ゆうすずみ

かすかべ思春期食堂~女剣士ミズキの旅

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  一、事前指導

 朝から蒸し暑かった教室の窓から湿った冷たい風が吹きこんできたかと思うと、雷鳴と共に土砂降りの雨になりました。窓を閉めた教室はさらに蒸し暑く、外に出られない生徒たちの騒がしい声と机をガタガタいわせる音が溢れかえっていました。

 雨がやんだのは昼休み終了間近。青く晴れた空に大きな虹がかかってまた騒然となり、窓際に集まってくるクラスの生徒たちに机を押されたミズキはキッとして顔を上げましたが、またうつむいて机の上に目を落としました。

(ええい、寄るな。拙者を誰と心得る!武蔵国の女剣士ミズキじゃ!寄らば斬るぞ!)

 騒ぐ者共を斬って捨て、斬って捨て……。

 女剣士の妄想の中にミズキはいました。けれども傍から見たら、ただ、窓際の席で机の上に広げた教科書に目を落として黙っている一人の女子にすぎません。水面のようになった校庭からキラキラと反射してくる光が顔の片側を照らしていますが、それでもうつむいたまま。

 そのとき五校時始業のチャイムが鳴り、クラス担任の田川先生が入ってきました。

「おーい何してる!みんな早く席に付け!」

「先生!グループになって座るんでしょう?」

「いや、加藤、まだだ。この時間は各自の席で事前学習。今回の移動教室は来年の修学旅行のグループ行動の練習であり、社会科、国語科、美術科などの学習の一環と位置づける。だから各自に夏休み明けに出してもらうレポートや作品は二学期の成績に加算される!与えられた時間と、規定の金額の入ったSuica、規定の小遣いをいかに効率よく活用するか、グループの安全を確保しながら希望の場所をめぐり、規定のチェックポイントをしっかりクリアすること。スカイツリーを見学するだけのバス遠足とは違うってこと。青梅駅から目的地への往復の電車の乗り換えも自分たちで計画し、行動すること。道中の行動も二中の生徒として見られていることを自覚しての行動が求められる」

「それでは社会科の質問。スカイツリーは墨田区にありますが、その高さは何メートル?」

「ムサシー!」

「そうだ、加藤、ムサシ。つまり634mだな」

「それでは次の質問に答えられるかな、加藤。スカイツリーの最寄り駅は……」

「とうきょうスカイツリー駅ですよー!知ってますって!」

「加藤よく聞け、とうきょうスカイツリー駅ですが、その元の名称は?」

「引っ掛けかぁー。えっとなんだっけ?ちょっと待って……」

「……ナリヒラバシ……」

 ミズキの頭にふいにその言葉が入ってきました。誰かが発言したのとも違う声で。

「おいおい、元の駅名、知っている者はいないのか?」

 ミズキはあたりを見回しましたが、誰も言っていないようです。

(ああ、また?自分にだけ聞こえてくる声……)

 まるでラジオのチャンネルを合わせるときの雑音のあとでピタっとチャンネルが合って聞こえてくるような声というか音のようなもの。ミズキにはこの数日、何者かはわからない声が時々聞こえていました。他の人には聞こえていないようですが、なにしろ誰にも聞けないのでした。

「ではちょうど国語科の大木先生がいらしたようだから、大木先生に墨田区周辺の歴史や文化について話をしてもらおう」

「大木先生?うひゃ~、レキジョ出たー!」

 加藤だけでなく、そんなささやきやらため息やらがあちこちから漏れています。

「はい、では皆さんにプリントを配ります。墨田区周辺の名所、史跡入りの地図です。まずじっくりとその地図を見ながら説明を読んでください」大木先生がにこやかに配るプリントには地図の他に矢印や米印などで説明書きがぎっしりと書きこまれています。

「先生!ソラマチと、周辺のおすすめスポットが書いてありませーん!」

「今配った地図には私のおすすめスポットがたくさん載っていますよ。うふふ」

 大木先生は皆のつぶやきなどまったく気に止めずににこやかに語り始めます。

「皆さんがまずチェックポイントとして寄る場所の一つは浅草駅です。浅草寺という古くからの観光名所がありますね。雷門という有名な門があり、そこには左右に二体の立像があります。その立像の名前は調べておいてください。もちろん東京スカイツリーも現代の観光名所。その最寄駅、元の名前。先程田川先生の質問の答えはですね、業平橋です」大木先生は続けて、

「業平と聞いて何か気づきませんか?そう、在原業平。平安時代の歌人ですね。その業平がモデルと言われる作者不詳の歌物語『伊勢物語』第九段『東下り』。ここから墨田区の業平という地名は生まれたのです。東下りの冒頭には……」

 言いながら先生は板書を始めました。

 昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

「口語訳は……昔、とある男がいました。その男、自分のことを役に立たない者と思って、京都にはおるまい、東の方で住む国を見つけようと思って出かけました。以前から友達だった一人二人と一緒に行きました。道を知っている人もいなかったので、迷いながら行きました。というものです。自分が役に立たない人間と感じて、都から離れ、はるか東のほうに行くことにした。下りですよ。今は関西から新幹線で東京に行くなら上りというでしょ?平安時代、華やかな京の都に比べれば、東国などはへんぴで粗野な住民が住む、田舎だったはずですね。雅な京の身分ある人にとってはとても不安な旅だったと思いますよ。ところで皆さんは在原業平というと、今でいうイケメンだったと思うでしょう?」

「いや別に思ってないって。というか、知らないっすよ、そんなこと」

 加藤がそうつぶやいても構わずに大木先生は続けます。

「イケメンというより、色男と呼んだほうがいいかもしれませんね。つまり恋多き男。平安当時の和歌というのは男女の間に交わされるラブレターのようなものです。恋の歌をたくさん詠んだ在原業平はロマンチックな男性です。それでは、東下りの段に出てくる和歌」と、また板書。

 なにしおわば いざこととわむ みやこどり わがおもふひとは  ありやなしやと

「都という名を持っているのなら、さぁたずねよう。私の思う人は無事に暮らしているだろうか」

「京の都から遠く離れた東国の武蔵国と下総の国との境の川、下総とは今の千葉県ですね。隅田川のほとりで、都に残してきた妻を思い、どうしているのだろう?と都鳥に尋ねている。渡し守りに鳥の名を聞いたら、その鳥は都鳥。そんなど田舎の鳥に都という名が付いているわけですからね、ホームシックになっちゃったというわけ」

