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『ここがヘラルボニーだ、ここで跳ぼう!』

 いつもヘラルボニーを応援してくださっている皆様、初めてお目にかかる皆様、はじめまして。11月に入社のご縁をいただきました、橋本梓龍(しりゅう)と申します。11月に新設された経営企画部門で、シニアマネージャーとして経営・事業戦略や財務のお仕事などを担当させていただいています。

 ずっと「障害という言葉のない社会」を目指して生きてきたので、福祉実験ユニット「ヘラルボニー」とのご縁に心から感謝しています。今日は普段は苦手な全力の自己開示をしつつ、今この記事を読んでくださっている私たち(あなた)が生きる社会のこれからについて、一緒に考えさせてください。

写真1:吉田松陰を尊敬しています。あっという間に同い年になってしまいました。

1. ここがロドスだ、ここで跳べ!

 先ずはキャリアを綴ることが本来の流れと思いつつ、その前に記事タイトルの元となっている「ここがロドスだ、ここで跳べ」という私の大好きな言葉を紹介します。

 この言葉は、マルクスの「資本論」やヘーゲルの「法の哲学」という本で引用された有名な言葉で、私の行動指針となっている言葉の1つです。改めて調べると、AKB48さんの曲にもなっていました。秋元康さんが音楽の形で格好良く表現しています(私もつい最近聴き、好きになりました! 普段はロックやエモ&スクリーモが大好きです。)

 言葉の出自は下記のイソップ寓話からです。

「ここがロドスだ、ここで跳べ!」とは、イソップ寓話の「ほら吹き男」の話をもとにした成句。あるほら吹きの競技選手が遠征先のロドス島から帰り、「ロドスでは大跳躍をした、みながロドスに行ったらロドスの人が証言してくれるだろう」と吹聴するが、これを聞いた男が「それが本当なら証人はいらない、ここがロドスだと思って跳んでみろ」と言い返したというもの。

(出典:Wikipediaより)

 出自となった寓話の文脈で言うと、『嘘つきの戒め』としても捉えられる気がしますが、『机上の空論を語ったり、”理想のたられば”や過去の話をするのではなく、今この現実の前で行動しろ(結果を出せ)』といった意味で使われていることが多いと思います。私もその意味合いでとても好きです。自分に対しての戒めとして唱えることが多いこの言葉ですが、ふと「ロドス島が誰にでもある社会だろうか」という疑問が浮かぶようになっていて、いつか「ここがヘラルボニーだ、ここで跳ぼう」と言える新しい社会を作っていきたいと思い、ヘラルボニーへの入社を志すようになりました。

 それが何故か、というお話をするために古代ギリシャのロドス島の話から、平成生まれ日本育ちの私の話に戻ります。既にお察しいただけるかもしれませんが、「自分はこんなことをしてきたんだ!(或いはしてしまったんだ…)」という昔話をするのは実はあまり好きではなく(聞くのは好きです)、今目の前にいるその人、今ここの自分を大切にしています。

 唯、今回は折角の貴重な機会なので、普段はなかなかしない自己開示も含めて長々と綴ります。恐らくヘラルボニー史上最長です。笑 (目安読了時間:10分弱。noteの途中離脱字数は3,000字程度だと知りつつ、この10分後には仲間が増えることを信じて綴りました…!)

昔話は
・父とスティグマ
・戦争とアート
・特別支援学級の友人とコミュニティ
・テクノロジーと障害  の4本立てです。
「障害という言葉のない社会」を目指すきっかけになったお話達です。

2. 父とスティグマ

 私の父は、私が物心がついた頃からずっと家にいる人でした。Windows95の時代から家にPCを4台も持っていて、自分でWebサイトを作ったり、PCを組み立てたり、凄く頭が良くてなんでも解決してしまうスーパーお父さんです。唯、「働いていない」というスティグマ(疾患や障害による差別や、根拠のない烙印)によって社会から断絶された姿も見てきました。

 そんな父と一緒にゲームをしたこと、小学生の自分にVisual Basicからプログラミングを教えてくれたこと、一緒にベーゴマやメンコといった昭和の遊びも教えてくれたこと、喧嘩の勝ち方を教えてくれたこと…と挙げたらきりがない程、私の人生で1番楽しい思い出は父と共にあります。しかし、学校や社会に少し出ると、私の父は偏見で見られ語られることに気づき、その違和感からスティグマという言葉を知るに至りました。

 自分にとって最高の父が、社会からは欠陥のある親のように言われる。これが「スティグマ」そして「障害」に対しての違和感と憤りの源に繋がっていきます。勝手ながら、ヘラルボニーの両代表が語る想いに共鳴できるのはこんな背景があると思っています。

