見出し画像

【第3回】塔に魅せられて

執筆:桂田 菊嗣
   大阪急性期・総合医療センター名誉院長
--------------------------------------------------------------------------------------
 近鉄奈良駅から登大路を少し上るとすぐ奈良公園の芝生に出る。そこがもう興福寺の境内である。寺の境内は公園と一体化しているので境界がない。
 興福寺は藤原氏ゆかりの寺である。奈良遷都と同時期に藤原不比等らによって創建され、その後も藤原家の保護によって大伽藍になった。東大寺が官製ならこちらは民間の寺である。ただ平秀衡の南都焼討ちで東大寺もろとも建物の殆どが消失し、その後は朝廷や摂関家の保護も薄れた。そのうえ明治の神仏分離や廃仏毀釈もあって過去の姿を失いつつも往年の面影を保っている。
 今の興福寺には東金堂、中金堂(つい最近再建された)、国宝館、北円堂、南円堂などの堂宇が並ぶが、すぐ目に飛び込むのが五重塔である。もともと光明皇后の発願で創建されたのを、当時の様式を踏襲しながら室町時代に再建されたものである。中世らしい豪快さがあり、信仰に裏付けされた屋根の勾配や重なり、軒の出の深み、ほどよい逓減率など、しばらく立ち止まって見上げる。建立に苦心した古人のたくみに感動するのである。
 五重塔は奈良県内にはほかに室生寺に、京都では東寺、仁和寺、法観寺、醍醐寺にあり、いずれも美しいがすべて平安時代の建造物である。好みとしては醍醐寺の五重塔の造形美に惹かれるが、興福寺の塔の前に立つとふるさとに戻ったかのように気が鎮まり心が安らぐ。ここにも「蒼玄さ」を感じるのである。

画③1興福寺五重塔

興福寺五重塔 室町時代に再建された塔であるが、創建時の様式を踏襲しているので天平時代を彷彿させる。高さからいうとわが国では東寺に次ぐ。軒の出が深みがあり豪快さのなかに落ち着きを感じる。屋根と塔身とのバランスがとてもいいように思うのはひいき目であろうか

画③2猿沢池に映る五重塔

猿沢池に映る五重塔 興福寺から五十二の石段を下りると猿沢池にでる。五十二は菩薩修行の段階である。猿沢池に五重塔の影を落とす風景は奈良のランドマークになっている。池の端にある衣掛けの柳には帝の寵愛を受けられなかった采女が衣をかけて池に身を投げたという悲しい伝説がある

画③3室生寺五重塔

室生寺五重塔 小ぶりの五重塔であるが(興福寺五重塔との1/3ぐらいか)、大杉の間に華麗な姿を見せる。奈良時代と言いたいのだが都が京に移って間もなくのころの建立で、わが国の五重塔としては法隆寺の塔に次いで古い。逓減率低く(上層にいくほど細くはならない)、屋根の勾配がゆるやかで出が深いのが特徴で、てっぺんには水煙の代わりに宝瓶が付く。うっそうとした深い森林に囲まれて木材部の朱色が映える異色の美しさである。シャクナゲのお迎えを受けるとなお嬉しい。「ささやかににぬりのたふの立ち澄ます・・」とは会津八一の表現である

 飛鳥時代の法隆寺五重塔は別格として、奈良時代創建の五重塔は奈良に現存しないから全国にもない。ただし奈良時代にこだわるなら市内の元興寺と海龍王寺に正真正銘の奈良時代作の五重の小塔がある。高さ5mほどのミニチュアとはいえ、保存状態も良く、国宝にも指定されていて8世紀にしての緻密で精巧な作りに驚嘆する。かたや東大寺大仏殿や興福寺中金堂といった巨大建築物を作り上げた同時代の職人たちの作品である。多くの職人たちの努力と協調と美的感覚の結集を、手に取るような眼前に見る。

海龍西金堂R207

海龍王寺西金堂 小さくて実に簡素なお堂であるが殆ど奈良時代のままの貴重な存在である。これが当時の普遍的な仏堂の姿であろうか。かつての光明皇后の住まいがすぐそばにあり、平城京の鬼門を守るために同皇后の発願によって建立されたという。なかに国宝の五重の小塔が収められている

