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不登校児の親と先生の言葉

通学班に乗れなくなる

長男たこ・長女ぴこ・次女ちぃは、絶賛不登校・不安定登校の日々だ。

両親は、フルタイムで共働きなこともあり、不登校を容認することに時間がかかり、『激しい行き渋り』という死闘を日々繰り返していた。

子どもたちは、まず通学班に乗れなくなった。
学校へ行きたくないから寝坊する。それももちろんあったが、そもそも通学班というシステムがあまり好きではなかった。我が子たちには、自分のペースで歩きたい!という大前提があった。
おしゃべりして列から離れ、上級生に怒られることもストレスだった。かといって黙って歩くこともストレスだった。ゆっくり歩いたり、急かされたり。
もう、登校班めんどくさい。という認識がこびり付いていた。

通学班に乗れなくなった子どもたちの登校時間は、日を増すごとに遅れていく。7時40分集合の通学班を諦めると、7時50分、8時、8時10分…と毎日毎日、家を出るのが遅くなった。

そもそも、通学班に乗ることが出来ないという事は、『親が小学校まで送り届ける』ということになる。子ども個人での登校は、安全上の理由で、許可されていない。
「うち、兄妹3人いるんで、3人の通学班でお願いします!」なんて、都合のいい話も通らなかった。

親にも仕事がある。出勤時間までに子どもを小学校に送り届け、8時45分の電車に乗らなければならない。最終リミットがその電車。一本遅れたら母は会社を遅刻だった。

通学班に乗れないおまけに、道中ゴネられ、校門の前で立ち止まられ、昇降口で泣き出す。
おいおいおいおい。勘弁してくれよ。こっちは、社会的信用に関わるん
だよ。大人は会社!子どもは学校!頼むから行ってくれ!!

そんな毎日を何カ月も繰り返していた。

保健室での先生の言葉

小学校には、三つの校門があった。色んな方角の子どもたちを受け入れるために、校舎脇の門扉も開かれていた。

我が家が使うのは西門だった。西門をくぐると、保健室の前を通り、職員室の前を通り、昇降口に辿り着く。

その日は、西門の外で、我が子たちが立ち往生してしまった。たこは、高く空を見上げて一歩も動かなくなった。ぴこは、「行きたくない!怖い」と半泣きの状態で、西門の柵にしがみ付いた。ちぃは、ランドセルを放り投げて、うずくまって泣いている。

両親の腕力をもってしても、1年生、3年生、6年生を担いで昇降口へ運ぶのは無理だった。時間に余裕もない。

母は、保健室の扉を外から叩いた。「先生!すみません。いつもの行き渋りなんですけど。。手伝っていただけませんか?」
保健室の先生は「あらあらあら。」といった様子で、笑顔で出てきてくれた。

3対3だ。行けるかもしれない。大人同士目配せして、母が、パニック寸前のぴこを引き取る。夫は、冷静にたこと話し出した。保健室の先生には、幼さ故にチョロそうな、ちぃをお願いした。

説得しても、脅しても、子どもの話を聞こうとしても、あの手この手を尽くしたが、子どもたちは校門をくぐらない。母ももう、駅まで走ったところで最終リミットの電車にはとうてい乗れなかった。力が緩む。今日も会社遅刻だ。

親の力が緩むと、子どもたちも緩んだ。保健室の先生の提案を受けて、「とりあえず保健室の中に入ってみる」ことに納得したようだ。子ども3人と、遅刻確定の母が、外扉から保健室に入れてもらう。夫には出勤してもらった。

子どもたちは、保健室の中でも緊張し、直立不動であったが、保健室の先生が、母を椅子に案内してくれた。母が座ると、子どもたちは緊張が少しほぐれ、保健室にあるぬいぐるみを手に取りだした。

「いつも、こんなで。ホントにお忙しい中、お手数をおかけしてしまって。申し訳ありません。」母は保健室の先生に頭を下げた。
「大変ですね。」と保健室の先生は、うなだれた母と、ぬいぐるみで遊びだした子どもたちを見ていった。