写真2:最高の父と美味しいお酒を飲む、昔は想像すら出来なかった幸せ

3. 戦争とアート

「げんしばくだんがおちると ひるがよるになって ひとはおばけになる」(小学3年、坂本はつみ)

「夏の雲は忘れない」 夏の会 編

 「夏の雲は忘れない」のこの一節を思い出しながら、理不尽な生と死に向き合って生き続けることの本質を考えています。いつからか8月6日と8月9日は、誕生日よりも、自分の生き方について考える日になっています。

 「自分が死ぬ覚悟はできても、相手の兵士を殺す覚悟はできやしない」という兵士の言葉を反芻します。ルワンダジェノサイドで、加害者と被害者が共存するコミュニティに敬意を覚えます。現代の日本でも、違う形で、こうしたことが常に存在していると思います。

 小学4年生の頃、祖母に連れられて原爆ドームを初めて見た当時の自分が描きあげた絵はもう残っていませんが、今でも唯一、鮮明に思い出して描くことができる絵です。原爆ドームを訪れ、戦争を知り、当時ガザ地区の内戦を取り上げた記事をスクラップしては、「理不尽な生と死」について考える日々を過ごしました。

 時間が経ち、アートに触れるようになった大学生の時、「ジャン・デュビュッフェ(アール・ブリュット、アンフォルメルの先駆者とされています)というアーティスト、そして「アンフォルメル(第二次世界大戦後にフランスを中心に興隆した芸術運動)というアートに出逢います。(アール・ブリュットに関しては、ヘラルボニーの先輩である深澤さんの卒業論文がnoteマガジンにあるので是非!)

 ここで、小学4年生の頃の自分と大学生の自分が繋がり、更には「シュルレアリスム」や「キュビズム」といった、主に戦間、戦後に生まれたアートに強い関心を持ち、のめり込むようになりました。そこには現代には無い感情を突き動かす何かがあったのです。

「理不尽な生と死のない社会」を見てみたいという気持ちになったこと、なんの文脈も知らずとも「イメージ」が「イメージ」として強烈に伝わる凄さをアートを通して知ることになったのです。
 ヘラルボニーの異彩に出会うのも必然だったのかもしれません。

4. 特別支援学級の友人とコミュニティ

 ほんの少しだけ、同級生とは違う環境で育ったこともあり、家庭の事情で運動部には入れませんでした。両親と祖母のお陰か、人に対してのバイアスがなく、特別支援学級の友人ができました。すぐに、同級生から変な目で見られるようになりました。

 そんな友人と、もう一人訳あって運動部に入れない友人と3人で「科学部」を立ち上げました。「運動部至上主義」とも言えるようなコミュニティが存在する学校だったので、すぐに馬鹿にされ、思い出したくないようなこともあったと思います。(辛い思い出は結構忘れています。笑)

 その「科学部」を最高に格好良くて、運動部に負けない部活動にしようと、色んなことをしました。みんながワクワクする実験お披露目や、学校の中庭に畑を作って野菜を栽培したり、科学コンクールに出場したり…そして契機がマラソン大会でした。運動部に負けない体力を持っていた私と友人が、マラソン大会で運動部に勝ってしまったのです。(実はいっぱい練習もしました。練習をしていると「科学部が何のために走ってるの」と沢山馬鹿にされました。笑)

 しかし、そのマラソン大会から徐々に同級生からの見る目が変わるようになり、いつしか「科学部」と私、そして友人も馬鹿にされることが殆どなくなったのです。翌年の部活動紹介の後は、新入生が何十人も部活見学に来てくれる(一学年100人ちょっとの小さな学校です)、運動部と同じくらい魅力的な科学部が出来上がりました。

少しの違いですぐに馬鹿にされるコミュニティの窮屈さから、少しの出来事ですぐに見方が変わるコミュニティの面白さと軽率さを体感した出来事でした。同時に障害や戦争、スティグマに関する本を沢山読むようになり、「障害という言葉のない社会」を見たい、と強く決意することになったのです。
 ヘラルボニーと出会えたのも、この頃から障害や福祉についてリサーチする習慣がついたからだと思っています。