「都鳥とはみんなの知っているユリカモメのことですけどね。問いながら涙を流しているわけです。感傷的に涙を流す男性。これをカッコイイかというと意見は分かれるんですけどね。戦国の武将のように男らしさはないですよ。平安時代の歌人ですから」

「どっちでもいいんですけど、まだ続くんですかね……」ほぼため息のように諦めの気配がただよう教室でした。

「はい、そこで、地図に戻ります。言問橋、浅草駅近くにある隅田川にかかる橋ですね。業平がいざこととわむと呼んだことから付いた名前。でも諸説あるんですよ」

 ミズキもそんなことよりさっきの声が気になっていました。

「業平はともかく、川と橋と涙というのはセットになっていると言っていいでしょうね。私ね、浅草寺で薪能という野外で薪の明かりだけで演じられる能をみたことがあるんです。そのときの演目は『隅田川』。これがまた悲しいお話なんです」

 そのときにまたミズキの頭にあの声が聞こえてきました。

「……ウメワカヅカ……」

 あたりを見回してもそれを言った人はいません。大木先生の話が長くなりそうなのをあきらめている顔ばかり。

「このお話は人買いにさらわれ京都から武蔵国に連れてこられた梅若丸という子どもが病で亡くなり、隅田川のあたりで捨てられてしまう。死ぬ前にその子の言うには、ここに塚、つまりお墓のことです。塚を作って柳を植えてほしい。そうすれば京都から来た人もみるだろうから。と言い残す。その死を知らずに母は物狂いの状態でわが子を訪ね訪ね歩きたどり着いた隅田川で、対岸で人盛りがあるのを渡し守りに何かと尋ねる。かわいそうな幼子の死を哀れみ、墓で一周忌の念仏を唱えようとする里人の集まりだった。それこそ母が気が狂うほどに捜し歩いたわが子梅若丸と知る。母と人々が念仏を唱える中、愛しいわが子が一瞬姿を表し、念仏を唱え、消える。東の空が白む頃母の目の前にあったのは塚に生い茂る草に過ぎなかった」 

「能の演技は幽玄という言葉にも表されるように、実に微妙で幽かなものですね、狂った演技も実に静か。そして、我が子の死を悲しみ、泣く。そのしぐさ、しおると呼ばれる実に細やかな小さな動きなんだけど、その瞬間、私、涙がどーっとこみ上げました。自分には子供はいないんですが、気が狂うばかりの母の悲しみが何故かわーっと押し寄せてくるんです。自分だけかと思ったらね、他の人達もみな泣いているんですよ。そしてね、業平の話も隅田川の話もね、京から来た人、悲しい別れ、遥か遠くのへんぴな東国の里、川、問いかける、涙……共通しているわね」

 大木先生の物狂い的な話しぶりにみなあっけにとられているとき、五校時終わりのチャイムが鳴り、田川先生が、

「それでは、六校時はグループ毎に座るから今から席移動!」

 それでようやく皆目を覚ましたように動き始めました。

 ガタンガタンと机と椅子を移動させる音の中で、大木先生がひときわ大きな声で

「その梅若伝説ゆかりの場所が『梅若塚』、そして菩提をともらう寺が『木母寺』。どちらも墨田区にあります!」

 もうだれも大木先生の最後の言葉を聞いていませんでしたが、ミズキだけは、

(梅若塚って、さっき聞こえた声が言ってた……)と顔を上げ、そして地図の中の梅若塚を確認していました。

「ねえ、大木先生ってさ、歴史研究部の顧問やってるじゃん。部員の子が言ってたけど、たいてい先生が撮った動画とかスライドとか見せられてるって。かなりマニアっぽい史跡で殆ど先生が写ってるって。やばくない?しかも、先生、着物着て写ってるんだって」

「そうそう、うちのママもね、あの先生はなんだか縁遠い感じねって言ってる。結婚できそうにないって感じ?」

 机をガタガタ運びながら女子が笑い合いこちらに来るので、動きたくなかったミズキも動かなくてはならなくなりました。

(いたしかたない。不本意ではあるがあそこのようだな、拙者の席は……)

 クラスが男女別のだいたい四、五名ずつのグループに分かれ、机をつけて向きあって座っている中、川の中州に取り残されたように二人の女子が机を寄せるでもなく立っています。ミズキは机をそこに運び、「あの、とりあえず、座りませんか?」

 そう声をかけようとしたのですが、あの……のあと声にならずにいました。その時に起立の号令がかかり、着席となりました。

「さあ、この時間はグループごとの行動計画を立てるぞ。まず、資料と計画プランの用紙を配るから、各グループのリーダーは人数を言って取りに来なさい」

各リーダーはすぐに田川先生のもとに集まっていますが、すでに先週決まっていたグループとリーダーというのに、ミズキは自ら望んで組んだグループではない、そのリーダーという不本意で理不尽な決定に自分の気持が従わないので、なかなか席を立てません。

(残り物同士がくっつけられたような、しかも、ほとんどしゃべったこともない人とグループになって、リーダーをやれと半ば強制のように指名?ふん!だいいち、移動教室なんぞに参加する気など毛頭ないのじゃ。)

 心のなかの剣士は静かに言い放っているのですが、

「女子4グループ、実島!資料を取りに来なさい!」

 ミズキは先生から呼ばれ、はいと小声で返事をしてのそのそと取りに行くのでした。

「青梅駅から東京スカイツリーに向かう電車のルートはいくつかあり、交通費もそれによって違ってくる。集合場所は二箇所から選ぶ。浅草駅か東京スカイツリー駅。集合場所のチェックを受ける時間は朝は9時半から10時。途中でのロスタイムを必ず計算に入れて無理のない計画を立てること。帰りの集合場所もどちらかから選ぶ。解散のチェックは15時から15時半。時間は厳守。集合と解散の時間にチェックをうけていないグループは保護者に連絡する!」