そして、保健室の先生が明るく言った。
「お母さん、大丈夫よ。今、学校来れない子いっぱいいるのよ。フリースクールだって、沢山出来てるでしょ?学校に来れなくても、立派に大人になってる人、大勢いるのよ。」

母は、鉛のように落ちていた重たい心が、その心の鉛がサーっとみるみるうちに冷えていくのを感じた。冷たくて重い感情が、心を支配する。

(なんて言った?キレイゴト言ってんじゃねぇ。どこにそんな場所がある?子どもが電車で自分で通えると思うのか?どこにそんなお金がある?3人分の月謝を知っていて言ってるのか?お昼をどうするか、分かっているのか?)

冷たくて重たい感情は、頭で先生の言葉をリフレインする間に、大きな怒りに変わっていた。
母は、「学校しか、ないんです。」とやっとの思いで伝えた。

近隣の児童館は、午前中は乳幼児親子のみ受け入れており、小学生は対象外。午後も、コロナ明けの人数制限で予約制になっていた。
学童は、条例があるらしく、『放課後の児童を受け入れる』という大前提があり、午前から引き受けてはくれなかった。そもそも、学校を欠席した児童は、学童に登室出来ない、と言われていた。
フリースクールは一番近くて電車をいくつか乗り換えた先の駅にあった。
公民館は大人の居場所。平日昼間の小学生向けの環境は整えられていない。
公園に放置すれば、危険を伴う。心配した近隣住民に通報されることだってあった。

もうすでに、母は思いつく限りの公共施設に当たっていた。無いんだ。
小学生が平日昼間に安全に過ごせる場所が、どこにも。

家に留守番させたことがある。
仕事から帰ると、お湯をかけないでかじったカップ麺の残骸が転がっていた。1年生のちぃが、ノーヘルで自転車で飛び出した痕跡があった。たこがテレビを独占し、12時間以上視聴していた。一番つらかったのは、ぴこの自傷だった。むしられた髪の毛の束が、玄関に、洗面台に、台所に、ごっそりかためて置いてあった。

保健室の先生の励ましは、とても浅く、母から『人を頼る』という熱を奪った。先生に悪気はなかったはずだ。しかし、とてもえぐられてしまった。所詮他人事だ、という事実を突きつけられた。

そうなんだ。理解されない。
不登校を本当に理解されることはない。当事者で経験がなければ、
「大変ですね」で終わるんだ。

保健室の先生を責めているのではない。世間の認識、考えの浅さは、大抵がきっとこんなもんだ。

知識としてすら、不登校の実態を知らない人がとても多い。
「親の甘やかし。」「躾の失敗」「子どもの弱さ」。

極めつけは「愛情不足」だ。精一杯の愛情を持って育てているつもりだ。
でも愛情不足で不登校になった、と言われる。仮説に過ぎないと頭では理解しても、「子育ての失敗」という烙印を押された、絶望があった。
あなたの今までのやり方は自己満足に過ぎない。育て方を間違っていたんですよ、と言われたのと同義だ。
八方ふさがりのどん底に落とされるような、漆黒の闇に一人取り残されたような。そんな気持ちになった。

不登校になって受ける、言葉、態度、視線。当事者以外の人からは、そんな思いを受け取ってしまうことが少なくなかった。

校長先生の思い

校長先生は、不登校の問題をとても親身に聞いてくださった。
今まで私たちの学校にはなかった、『別室登校』というシステムも、職員会議室を開放し、あの手この手で作ってくれた。

授業時間に教室が辛くなったら、担任の許可の元、図書室へのエスケープも許可してくれた。

校長先生は、校舎に入れないぴこと、教室に入れないもう一人の男の子を連れて、校庭を散歩してくれたこともあった。
「私、この学校で一番ヒマですから。」と笑顔でぴこを引き受けてくれた。
校長先生は、ぴこと男の子と3人で、校庭の植物を観察し、図書室で名前を調べたそうだ。
「(校長自身が)楽しかったんですよ。」と後日母に話してくれた。