 三重塔に目を移すなら、飛鳥の法起寺のほか、奈良時代から現存するものに薬師寺東塔と当麻寺の東西両塔がある。当麻寺は飛鳥時代に霊山二上山のふもとに創建された大伽藍で、東西に三重の両塔を有するのは全国に例がない。寺には中将姫が西方浄土を蓮糸で紡いだという曼荼羅もある。なぜこの辺鄙な地にと思うのだが、近くに難波と大和を結ぶ道が通っているのが関係しているらしい。 
 実は興福寺にも一段下の地に隠れていて見逃がされがちな三重塔があった。平安後期の作品であるが恥じらいながらも優美な姿を醸し出している。興福寺の現在の建物としては北円堂とともに最古のもので歴史的価値も高い。

画像5

法起寺夕景 斑鳩の地に近接して法隆寺(五重塔)、法輪寺、法起寺の三重塔が並び斑鳩三塔と呼ばれる。法起寺三重塔は飛鳥時代から現存する国宝である。「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句があるが、子規はこのあたりで法隆寺の鐘の音を聞いたのではないかと思われる。周囲に柿の木が多いからである。奈良の御所柿は小さいながら甘くておいしい

画③6当麻寺東西の三重塔

当麻寺三重塔 東塔は奈良時代末期の建立で我が国の三重塔としては法起寺のに次いで古い。東西に配する三重塔としては唯一の貴重な存在である。二上山を背景にして東西両塔が対峙する贅沢な風景を見る

 多層の塔としてはかつては各地に七重塔や十三重塔があった。東大寺には創建時に東西二基の七重塔があったという。
 木造の十三重の塔をいま談山神社に見る。中臣鎌足の長男がこの因縁のある地に父の墓を移して十三重塔を建立したのが発祥とされる。もとは寺であったのが神仏分離令以降に神社になっているので神仏習合の雰囲気が今に残る。談山の名は鎌足と中大兄皇子が大化の改新の談合をした当地の多武峰が「談い山(かたらいやま)」と呼ばれたことに由来する。
 
 お寺の塔は元来は仏舎利を納めて寺の中心に立ち信仰の対象そのものであった。しかし金堂には佛の慈悲にすがりたいような悲哀を感じるのに対して、聳える塔は天や宇宙に対する畏敬の念を呼び起こす。我々を天に誘って悦びをあたえてくれるような気がする。

画像7

談山神社十三重塔 談山神社のシンボルであり、古くは飛鳥時代に創建されたものであるが再建を繰り返して現在のは室町の塔である。十三重とはいえ、二層以上は屋根だけが重なり楼閣は形成していない。屋根は檜皮葺で、世界で唯一の木造十三重塔である。右奥のほうに中臣鎌足を祀る本殿がある

--------------------------------------------------------------------------------------

画像10

【著者プロフィール】
救命救急医療の実践のかたわら、三次救急医療機関(のちの救命救急センター)の確立とわが国の救急医療体制(一次・二次・三次の機能分担)成立への模索、同時にプレホスピタルケア(いうならば病院前の救急体制)の拡充のための救急隊員教育の体系作り、その延長上での救急救命士教育へのかかわり
【経歴】
昭和35年  大阪大学医学部を卒業
昭和37年  インターンの後、大阪大学医学部附属病院第二外科にて研鑽を 積む
昭和42年  同病院特殊救急部創設に参加(救命救急医学の研究・診療に従事)
昭和49年  大阪府立病院部長に就任(全国初の救命救急センターを設立、重篤な救急患者の診療にあたるとともに、救急医療体制の整備、全国救急隊員教育の拡充等に貢献)
平成11年  同病院病院長に就任
平成14年  大阪府北大阪赤十字血液センター所長に就任
 現在は、大阪府北大阪赤十字血液センター検診業務、救急救命士養成教育、老人介護保健施設管理などに従事

2020年に発刊された『救急救命士標準テキスト第10版』の編集顧問を務める

救急救命士テキスト10e_H1_h1200(web-big)

近著:救急救命士国家試験問題集ではなく、救急救命士という職業人のためにつくられた、今までにない”新しい”問題解説集

画像9

へるす出版 『救急救命士実践力アップ119』

#エッセイ #イラスト #水彩画 #旅行記 #歴史 #奈良 #天平 #五重塔 #出版社  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?