「え~!かーちゃんにれんらくう?やべーよ」と言う加藤に班の他の男子が「かーちゃん?家ではママって言ってるんだろ?」

「その他にもう一箇所チェックポイントを必ずクリアすること。弁当を持参する者が食べていい場所は丸印のところ。ただしゴミは持ち帰り。店で食べるグループは資料の中の飲食店から探すこと。Suicaの金額は3千円、スカイツリー展望用のチケットとともに、前日指導の日に渡す。小遣いの金額は2千円。限られた金額をどのように使うか計画し、プランに書き込み提出すること」

「絶対に弁当にしようぜー!小遣い浮かしてさー。そうだ、交通費も極力減らしてSuicaが使える所でなんか買うってのどう?」

「ねー、座っていけるルートにしようよー」

「それなら朝早く行こうぜ。チェック時間までどっかで遊べるじゃん」

「あのさ、ソラマチに美味しいパンケーキの店があるんだって!絶対そこ行きたい!」

 皆、かなりテンションが上がっています。

 ミズキのグループはといえば……アニメオタクの深沢祐子。唯一の友人、となりのクラスのアニメオタクとは廊下でテンション高くしゃべっているのですが、聞こえてくる内容はミズキにはさっぱりわかりません。

 もう一人の変人、いや、それは失礼というものです。まったく他人とコミュニケーションをとらない、無言の人、東出遼子。いじめられているわけではなく、成績もそこそこ。なのに、しゃべらないので謎の人なのでした。

(二人とも孤高の人なら拙者と同じ。たぶん拙者と同じで、誰かと一緒になろうとしなかっただけ。なのに、みんなから友達がいない可哀想な人、面倒な人と思われるとは理不尽千万。それならいっそ、三人で欠席じゃ。きっと二人ともこんな移動教室は嫌に違いない!)

 そう思っているミズキの前で、二人とも資料に目を落としているだけで何も言いません。

(やはり、群れて行動するのが不本意なのだな。それなら……)

 ミズキは当日三人とも欠席という最終手段があると自分に言い聞かせ、いずれにせよ、リーダーと指名されている以上はプラン用紙は提出しなければと思い、「あの、とりあえず集合と解散とルートの……」と言いかけると、アニメオタの深沢祐子が

「解散は浅草で15時がいいです。そのあとアキバに行くから」

「あ、あ、そう……」するとすかさず無言の人、東出遼子が

「私、スカイツリーは行ったことがあるからわかります。集合はスカイツリー駅で9時半がいいです」

(しゃべった!無言の人がしゃべった!しかもきっぱりと……)

ミズキはびっくりしました。

「あ、はい、そう……しますか」

「あ、あの昼ごはんはどうしますか?」と聞くと東出が

「ソラマチのどこかで食べてもいいし、弁当ならコンビニで現金でもSuica使って買えますよ」悩まずにスイスイ決めるのです。この二人に圧倒されながら、

「あと一箇所のチェックポイントはどうしますか?」と聞くと、

「私たちはもう希望を言ったんだから、そこは実島さんの希望でいいです」と深沢裕子。

 ミズキはこの二人と一緒の行動がまったくイメージできずに、頭が真っ白になってしまい、地図に見入ると、まず目に飛び込んできたのが隅田川。川に沿って隅田公園。そこにひとつチェックポイントがあります。何も考えられないまま、そこを指さしました。ふたりとも了解という感じでうなずき、東京スカイツリー駅→スカイツリー展望→隅田公園→浅草。という大まかなルートが決まり、用紙に書き込みました。

 他のグループはまだ騒がしく楽しそうにあれこれ言い合いながらルートを決めている中、ミズキたちは静かに資料を見ているのです。

(この二人は行くつもりなんだ……。そしてこの辺に行ったことがあるんだ。知らないのは、行きたくないのは私だけなの?)

 女剣士の誇りが失せ始めていました。

 ミズキは一人で川沿いの下校の道を歩いていました。先程の雨で増えた水は少し傾いた太陽に照らされ、光を増し、まわりの木々はいっそう緑濃く、青い匂いでむせ返るような川沿いの道です。

後ろから、「ミズキー!」と呼ぶ声があり、振り返ると隣のクラスの吉川亮平。亮平はミズキの幼なじみで、無邪気だったころの自分をとりもどす相手でした。

「亮平?今日は早いね」

「期末試験一週間前だから、部活がないんだ。あ~あ、試験さえなければのんびりできるのに。あ、そうだ、ミズキのクラスでも移動教室の話し合いだっただろ?グループ、大丈夫か?美咲がさ、ほんとはミズキをグループに呼ぼうと思ったけど、そうすると、あの二人が余っちゃうと困るからって。たいへんだな。そうだ、俺たちの班と一緒に行動すれば?俺たち、人ごみ好きじゃないからさ、スカイツリーに登ったら、その後は隅田公園にいようって決めてるんだ。他でお金使わなきゃ、水上バスっていう船に乗るのもいいなって話してるんだ。ミズキ、あのふたりと人ごみが不安なら、俺たちに着いてくればいいよ」

「水上バス?それ船なの?亮平、船好きなんだね。カヤックで落ちたけど」

「落ちたって、おいっ!あれは育成会の初めてのカヤック教室の時!小三の時だろ?やだな、落ちたんじゃなくて、先に乗ったやつがいけないの!おれが乗ろうとしたとき動かしたから!あの時ミズキは川岸でおれが落ちた絵を描いてたよな。ひどいよ。いつも描いてたよな。鮎つかみどりの時も。沢登り教室のときも。絵がうまかったよ。いつも貼り出されて、表彰されてたな。今も描いてるの?何で美術部に入らなかったんだよ」

(拙者、剣の修業が忙しいのじゃ……)

ミズキは黙ってうつむき、やや足早になりました。

「おれ、小六の夏にはカヤック上達したんだよ。あれは描いて欲しかったな。でもミズキ、来なかったし……あ、そうか…ごめん!あのころだったんだ、ミズキの母さん……」

 さらに早足になって離れていこうとするミズキに亮平が

「ごめん、ごめん、待ってよ!」

 そこに、突然横から

「あらま、久しぶり!亮平にミズキちゃん、かき氷始まったからさ、食べていきなよ!」声がかかりました。

「あ、えんどうのおばちゃん、かき氷食いてー!でもお金持ってないよ」

 えんどうのおばちゃんの店はかつては「茶屋えんどう」という名の茶店で、古い木の板の看板がまだそのまま残っています。ミズキたちが小学生の頃には駄菓子屋と食料品と軽食の店と合わせたような店になっていました。