5. テクノロジーと障害

 大学では新潟大学工学部福祉人間工学科に進学します。高校生の頃は、科学誌のサイエンスを読んでZFNやTALENといったゲノム編集技術を知り、これで障害が無くなるんじゃないか、と今思うと少し浅はかな気持ちで化学に強い関心がありました。唯、別のご縁があり当時は全国でも珍しかった「福祉人間工学科」というテクノロジー×福祉を学べる学科を目指し進学しました。点と点がどんどん線になっていく、そんな大学生活でした。(日々12時間以上のバイト生活をしつつ、夜勤明けに寝坊して単位を落としそうになる怠惰な生活もしていました...苦笑)

 当時は「視覚に障害があっても晴眼者と対等に遊べるオンラインゲーム」の開発をし、テクノロジーが「障害という言葉のない社会」を見せてくれると信じていました。お金ともう少しの賢さがあればきっと大学院に進学して、博士になって、という研究開発の道を歩んでいたと思います。

 しかし、当時研究に協力してくれていた方から「障害を障害と思わない社会になってくれればそれが一番良い。橋本さんが作るゲームではなく、橋本さんのような人に囲まれて生活できたらそれで充分なんだ。」という言葉を聞くことになります。そこで、果たしてテクノロジーが最適解なのだろうか?という疑問を持つようになりました。

写真4:研究室に寝泊まりし過ぎてヨレヨレの白シャツを着ているのが私です。

 その後、当時「世界一倫理的な企業」に選出されたスターバックスコーヒージャパン(株)に出会い、下記の3本柱を目標に新卒で入社をしました。

  • 障害のある方の雇用機会を日本の全店舗(現在は1600店舗以上)でつくり、日常のカフェという場所から社会の価値観を変える

  • この組織で利益を上げ続け、世界に約3,000万人近くいるコーヒー生産者(児童労働や貧困が当たり前の国が多い業界)と共に豊かになる

  • 敢えて、今までとは違うアプローチで「障害という言葉のない社会」を目指し、最初は店舗経営を通して経営の守破離をしていく

 その後は本当に沢山の方と出会い、沢山の経験(主に挑戦と失敗と挫折の連続…)をさせてもらいながら、のちにオリィ研究所さんやX Diversity、PXDTさん、そしてヘラルボニーと出会い、「事業開発の実力をつけた上でこの人達と働きたい!」という思いで、(株)リクルートに転職&修行を積み、今に至ります。

写真4:新卒2年目の私(左)とスターバックスの財産である友人(右)

6. 私がヘラルボニーでどう跳びたいのか(今ここからの話)

 そんな4本柱の原体験と、沢山の人の支えがあり「障害という言葉の無い社会」を目指して生きてきました。ここからは、そんな私がこれからやりたいことの話と、私たちの社会の話を。(ここからが本題です!)

 障害に限らず、所謂スティグマとされる様々な差別が当たり前のように存在する社会が私たちの生きる現代です。そんな社会で「ここで跳べ」と思えないことも沢山あって、その理由は跳んだ先に落とし穴が待ち構えているような環境もあるから、そしてそもそも「ロドスで跳んだ」という経験すら存在し得ない環境もあるからだと感じています。

 もう少し具体的に考えると、「挑戦して失敗した時のセーフティネットを無視して挑戦させる」ことや「失敗した時のセーフティネットが無い(もしくは痛すぎる)から挑戦できない」ということが沢山あって、『ここがロドスだ、ここで跳べ!』という前に『ロドス(での経験)を作れているだろうか?』という疑問に直面することがあるのです。

 分かりやすく、抽象的かつ極端な話に引き上げてしまいますが、アウシュビッツ収容所に収容されたユダヤの人々が『働けるか、働けないか』の基準でガス室に行くかどうかを決められたのは有名な話です。唯、現代でもこの基準は強く存在していると感じていて、『働けない』とされる障害や疾患(所謂スティグマ)があると社会はその存在を『働けない』人生へと強引に引っ張っていきます。(私の父もその1つの例でした。しかし私が社会人になる頃に、父はとあるきっかけで会社の役員となり大活躍しています)

 そして、現代の『ロドスで跳んだか、跳んでないか』は『働けるか、働けないか』つまり『何らかの実績や挑戦の跡があるかどうか(学歴や職歴など)』だけで判断されているとも言えないでしょうか。

 拡大解釈ではありますが、「働けるか、働けないか」だけの軸で人を判断してしまうのは資本主義(成長主義)の非常に良くない側面だと思います。資本主義の枠の中では確かに必要な判断軸になることもあるのかもしれませんが、その軸が人への敬意を著しく損なうケースも多々散見されます。

