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エンデとシュタイナー/ミヒャエル・エンデ『モモ』【×えるぶの語り場】

エンデがシュタイナー教育に出会ったのは17歳の時でした。
エンデは12歳で一度落第を経験している問題児で、学校に対して強い反感を持っていたのは事実としてあったらしい。
そのような背景もあり、シュタイナー教育の自由な方針は彼にそれなりの影響を与えていたと推測はされますが、
そのシュタイナー学校を卒業2年前に中退していることもあり、彼の創作活動にシュタイナー教育が100%影響を与えていたと判断するには早急なような気もしています。
しかし、何かしらの影響を与えたことは間違いはないと考えられます。
今回は、そんなエンデとシュタイナー教育の関連性について『モモ』から読み取れる部分についてのお話です。

モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。彼女はただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。
モモに話をきいてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよっていた人は、きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。

(「モモ」, p.22)

シュ:本書の前半では、モモはひたすら、このような態度で周りの人たちの話を聴いていたと思うのだけど、
聞く姿勢に徹するというのは非常に難しいことだと思ったんだよね。

:それは価値判断として評価している?あくまでも文面からしか判断できないから推測なのだけど、人の話を聴いている時のモモの姿勢からは絶対的な無反応さを感じたんだよね。
カウンセリングの場合は、アドバイスはしないけれど、それなりに言葉を返すし、カウンセラーは相手に合わせて表情を変えたりしている。
そういう意味ではモモに対して違和感を覚えたな。

シュ:僕は評価しているかな。
相手の言っていることを否定せずに聞く姿勢というのは、よく西洋の小説に出てくる赦しの秘跡の形式に似ているなと思ったんだよね。

仕切り越しに自分の罪について話して、自分がその罪を認めることで解決に導かれるという行為じゃないですか。

モモは素で赦しの秘跡的なことをしていたのかなと。

:それは面白い解釈だね。本書には書かれていないけれど、エンデの中でそういった前提みたいなものはあるのかな?

シュ:あくまでも推測なのだけど、あると思うんだよ。
少し前に話したシュタイナーの話は覚えている?

シュ:あくまでも推測なのだけど、あると思うんだよ。
少し前に話したシュタイナーの話は覚えている?

:うん、覚えているよ。

シュ:実はエンデはシュタイナー教育を受けていたんだよね。

:そうなんだ。

シュ:教育というのは、大きく分けて2つの種類に分類できると思うんだよ。
1つは「人間は何も知らないから、何もない器に知識を詰め込んでいく」という形で、
2つ目は「人間は元々、知識は持っているがその知識の引き出し方を知らない。その知識を引き出すことが教育である」という形。

:なんか、プラトンの想起説みたいだね(笑)

シュ:まさにその通り(笑)
シュタイナー教育というのは、後者に該当するものなんだよ。

なので、エンデはモモの傾聴するという行為にその思想を当てはめていたのではないかなと思うんだよね。
彼自身はそれについて明言していないので、あくまでも推測の域をでないのだけど。

:なるほどな。そう考えると面白いな。

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