「そうだ、お団子が残ってるからさ、それあげるから、中で食べていきなよ。さ、入りな、入りな!」

「やった!おばちゃん、太っ腹!」

 亮平は中にすたすたと入っていくものの、ミズキは入るのをためらっていました。

「ミズキちゃんも、早く早く、入りな!」

 ミズキはおばちゃんに背中を押されてようやく入っていきます。麦茶とお団子を持ってきたおばちゃんは空いた席に座り、

「うちのじいちゃんがね、すごく喜んでいたんだよ」

「じいちゃんて、いつも店の前に座ってた人?」と亮平は団子をほおばりながら聞きました。

「そうだよ、体が悪くなってからは奥の部屋で寝てばっかりだったけどね。いつかミズキちゃんが描いてくれた、じいちゃんが店の前で座ってる絵、枕元に置いてはながめてたんだよ。亡くなってからはね、お仏壇のそばにじいちゃんの絵、飾ってあるよ。まるで、見守ってくれてるみたいに感じるんだよ。今度、おばちゃんの絵も描くねって言ってくれたよね。楽しみに待ってるんだから、おばちゃん」

 ミズキは何も返事せずにうつむいてしまいました。そこへ、

「ごめんくださーい!お願いしていた野菜届きましたか?」

「おやまあ、ちょうど来たよ。絵画教室の葛城先生」

「はいはい、お野菜ね、届いてますよ、先生。今ね、ミズキちゃんがちょうど来てるとこ」

 絵画教室の葛城先生と聞いて、ミズキは落ち着かない様子で

「おばちゃん、ごちそうさま!」と言い残し、葛城先生にペコリと頭を下げて足早に帰って行きました。

「ちょちょちょ、待ってよー!おばちゃん、ごちそうさまー!」

 亮平も追いかけますが追いつきません。

 去っていくミズキの後ろ姿を見送った先生は

「あれからミズキちゃん、まったく絵画教室に来なくなったんですよ。すごくいい絵を描く子なのに、もったいない。お母さんの死を乗り越えられたらまたきっと描くと思うんですけどね。なにより描くことが大好きな子だから。たまたま、絵画コンクール金賞受賞の日とお母さんが亡くなった日、それが重なっちゃて。コンクールのテーマは『私の夢』。誰よりも受賞を喜んでくれるはずのお母さんに伝えたかったでしょうに、その後のお父さんの再婚もね……。あの年頃ですもの、受けいれられなくて当たり前ですよ」

「ミズキちゃん、かわいそうだよねぇ」

えんどうのおばさんは目をうるませました。

「でも、きっとまた描くと信じてますよ。うちのじいちゃんの絵、ほんとにいい絵なんだもの。きっと人が好きな子。私の絵も描いてくれるって約束していたんだもの。きっと……大丈夫」

   二、ミズキの家

 帰宅したミズキが「ただいま」と小声で言い、階段を上がろうとすると、

「あ、ミズキちゃんおかえりなさい。この前もちょっと言ったと思うけど、あのね、来週の日曜日、あなたのお母さんの三回忌なの。今回はね、特別にちょっと別のところで……」

 ミズキは一瞬立ち止まっただけで、話を最後まで聞かずに階段を上がり部屋に入ってしまいました。

(あなたのお母さんって、それじゃあ、あなたは誰なの?お父さんの二人目の妻?)

 バタリとドアを閉めたミズキは唇をかみしめました。

(そして、私は誰?)と机に置かれた鏡を見ると、怒っているような泣いているような、曇った顔の女の子がいました。

(はっ!拙者は女剣士ミズキではないか。女々しい顔などしておられぬ!女々しい自分を斬って捨てねば!)

 ミズキは自分の頬を両手でパンパンと叩き、キリッとした表情を作りました。家でも孤高であろうとするミズキでした。

 着替えて机の前に座りなおし、今週末に迫った期末試験の勉強にとりかかろうと、教科書を開きましたが、移動教室のことが頭から離れません。

(欠席する?欠席したらどうなる?あの二人は行くの?行って三人で行動?そもそも自分は行けるの?それから何?急に三回忌に一緒に行こうと言われても……。お葬式だって出なかったし、その後の法事も、お墓だって行ったことない。お父さんだってお墓参りしようって言ったことないじゃない。洋子さん、何でそんなに私を法事に行かせたがるの?何かあるの?お父さんと洋子さん、夜はいつもヒソヒソ何か話していて、私が近づくとピタっとやめてにっこりして……。洋子さん、お父さんの診療所の看護士さんだった時から、お母さんが入院してるのに、お父さんと二人でヒソヒソ話していて、私が聞いても何も教えてくれなかった。あのころからずっと変だった。それでいつの間にか一緒に住んで……)また鏡の中の自分の顔が曇ってしまっているのも気づかないミズキでした。

「ミズキちゃーん、お父さんお帰りですよ。お夕飯食べましょう!」

 食事中にまた法事のことを持ち出されるかと思って、行かないという答えを用意していたミズキでしたが、その話は出ませんでした。

 お父さんから

「来週、遠足があるんだってね。どこに行くの?」と聞かれたので

「遠足じゃなくって移動教室。修学旅行の練習のスカイツリー周辺の散策。でも行けるかどうかわからない。なんだか風邪っぽくて喉がイガイガするから。試験が終わる頃には熱が出そうな気がする」

 ミズキは法事にも移動教室にも行けないという予防線を張ったのでした。

「スカイツリーっていうと浅草の近くでしょ?浅草といえば、豊さんとミズキちゃんのお母さんとの出会いの場所ですよね。何でも、浅草のサンバカーニバルを見に行っていたときに具合が悪くなって電柱にもたれかかって休んでいるところを豊さんに声をかけられたって。危ない男だと思って振り払おうとしたら『私、医者です』と言われてほっとして力が抜けて豊さんの腕に倒れこんだって、笑いながら由加里さん、私に話してくれたことがあったわ」