 私の父はその意味でいうと「働けない人」の期間が長かったので、父を自然と見下したり(見下す人は同情的で無意識なケースも多いです)、敬意を持たずに接してくる人を、幼少期からよく見てきました。私の父は私が最も敬愛する人ですし、父の中の多様な側面を見てもらえれば、誰もが敬意を持つ部分があると思っています。これは私の父に限らず、どんな人にでも言えることでは無いでしょうか。

 話を本題に戻しますが、誰もが『ここがロドスだ、ここで跳べ』と言える社会、思える社会はとても魅力的だと思います。唯、そんな機会をどれだけ作れているのか。資本主義の枠で人を判断するような偏見や、何かしらのスティグマを作りそれを排除するようなことが増えてきた人類の歴史にはなかった『新しいロドス』を作り出す必要があるのでは無いでしょうか。人の中にある多様性を尊重し、その「本質的な多様さ」が前提とされた中で『ここで跳ぼう』と思える社会をつくりたいです。

 そんな文脈から、自分が目指す「障害という言葉の無い社会」は、『誰もが「ここがロドスだ、ここで跳べ」と思える社会 』でもあると再認識しています。
 そして、その「ロドス」に代わる新しい言葉が「ヘラルボニー」であり、『ここがヘラルボニーだ、ここで跳ぼう!』とお互いに言えるような場所を、機会を、日常のあらゆる場所に作っていくことが今の野望です。(やっと結論です!笑)

 私は、社会が『ここが資本主義だ、ここで跳べ』と言うなら大跳躍をする覚悟もあります。『ここが差別社会だ、ここで跳べ』と言われればそこで跳びながら闘う意志もあります。唯それは、私が跳ぶ先に希望があって、跳んだ先で落とし穴に落ちても誰かが引っ張り上げてくれるようなロドスでなければならないと思うし、そうであったから今自分はここにいるのだと思います。

 抽象的な話になりましたが、あらゆる人の多様な側面に着目して敬意を持ち、その人の居場所がなければ共につくる意志をもち、それでいながら『ここが資本主義だ、ここで跳べ』と言われる日常と闘いながら、これからも『ここで跳べ』と自分に言い聞かせる日々を送るだろうと思います。命や人の価値を資本軸で合理化する社会から成長できるように。そして、『ここがヘラルボニーだ、ここで跳ぼう』と言える環境と機会を資本主義の中で圧倒的につくっていくために。

 ここまで、冗長な文に付き合っていただきありがとうございます。有難いことに忙しくさせてもらっているので、もう少しだけ、長い文章になってしまったことをご容赦ください…

7. 私たちの社会に存在する理不尽な生と死

 最後に、最近読んだ「誰も正常ではない」という本の中から一節を引用して、これからの私たちの社会の在り方に疑問を投げかけながら、この長い長い自分語りを締め括っていきたいと思います。

「ミクロネシアには、精神障害を逸脱としてではなく、親族の絆を強化する関係形成的な経験として解釈する社会が存在する」

(出典:誰も正常ではない ロイ・リチャード・グリンカー著)

 障害や病気を、ネガティブではなくポジティブへの契機として真剣に受け入れる文化やコミュニティは確かに存在するようです。唯、今の日本では当事者にそんなことを易々と言える社会でもなく、他者が求めるものでもなく、それが主たる解決策とも思えません。

 全体最適な思考停止ではなく、個別の複雑な課題と向き合いながら「ここで跳ぼう」と言える社会をつくることは難しいことなのでしょうか。私は、このミクロネシアの一例のような解釈が新しい価値観となり、一人ひとりの人間が絶望や希望と常に向き合いながらも、『ここがヘラルボニーだ、ここで跳ぼう』と思える未来をつくっていけるのではないかと思っています。

 理不尽な生は「障害」や「社会の都合」といった形で訪れるし、理不尽な死は「事故」や「病気」そして「戦争」といった形で今も唐突に訪れるものだと思います。

 中学に入学してすぐ、特別支援学級の友人や訳あって運動部に入れない友人と立ち上げた「科学部」で、当時「運動部じゃないなんて格好悪い」「なんであいつと部活しているの」という暴力のような同調圧力と闘いながら、理不尽な生と向き合う友人と同じ時間を過ごしてきました。

 その人の中にある多様な一面のどこか一つが、他人や環境から認められないとき、人は理不尽な生を感じてしまうことがあります。「なんでこの身体で、なんでこの社会に生まれてきたんだ」と思ってしまうとすれば、それは社会の側に障害が存在しているとも言えないでしょうか。

