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『兎とよばれた女』part5/かぐや姫とプラトン【えるぶの語り場】

今回は『兎とよばれた女』の<かぐや姫に関するノート>という箇所をテーマに対談をしてきました。
この章では、矢川澄子の考えるかぐや姫論が展開されています。
さて皆さんは、日本最古の物語文学である『竹取物語』の主人公であるかぐや姫に対して、どのような印象を持っていますか?
「無理難題を押し付けてくる女性」人によっては「悪女」と評する方もいるかもしれません。
ただ「無理難題を押し付けてくる女性」「悪女」という評価は、男性的な視点から見たかぐや姫像なのではないか...?
矢川のかぐや姫論を読むとそう思うようになりました。
この小説を最初に読んだときは「急にかぐや姫の話が出てきた!どうして!?」と脳内がパニックを起こしたのですが、
現在はひとりの女性目線で語られるかぐや姫がこの話に必要な要素であることがわかります。
是非、この記事を読んだうえで別視点から本書を読み返してみてください。

シュ:早速なんだけど、ソフィーはかぐや姫に対してどのような印象を持っている?

:俺がかぐや姫に対して持っているイメージとしては、男たちに対して無理難題を押し付ける悪女のようなイメージがあるね。

シュ:僕もかぐや姫については、悪女の印象を持っていたのだけど、矢川の語るかぐや姫を読んで少し印象が変わったんだよね。
気取った天上の女というよりは、社会の中(穢れた地上)で悩みながらも生きている一人の女性という印象を持った。

:確かに。男性から見たかぐや姫は悪女という印象が強いのかもしれないけれど、女性視点のかぐや姫論は新しいなと思った。

あ、男性的な視点と女性的な視点という対立軸が存在していることに本書の内容として重要になってくると思うんだよね。

シュ:うん。第一章で語られた「天使と男性」第二章の「兎と神さま」第三章の「かぐや姫と帝」といった具合に、明確には男女と記載されていないけれど、恐らく男女であろうという二つの存在のやり取りが描かれているよね。

:元々この対立軸はあったのだけど、かぐや姫の部分でそれが顕在化されてきたイメージがあるね。

シュ:全体的にはどうでしたか?『オデュッセイア』とか、ソフィーの引っかかりそうな話題が盛沢山だった章だと思うのだけど。

:『オデュッセイア』はそこまで考えなかったかな。今回の章を読んでいてもプラトンのことをすごく思い起こしたんだよね。
例えばp.76「ひとりの娘の魂についての物語です。」という箇所もそうだよね。
「ひとりの娘の物語です。」と言えば良いのに「魂」という言葉をわざわざ付けている訳だよ。

あとはp.78の「別世界」ということはイデア界のことを指しているのではないかとか、
他にも「美しさが人間の目を曇らせる」「前世の記憶」...そういったことを踏まえてプラトンを意識しているなと思ったんだよ。

前回『饗宴』を思い出したと言ったけど今回は『パイドン』を思い出したね。
プラトンは『饗宴』においてイデア論を始めて導入したわけだけど、それを体系化させたのが『パイドン」』だよね。
『パイドン』の中では肉体と魂の二元論が展開されて、肉体を脱ぎ捨て純粋な魂になるのが最上の喜びであると書いている。
なぜ、それが喜びなのかというと、肉体を通した感覚は魂を欺くものという彼の理論がある。

前世の記憶も想起説だよね。地上に生まれてきた魂はイデア界に記憶を持っていて、
僕たちが何かを学ぶときは、新しく学ぶのではなくて思い出すという理論。

シュ:かぐや姫の美しさが男たちの目を曇らせてしまうというのも、それに該当するのかな?

:うん。
p.22に記載されていた「肉体の重さから解放される」だとか「美を希求する」とか、ここまでの「兎とよばれた女」に一貫しているのはプラトン的な二元論かなぁ。
あるいは、精神的なものを希求するという姿勢が一貫しているとも言えると思う。
これが今回の感想というか分析かな。

シュ:僕は前回ソフィーに言われるまでプラトンを意識していなかったのだけど、それを意識して読むと意図的に書いていると思わせる要素ではあるね。


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