 そう話す洋子さんにお父さんは、それは今言うことじゃないという風に小刻みに首を振ってから「風邪気味なら早く寝たほうがいいよ。試験だからって無理することないぞ」と静かに言いました。

 ミズキはお母さんがサンバカーニバルを見に行ったことは初耳でしたが、サンバには思い当たることがありました。二年前の六月、ミズキの十二才の誕生日を前にお母さんが言っていたこと。

「ミズキの十二才のお誕生日にはね、ママ、サンバ踊っちゃうよ!」

「何言ってるの?ママ、サンバってブラジルのダンスでしょ。踊れるの?ほんとに踊る?だったら私、ママが踊るところ、絵に描くね!」

 けれども、お母さんがサンバを踊るお誕生パーティーは実現しませんでした。お母さんはその前に体調を悪くして入院してしまったのです。お父さんの診療所ではなく大きな総合病院に。ミズキが静かに寄せてくる記憶をたどってぼんやりしていると、

「とにかく、早く寝たほうがいい」とお父さんに促されました。

 ミズキが二階に上がっていくと、下では洋子さんとお父さんとの、またあの二人だけの話が始まっていました。階段の上にもそれはかすかに聞こえてきます。

「思い出させる話をするとかえってよくないんじゃないか?口数は少ないけど最近は落ち着いてきているようだし。三回忌にも無理に連れていかなくても……折を見てあのことは話してやれば……」

「ミズキちゃん、傷ついたままの心に蓋をしているように思うんです。前回検診に行ったときに心療内科の先生にお会いしたので少し相談してみたんです。本人が望めばカウンセリングもするけれども、まず、おうちでもお母さんのことを口に出せる機会をつくってみては?と言われたんです」

(あのことって何?カウンセリング?私、病んでるの?)

 そのとき、またあの声が聞こえてきました。

「……イキナサイ……スミダガワ……ナリヒラバシ……ウメワカヅカ……」

 ミズキは本当に自分がおかしくなってしまったような気がして部屋に入るなり布団をかぶってしまいました。その晩は色々なことが頭をぐるぐる回りましたが、その後、期末試験が終わる金曜日までの五日間は家の中も学校も表面上は静かな日々でした。

 そして、期末試験最後の教科が終わると、一気に堰を切ったように、またあの喧騒が戻ってきてしまいました。喧噪の間を縫うようにミズキは学校を離れました。川沿いの道を歩くミズキの頬を湿度の高いひんやりとした風が撫でていました。

「ただいま」 

いつもどおり部屋に直行しようとしたミズキに陽子さんが近づき、

「ミズキちゃん、待って。あのね、あさっての日曜日が三回忌の法事だけれど、埼玉のお寺でやるし、お寺や向こうの親戚と打ち合わせがあるから、明日の午後に出て、向こうのお宅で一泊するの。ミズキちゃんがいかないと、一晩一人で留守番はいやでしょ?私たちも心配だし」

 ミズキは「大丈夫です」そう言って部屋に入りました。

 夕飯の時にも再度陽子さんからの勧めに「大丈夫です」を繰り返すミズキでした。

 室内でもムシムシするほど湿度が増して先程から遠くで聞こえていた雷の音がだんだん大きくなってきました。ミズキが部屋に戻りベッドに横たわった瞬間、ビカビカーッ!と稲光がしたと思った直後、ドドーン!と地響きがするような雷の音。

 ミズキはびっくりして飛び起き床に座り込んでしまいました。近くに落ちたのでしょう、部屋の電気が消え、真っ暗な部屋に叩きつける大粒の雨の音が響きます。雨音の中に、またあの声がしました。

「……イキナサイ……」雷の音と雨の音に遮られながら聞こえてくるのは

「……フル……スミダ……ウメワカ……カス……」

 ピカピカっと照明がつき、あたりを見回すと、床に投げ出された通学カバンから飛び出している、移動教室の資料。それを拾い上げ、ぼんやりとながめていましたが、ミズキは何かはっと思いついたように顔を上げました。

 翌日、ミズキはいつもどおりの時間に朝食を食べ終わり、仕事場に出かけたお父さんを見送り、片付けを始める洋子さんに

「洋子さん、今日、実は移動教室だったんです。帰宅は夕方になってしまうので、やはり一緒には行けません」

「えっ?今日だった?来週じゃなかったの?だってお弁当の用意もしてないし」

「大丈夫です。お弁当はいりません。現地で何か食べる予定です。夕飯も明日の食事も自分で買って食べますから大丈夫です」

 陽子さんがなにか言いたげなのを遮るように

「急いで支度しないと間に合わないんです!」そう言って部屋に戻り、制服に着替え、リュックを背負ってパタパタと玄関へ。

 そこに待っていた陽子さんはミズキに封筒を渡し、

「お小遣いと二日分の食費、それから土日の連絡先を書いたメモが入ってますから、くれぐれも気をつけて。何かあったら必ず連絡してね」

「行ってきます!」

 なんだかいつもより大きな声で、洋子さんに届く挨拶でした。

(孤高の女剣士ミズキの一人旅の始まりじゃ)

 ミズキは小さくつぶやきましたが、実のところ、なぜ親にうそをついてまで出かけようとしたのかはわかりませんでした。不信感の募る親との法事から逃げたかったのか、グループの二人への気後れをなんとか払拭したかったのか、はたまた、あの声に惹かれたのか……。

 ともあれ、今が出かけるときだと、誰かに背中を押されたようなのです。 

   三、旅の始まり

 昨日の大雨が嘘のように空は青く晴れ、ところどころに夏の雲が浮かんでいます。駅に着いたミズキは路線図を見上げ、

「スカイツリーに行くには……ええーっと、浅草だったよね。いくつか乗り換えがあったけど、どうやって切符買えばいいの?そうだ、Suicaで乗るって……」

わからないので駅員さんに行き方を聞きました。

 ミズキはSuicaを買おうとして財布を開けて、ハッと気づき

「あっ!しまった!お小遣い分の2千円しか入れてこなかった!どうしよう……そうだ!さっき陽子さんから渡された封筒にお小遣いと食費が入ってるって……」

封筒を開けると、1万円入っていました。

「ラッキー!これでSuicaに3千円入れられる!」

 まるで初めてのお遣いの子供みたいな気分でした。駅員さんに教えられた上り電車に乗り込み、

「えーとえーと、次は神田駅か」ミズキは乗り換えの少ない地下鉄を使うルートを選んだのです。緑の多い景色からビルの多い景色へと、車窓は変化していきます。新宿駅では視界から空が消え、一気に暗くなったような感じを覚えました。それでも、また、土手や川や対岸の風景、橋、地下のトンネルから現れる地下鉄の車両、すべてが目に鮮やかに飛び込んできました。

