を溶かすようなところがあって、私はミントを見るといつも気持ちが温かくなった。
 
 ある日、トラさんの家を訪ねると、ちょうど猫にエサをあげているところだった。珍しく、いつものドライフードに猫用の鰹節をちょっとだけかけてあげている。猫たちはこの鰹節が大好きなのだ。脇目も振らずに食べている猫たちに、トラさんは目を細めながら、今日は特別なんだよと笑った。
 
「今日は、ミントが犬のケンと仲良くなった記念日」
「犬?」
「そう、表通りにある店で働いている女の子が連れてくる犬だよ」
 
 表通りにはソープランドとキャバレーが並んでいる。ケンという犬は、そこで働く女の子が飼っているミニチュアダックスフンドのことだった。飼い主はチカさんといって、お店で最も指名の多いNo1キャバ嬢だ。私も一度だけ、出勤してくる姿を見たことがある。店の前に止まったタクシーから派手な女性が降りてきて、手には犬用のキャリーを持っていた。No1なだけに、店に犬を連れてくるという我が儘も許されていたらしい。
 
 その頃、ちょうど黒服さんたちのなかに、私の受け持ち患者さんがいた。この連載にも登場したことがある、モノづくりが大好きなカズオさんである。
 そのカズオさんから聞いたところによると、飼い主がお店で働いている間、犬は控室で自由に遊んでいるらしい。
 
 そこにミントがやってきたのである。持ち前の好奇心で、家から抜け出し、表通りまでやってきたのだ。最初は店の入口あたりで黒服さんたちにじゃれついたりして、あの人懐っこさですぐに可愛がってもらうようになり、いつの間にかエサまでもらうようになっていたのである。店の看板の奥に小さな銀色の器があって、そこでエサを食べているミントを囲んで談笑している黒服さんたちを何度か見かけたことがある。昼間はなかなかお客がこないので、そんなノンビリとした光景が繰り広げられていたのだろう。夕方からピシッとした感じで客引きをしている、ちょっと怖い感じの彼らからは想像できないような姿である。こんなふうにすぐに馴染んでしまうミントはすごいなと私は感心した。
 
 さて、そのミントがお店周辺にやってくるようになってから、心中穏やかでなかったのが、チカさんの飼い犬ケンだった。たまにお店の階段まで出てきた時にミントを見かけると、必ず吠えて追いかけた。ミントは追いかけられても、再びなんとかお店の入口までやってきて、黒服さんたちに甘えたり、しらっとして寝そべったりしていた。ケンがやってくると、軽々とケンが近づけない場所まで逃げていくのである。
 
 そのうち、ケンが至近距離にいても、くつろいだり楽しく遊んだりするようになった。相変わらず追いかけられるが、鼻の先まできたらさっと逃げる。そしてまたやってきては、ケンの目の前で遊ぶのである。その繰り返しに、ケンもとうとうあきらめたらしい。もう、そばで遊んでいても、追いかけなかった。
 
 それからミントは、少しずつケンに近づいて行くようになった。はじめは威嚇されたりしていたが、それでもめげずに少しずつ近づいて、ついにケンのお腹に自分の背中をくっつけて寝るまでになった。その記念日が今日だった。トラさんは、買い物の途中で黒服さんたちからその話を聞いて、喜んで鰹節を取りだしたというわけだ。
 
「ミントは人間よりも偉いなぁって思ってね。ケンにあんなに邪険にされても臆することなく、遊びに行っては、それなりに楽しく過ごしていたわけさ。人間なら、仲間にいれてもらえなきゃ、嫌になってスネちゃうだろ。それなのに、ミントはそんなこと気にせずに、毎日楽しく過ごしてきたんだよ。そして少しずつ自分の領域を広げて、ついに今日、ケンとも仲良くなったってわけさ。もし仲良くならなかったにせよ、ケンのそばにいるっていう自由は獲得したわけだしね。この子の前向きな明るさを見ると、本当に慰められるよ」
 
 そう言って、トラさんは、鰹節をかけたエサをおいしそうに食べているミントを撫でた。
 
 別の日、ミントがお店の脇でカズオさんに遊んでもらっている姿を見かけた。カズオさんが呼ぶと、ミントはそのたび律儀にミャァと返事をしている。そんなミントを見て、カズオさんは「お前は本当にいい子だなぁ、お前は誰よりも上等だ」と言った。すると一緒にいた黒服さんが、「そうだなぁ、確かに俺らより上等だ」と相槌を打つ。
 
 その後ろ姿を見ていて、私はなんだか泣きたいようなもどかしい気持ちになった。決してくじけない明るさを持ったミントと、こんな優しいまなざしでミントを見つめているトラさんやカズオさん、そして黒服の人たち。そこには何と温かな時間が流れていることだろう。こんな街はずれの場所に、一般の人なら足早に通り過ぎてしまうようなネオン街とその奥に立つ時代に取り残されたような家々に、こんな情のあるやり取りが交わされているのだ。こんな時間がずっと続けばいいのに、と私は心の底から願った。
 
 そんな願いも虚しく、しばらくしてトラさんが亡くなり、続いてカズオさんも逝ってしまった。トラさんの猫はトラさんが亡くなった後、不思議なことに皆どこかへ行ってしまったのである。ミントだけがしばらくお店付近をうろうろしていたが、ある日、珍しく店の階段を上がってお店の中まで来て、黒服さんたちの手をなめたりじゃれついたりして、彼らを驚かせた。その後、姿を見せなくなったそうである。ミントのことだからきっと挨拶にでも来たのだろう。
 
 あれからもう何年も経って、私もあの地域を訪れることはなくなった。それでも時々街で猫を見かけると、ミントの姿を思い出してハッとする。ミントがいた頃、優しさに満ちた人たちがあの場所に存在した。それは奇跡に近いことだったのかもしれない。でもそのことに私は深い励ましと慰めを覚える。時として、私たちの人生にはそういう奇跡が起こり得るのだということに。

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【著者プロフィール】
東京生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科修了。大学附属病院、総合病院などを経て、訪問看護に携わり、多くの人たちの最期を看取る。そのときの経験から「人生の最期はできる限り本人の希望を生かしたい」と思い、生命倫理学(バイオエシックス)の世界へ。アドバンス・ケア・プランニング(ACP)をはじめとする、人生における意思決定支援を中心にさまざまな倫理的問題をライフワークとしており、「医療における関係性のなかの意思決定」や「終活視点で考えるアドバンス・ケア・プランニング」などの講演や、地域と組んで「きらり人生ノート」などのエンディングノートを監修している。また、医療や介護における倫理教育プログラム開発などの研究を手がけている。福島県立医科大学がんの遺伝外来で遺伝カウンセリングにも携わっている。
現在、杏林大学保健学部准教授。

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『ここからスタート アドバンス・ケア・プランニング
~ACPがみえてくる新しいアプローチと実践例』
(へるす出版)

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