 ガザ地区で内戦に巻き込まれている同世代の子供たちの記事。「夏の雲は忘れない」を通して想像することしかできない同世代だった子供たちの気持ち。理不尽な死と向き合う時、それは常に想像を働かせることでしか向き合えないもどかしさを感じることでもありました。だからこそ、スティーブ・ジョブズの言葉をいつも思い出します。

「もし今日が自分の人生最後の日なら、
 今日やることを私は本当にやりたいだろうか?」

出典:スティーブ・ジョブズ スタンフォード大学でのスピーチの一節

 私たちが既に起きてしまった理不尽な死について想像する時、同時にこれから訪れるかもしれない理不尽な死に向き合う私たちと出会います。理不尽とされてしまう生は、どんな私たちと出会わせてくれるのでしょうか。

 理不尽とされてしまう生と向き合ってきた人達を通して、人の中に存在する多様性に敬意を払い、極限状態で表出する人間性も認め、理解することができます。理不尽な生と死について考えながら、常にその理不尽さと闘って生きていきたいと、中学生の時よりも、大学生の時よりも、今一番、強く思っています。

理不尽な死が今を輝かせる。
過去でも、未来でもなく、今を輝かせてくれる。
そして理不尽な死は、過去でも未来でもなく、今に訪れる。
幸せは今にしかない事を気付かせてくれる。
理不尽な生が、幸せに気づく契機になるかもしれない。
そんなことを、軽々しく言える社会だろうか。
常に問い続けながら、理不尽な生と死に向き合いたい。

決意表明

8. さいごに!

 「障害や病気も家族の絆、人生の幸福を得るきっかけ」と考える文化や国(と地域)もある中で、日本、そして現代の世界で私たちは障害や理不尽な出来事とどう向き合い、当事者が幸せになる機会を作っていけるのでしょうか。

 私はヘラルボニーという場所で、常に手を動かしながら、明日と明後日で考える基準を変え続けながら、「多様性」や「ビジネス」や「アート」、そして「障害」とこれからも日々向き合っていきます。第二、第三の糸賀一雄さんのような方が生まれるような社会をつくっていきたいと思います。

 私たちはこれからどんな社会と、どのように向き合っていけるのか。これを読んでくださっている皆さんと、一緒に考えて、手を動かしていけたら嬉しいです。ここまで読んでくださった方とならきっと、新しい私たちの未来をつくっていけると思っています!

 長文にお付き合いいただき、本当に本当に、ありがとうございました。改めて、これからもヘラルボニー共々よろしくお願いいたします。

写真5:父の話ばかりになりましたが、最愛の祖母、叔母、母、姉にも敬意を込めて。
(若い頃の父(右端)の写真は許可を得られないのでカットしますが、とても格好良い父です。)

追記①:長年SNS断ちをしていましたが、入社に伴い更新していきます!※SNSは全て個人的な過渡期の見解、記録です。
note / Twitter / Instagram

追記②:両代表の最高の言葉を最後に残しておきます。
異採用絶賛強化中!!→ あなたの"異彩"は何ですか?

ヘラルボニーを、100年後も残り続ける価値へ

採用ページをご覧のみなさん、こんにちは。
ヘラルボニー代表の松田崇弥・文登です。

私たちは、日本全国の福祉施設でアート活動をする主に知的障害のある作家たちとライセンス契約を結び、
そのアートをさまざまなモノやコトやバショに落とし込み、障害福祉の新たな可能性を拡げていく活動をしています。

2018年7月。「自閉症の兄が幸せになる社会を、人生をかけて実現したい」という一心でヘラルボニーを設立しました。
創業から現在に至るまで、多くの方々に支えられながら、企業として成長することができました。
一生、忘れることのない人との出会いもありました。改めて、この場を借りて感謝を伝えさせてください。

その一方で障害福祉への偏見による、つらい体験も幾度となくしてきました。「なんでこうなっちゃうのだろう」「なんで伝わらないのだろう」。
そんな悔しい思いも、数え切れないくらい味わってきました。

障害福祉への期待と社会に根付く障害福祉への偏見。その両方を味わいながらもヘラルボニーは少しずつではありますが「知的障害のある人とその周りが幸せになる社会」の実現に向けて一歩ずつ、着実に歩みはじめています。

創業から4年。ヘラルボニーは新たなステージへと進もうとしています。これまで育んできた価値を流行り廃りではなく残り続ける価値に変えていく。
そんな変革期を、新しい仲間と一緒に突き進んでいきたいと思っています。

障害福祉への偏見を、そして社会の常識を、一緒に変えていきましょう。

ヘラルボニー採用サイト 松田崇弥・文登

『ここがヘラルボニーだ、ここで跳ぼう!』


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