「次は~、神田~、神田」

 アナウンスにハッとしてホームに降り、地下鉄への乗り換えのために階段を降ります。なんだか圧迫感のある薄暗さにまた少し不安を覚えながら……。ですが、浅草行きはすぐに来て乗れたのでほっとしました。終点まで行けばいいのですから。あっという間に浅草に着きました。

「これで東武浅草駅に行けば、そこからはどれに乗ってもスカイツリーに行くって言ってた、あの駅員さん」

 出口の案内を見ると「浅草寺・雷門方面」というのがありました。

「せっかくだから雷門を見ていこう」

 地上に出ると、ものすごい人通り。人の流れに従うと雷門と書いた大きな提灯の下がった屋根付きの門のまわりに外国人、見た目は日本人だけど日本語じゃない言葉をテンション高くしゃべる人たち。そして人力車?人力車に交渉する人、写真を撮る人、地図を見る人、ケータイで電話する人。圧倒されるミズキでした。

「そうだ、雷門の立像、名前は何?という質問があったっけ。どちらも鬼みたいな顔だけど、こっちは風神であっちは雷神かぁ……」

 門からは正面に浅草寺があるらしいのですが、両側に店が立ち並び、そこを通る人また人……。あることさえわかればいいやと入っていくのを断念して、東武浅草駅を目指すことにしました。

 ちょうど交番があったので、駅の場所を聞くにもやはり、満員。その中にスカイツリーへの行き方を片言で尋ねている人があり、ミズキは聞き耳を立てました。おまわりさんが立って駅の方向を指さしています。

(あっちに行けばいいのか)ミズキは人の群れの中を泳ぐ小さな魚のように揺られながら歩いていきました。

「あった、東武浅草駅。ここもSuicaで行けるんだったよね」階段を上がり、

「さて、どれに乗ろうかな。どうせどれに乗っても行けるんなら、いちばんキレイなのに乗って行こう」

 一番端に停車中の電車に乗り込みました。

「よかったすいてる。あー、疲れた」

 座席に腰を下ろすと朝からの緊張がほぐれ、急に眠くなってしまいました。発車までは何分あったでしょうか?しばらく停車していた電車が動き出す頃、ミズキはついうとうと……。ふいに、ポンポンと肩を叩かれ目を開けたミズキに男の人が