校長先生の思いは、ずっと変わらない。
学校の中で、子どもたちを救いたい。』というものだった。

校長先生は、近隣の児童館や、学童職員、放課後の校庭開放スタッフ(地域)と会議をする機会を作り、情報共有と連携を図った。
そんな取り組みを、学校側が仕切ってやることは、私の知る限り珍しかった。
学童職員がアポをとり、学校に情報をもらいに行ったり(それでも個人情報がどうのこうの言って何も得られない事も多いと聞く。)、地域からの要望を、その場限りの挨拶で受け流す、そんな学校が多かった。

校長先生は、我が家にもとてもお心を寄せて下さり、心配していた。どうしたら、3兄妹が学校に来られるようになるか。どう環境を整えることが子どもの為になるか、親と一緒に真剣に考えてくれた。

しかし、我が子たちは学校に行き渋った。
その一つには、情報共有の漏れもあった。校長の思いや、我が子の状況を、担任以外の先生が知らない。良かれと思って子どもにかけた言葉が、子どもを大きく傷つける場合も少なくなかった。

何も知らない先生が、
「わぁ!久しぶり!教室行くの?みんな待ってたよ!」
なんて声をかけようものなら、子どもの顔はみるみる曇る。
(教室行かなくて良いって言ったくせに。うそつき。学校に挨拶だけって約束したのに。やっぱり連れていかれるんだ。怖いって言ってるのに。ママが“大丈夫”って言ったくせに。)
怒ったような、泣きたいような、そんなギラついた目で、母が睨まれていた。

子どもたちは学校に行けなくなった。
それでも社会との交流は持ってほしいという親の強い思いがあった。近隣児童館に一旦子どもを特例で預けて、遊んでほぐれた所で学校に誘導出来ないだろうか、と。
児童館館長は、それなら行けるかもしれないですね、と同意してくれたが、校長先生がストップをかけた。

「児童館は子どもが遊ぶところなんです。きっと、学校より児童館が良い、となってしまいます。学校に益々足が運ばなくなってしまうと思います。学校の中で、解決したいのです。学校に、子どもの安心できる場を、私は作りたいのです。」

と。気持ちはありがたい。けど、そもそもの登校が出来ない。校長先生の温かい思いを受けているのに、頑なに学校に行かないという子どもたち。

母は、校長先生のお気持ちと、それを無視し続けている我が子の態度に板挟みになり、とても苦しかった。

両親は、子どもが徒歩で通える児童館ではなく、車で隣の市まで行き、その児童館に子どもを下ろし、少し仕事をして迎えに行ったこともあった。なんか、変なの。と思いながら。

子どもがしばらく学校へ行っていない。
親も冷静になって、思う。校長先生の『学校の中に居場所を!』という一貫性は、校長と言う立場も含め、ありがたい考え方だな、と。

もし、校長先生があの時、「良いですよ。児童館行ってください。」と言っていたら、きっと本当に、“帰る場所”がなくなっていたと思う。「学校に来なくても大丈夫なら、良かったですね」と言われていたら、小学校を親自身が諦めていただろう。

校長先生が、いつも『学校に戻っておいで。』というスタンスでいて下さっているからこそ、今も親は葛藤しているし、子どもも悩んでるが、それで良い。校長と言う立場の人が、自分の学校に自信を持って子どもを迎えられないなら、そんな学校は誰にとっても要らないものになってしまう。

校長先生は、“学校”というものにすごく思いがあるし、“教育”や、“子ども”にすごく思いがある。あぁ、この校長先生で良かったな、と思う。

自分への教訓

  • 励ましに傷つくこともあるけど、今キツイって言葉に“思い”を受けとることもある。

  • 人と関わっているからこそ、“葛藤”ってある、と思えば、“葛藤”も悪くないかも。


学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。