「そこはぼくの席なんだけど……」

「えっ?あ、あ、すみません」飛び起きてあたりを見回すと、いつの間にか車内はたくさんの乗客が乗り込んでいます。

「これ、指定席なんですか?どうしよう……」

「もうそろそろ車掌さんが回ってくると思いますよ。いつも北千住過ぎると来るから」

「き・た・せ・ん・じゅ?……あの、スカイツリーはこの次ですか?」

「スカイツリーならさっき通り過ぎましたよ。え?もしかしてスカイツリーに行こうとしたの?乗り越しちゃったね。君、修学旅行?はぐれちゃったの?」

「い、いえ、修学旅行の練習の……移動教室の予習で……」慌てて何を言っているんだ自分はと思いながらミズキは

「一人です!」

「まあ、とにかく隣の席に座りなさいよ。ここは誰も座らないみたいだから」

 休日のサラリーマンといった感じの男の人はショルダーバッグを膝の上に置いて座りました。

「業平橋なら特急に乗らなくてもすぐだったのに。これだと次に停まるのは春日部だから、慌ててもしょうがないよ。春日部で降りて上りに乗り換えてもどるしかないね」

 そう言っている間に

「乗車券、特急券を拝見します」と車掌さんがやってきました。

 ミズキがどぎまぎしていると、隣の男の人が自分の切符を見せながら、

「このお嬢さん、スカイツリーに行こうとして間違って特急に乗っちゃったらしいから、何とかならない?」

 車掌さんはミズキに「春日部で降りて1番線から浅草行に乗ってください。乗車券はありますか?」

「ずっとSuicaで来ました。」

「それならば特急券は買っていただきます。510円です。」

「Suicaなら春日部と業平橋往復分は払わなくていいんでしょう?」と男の人。

「本来なら春日部で改札を降り、また入場することになりますけど」車掌さんはそれだけ言って離れていきました。

 男の人は小さな声で

「大丈夫だよ、改札出ないでそのまま乗り換えちゃっても。特急券も払ったんだから」

 とりあえず失敗は挽回できそうですが、まだ目的地に着かないことにいらだちを覚え始めているミズキに男の人が話しかけました。

「君、中学生でしょ?うちの娘と同じくらいだね。難しい年頃だよね」

「は……はあ……そう……ですか?」

「君は両親と一緒に暮らしているんでしょう?」

「……まあ、そうですけど」

その男の人は単身赴任で妻や娘と離れて暮らしていて心も離れかけて寂しいことなどを延々とミズキに語りました。

(寂しいなどと言うのは修行不足じゃ。そんな女々しい心など斬って捨てるのじゃ)ミズキはキッと口を結びました。

「あ、ごめん、僕の愚痴を聞かせちゃったみたいだ。もうすぐ春日部に着くよ。ぼくは降りるけど、君は反対方面に乗るんだからね、気をつけてね」

「ありがとうございました」

 軽く頭を下げてからミズキは男の人が教えてくれたほうに向かいました。そのとき、上にある表示版を見ていたミズキの手を誰かがきゅっと握りました。

「おねえちゃん、こっちだよ!」

 見ると麦わら帽子をかぶった小さい男の子がミズキの手を握ってこちらをむいてニコニコしています。

「こっち!こっち!」と改札の方に引っ張って行きます。その意外に強い力に引っ張られながら

「あのね、ぼく。人違いですよ!私、お姉ちゃんじゃないですよ」

 キョロキョロと見回してその子の姉の姿を見つけようとしましたが、それらしき人はいません。

 男の子は、「こっちだよ!おねえちゃん!」と言ってミズキが持っていたSuicaを奪いとり、改札を抜けようとするのです。

「待って!Suica持って行かないで!」ミズキはその子の後に付いて一緒に改札を抜けてしまいました。

 男の子は「こっち!こっち!」と言いながら駅前のロータリーを回って走っていきます。

「待って!子供なのに何でそんなに早いの!Suica返してよ!」

 ミズキは必死に追いかけましたが、交差点で見失いました。

 この中に入ったのかな?ミズキは交差点の角の店のような建物を見ました。その壁には「オラ、この街が好きだぞ!」と書かれた大きなクレヨンしんちゃんの絵があります。

   四、春日部

 その建物には「春日部情報発信館」という看板がありました。はあはあ息を吐きながらミズキはその建物の中に入り、きょろきょろと見回し、消えた男の子を探しました。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」白いはっぴを着た数人の女の人の一人が近寄って声をかけてきました。

「あの、あの、五才ぐらいの男の子、しんちゃん?あっ、そうじゃなくて、とにかく男の子が来ませんでしたか?」

 はっぴの女の人は

「しんちゃんを探しているんですか?絵葉書ならありますよ。それと、何枚か原画を展示してますけど」

「いえ、あの、そうじゃなくて、私のSuicaを持って走っていった子がここに来ませんでしたか?」

「スイカを持って走る男の子?見なかったけど……」

「スイカじゃなくて電車にのるときのSuicaのカードです」

「ああ、Suicaカードね。」女の人は笑いながら

「そうよね、はは、ごめんなさい。あらでもあなたの手に持っているの、それSuicaじゃないの?」

「あっ!」

ミズキは自分の手に持っているSuicaを見てびっくり。

(何故?何故?さっきあの子が持って走っていったじゃない。どうして?)唖然として口もきけずに立ちすくむミズキに、女の人は

「こちらの椅子で少し休んでいったら?しんちゃんの原画も貼ってありますから」

 そう促されて展示スペースの椅子に腰掛けると、

「よそから来たの?お友達のところに行くの?春日部夏まつり見たことありますか?お神輿は各町内から25基も出るから、迫力ありますよ」見慣れない制服姿で、ちょっとおかしなことを言うので、心配したのか、何かと話しかけてきます。

 その合間にも次々に浴衣姿のカップルやお年寄りなどが入ってきて、何か質問するので、ミズキに声をかけた人も忙しそうにそちらの応対に回っていきました。

 ミズキはとりあえず駅に戻らないとと思って腰を上げたときに目に入った展示物。それにしばらく見入ってしまいました。そのフレームには何十枚かの名刺大のカードが並んでいます。そのひとつひとつに動物にみたてたキャクターが描いてあり、キャラクターの名前や決めゼリフが書きこんであります。そのどれもが美しく、かわいらしく、なにやら意味がありそうでなさそうで、面白そうな感じです。

「それは街キャラカードといって、商店街のお店さんが始めたものなんですよ。各店の店主さんをキャラクターにしたカードです。今日は食堂ハルの駐車場で街キャラぬり絵のイベントしているそうだから行ってみたらどうですか?」と先ほどのはっぴの人。

「あの、でも私、今日、業平橋とか、梅若塚とか、行かなくちゃならないんで……」

「ああ、梅若塚!お菓子の?フードセレクションのあれ?美味しいですよね!それならここ」とパンフレットを渡そうとします。

「あの、お菓子じゃなくて、あの、隅田川の……」

「ああ、それ、古隅田川の業平橋と満願寺のところにある梅若塚のことじゃないの?」

奥から男性が言いながら近づいてきました。

「あ、館長、そうですよね。春日部の伝説からそのお菓子の名前は付いたんですものね」

(春日部の伝説?墨田区じゃないの?)

ミズキはおかしいなと思いましたが、観光案内の人が言うことですから嘘でもなさそうです。ますます混乱してしまいました。

「粕壁宿の宿場町観光からは少し離れているけど、健康ハイキングでは年配の人達もみんな歩いたから大丈夫。古利根川から古隅田川へさかのぼって業平橋にも梅若塚にも行ってみるといいよ」

 ミズキはますます分からなくなりましたが、何故か男の子に手をひかれ、春日部で降りることになったことや、春日部にも業平橋や梅若塚があるということが不思議で、心がひかれるのでした。

「ありがとうございました。」

 ミズキは頭を下げ、ぼんやりと駅とは違う方向に歩き出しました。大通りは露天商の準備の真っ最中。

 舗道が歩きにくいので、ミズキは狭い横道に入って行きました。その路地の一角に子供たちが集まっているのが見えました。

   五、食堂ハル

「ラムネー!ラムネ100円だよー」という声がしました。子供たちがテーブルを囲んでなにかしています。その横でラムネを売っている人を発見しました。

「あの、ラムネください。」

「まいど!はい、ラムネ100円ね」

 もう、のどがそれを待っていましたとばかりに冷たく甘く軽い刺激が吸い込まれていきます

「ハア~」。

「うふふ、あんたラムネの飲み方うまいね」

奥から女の人が声をかけてきました。

「はい、えんどうさんでよく飲んでましたから。あ、そう言っても知らないですよね。子供の頃からよく行った駄菓子やさんなんです」

「あんた、お腹も減ってるんじゃない?顔に書いてあるよ」と女の人は笑いました。

 そういえば朝ごはん以来何も食べてなかったことを思い出しました。

「おにぎりが残っているから食べなよ。疲れがとれるから」と皿に乗った二個のおにぎりをミズキに手渡し、

「私はハル。ここは食堂ハル。どうぞよろしくね」

「あの、これおいくらですか?」と聞くミズキに

「それは残り物だからサービス。夕飯ここで食べるなら500円ね」

それを聞いていたラムネの売り子さんが、

「ハルさん、今日の夕飯は何ですかー?」

「今日はね、ここでスペシャルバーベキュー!」

「やったー、恒例の冷凍庫クリアランスBBQですね!」横のテーブルで子どもたちの相手をしていた女の人も声を上げました。

 おにぎりを食べ終わって人心地ついたミズキは皿をハルに返しながら

「ごちそうさまでした」

「あいよ。顔色が少しよくなったね。さっきは青い顔してたもの。ところであんたのお名前は?」

「実島です。」

「下の名前は?」

「ミズキです」

「ミズキちゃん、よければぬり絵コーナー手伝わない?商店の皆さんがお昼過ぎまでいてくれたけど、町内のお祭りのお手伝いとか、お店の方が忙しくなって、ありさちゃんだけになったの。手伝ってくれたら夕飯はサービスしてあげる」ハルさんは子供たちのぬり絵の相手をしている女の人の方を指さしました。

 ハルの、図太さとも少し違う、遠慮のなさで人にすっと入ってくる感じにミズキは少し気後れしながら

「でも自分は行くところがあるので……」

そう言いかけて、ミズキはキャラクターカードに心がひかれ、

「あの情報発信館に展示されていたカードの絵ですね。誰が描いたんですか?」

「あれはね、おせんべい屋の若旦那。うまいでしょ?デザインのアイデアは店主さんの希望を聞いて話しあって決めたり、元からキャラクターを持っていて、このデザインでと指定する人もあるの。名刺がわりの個人のカードも作れるよ。ミズキちゃん、絵が好きそうね。子供たちと一緒に描いてみれば?」

 ミズキは「私はいいです」と言いながらも、テーブルで子供たちが何を書いているのか覗き込みました。

 線だけ描かれたぬり絵に一心にクレヨンや色鉛筆で色を塗っている子が何人か。さっき展示で見たキャラクターカードの絵。

 またその脇には白紙の紙に自分でキャラクターを描いている子。自分のオリジナルキャラクターを描いて名前をつける子もいるのかと興味深く覗き込むミズキに、子どもたちの相手をしていたありさが

「ぬり絵やる?それともキャラクター描く?ぬり絵ならこの中から好きなのを選んでね。自分で描くならこの用紙に描いて名前も付けてね」と用紙を手渡しました。

 ミズキは用紙は受け取ったものの、テーブルに付き、子供たちが塗ったり描いたりしているのをながめていました。

 すると、ぬり絵をし終わった三、四才くらいの女の子が

「あたしもかくー」と言って白紙の用紙をもらい、描こうとしますが、

「だめー、こーゆーんじゃなーい」そう叫んで紙をくしゃくしゃにし、もう一枚もらおうとするのを兄らしき男の子に

「みゆ!描けないんだったらぬり絵をやってなよ。紙がむだになるじゃん!」と言われ、

「かけるもーん、みゆかくの。お兄ちゃんのバカー!」

とうとう泣き出してしまいました。

 ありさが「みゆちゃん、一枚あげるからもうくしゃくしゃにしないでね」と言って用紙を渡しました。

ミズキはみゆの隣りに座り、

「みゆちゃん、どういうの描きたいの?」と聞きました。

「あのね、みゆ、びしょうじょけんしルピーがいい!」

「それ、アニメのキャラだろー?自分で考えたのでなきゃだめなのー!」

兄が言うと

「ルピーみたいなびしょうじょけんしになるんだから、みゆは!」

「それじゃあ、美少女剣士みゆっていうキャラを描く?」

「うん!」と喜ぶみゆですが、なかなかうまく描けません。

「ねえ、ねえ、おねえちゃん、かいてえー!」

「う~ん。みゆちゃんが描かないとね。それじゃあ、おねえちゃんが描いたのをまねして描いてみる?」

「うん!」

ミズキはさっきもらった白紙の用紙に絵を描き始めました。

(武蔵国の女剣士ミズキと自称している自分って、小さい女の子とあんまり変わらないのかも……)ミズキは描いた絵に色も塗りはじめると、なぜだかワクワクしてきました。

 すると横から覗いたお兄ちゃんのほうが

「変だよー!これって日本の侍みたい!ルピーはヒラヒラのスカートはいてて、剣も日本の刀とは違うんだから!」

 そんなこと耳に入らないみゆは目をキラキラさせて

「いいの!これかっこいい!みゆ、これがいい!これかくもん!」

 みゆはうれしそうにミズキの描いた絵を横において、夢中になって描き始めました。やがて

「はい、今日は4時でおしまいですよ。今日描いた絵をカードにしたい人は20枚200円で受け付けます。明日受け取りに来てね」

 ぬり絵会場の後片付けが済み、お疲れ様!というとき、ありさがハルに

「あの、ハルさん、6時に高校の友達とお祭り見に行く約束してて、ここに来るんですけど、ハルさんの浴衣着てもいいですか?」

「うん、いいよ。三着出してあるから、みちるちゃんと選んで着てね」

「ありがとうございます。それからミズキちゃんにも着せてあげていいですか?制服のままじゃアレだし……」

「ああ、いいよ」

 それを聞いていたミズキは

「あの、私はいいです。浴衣とか祭りとか……別に」

「まあ、いいからミズキちゃん、こっち、こっち」ありさは「食堂ハル」と書かれた木の看板のある入口を開け、中に招き入れます。店の奥にリビングのような部屋がありました。

「ここ、ありささんの家なんですね。ハルさんて呼んでいるから他人かと思ったら、お母さんなんですね」

「ううん、違うの。ここは下宿。ハルさんの下宿。うちらとハルさんは一階だけど、他の人たちは二階に部屋があるの」

「え?ここ食堂じゃなかったんですか?」

「いちおうお客さんも来るから食堂だけど、住人はこのリビングでご飯食べるから寮みたいな感じかな?前は小さい食堂やってたけど、ある日神様からお告げがあって、宝くじ買うようにいわれて、買ったら当たってお告げ通りに下宿屋を始めたってハルさん言ってた。あはは、ほんとかどうか知らないけど」

「へえー、そうなんですか。ありささん、親は遠くに住んでいるんですか?」

「うちらはね、親はいないの。お姉ちゃんと二人でここに住んでるの」

「えっ?あ……ごめんなさい!あの、お姉さんが大学生ということはありささん、高校生?」

「そう、高二」と言いながら、ありさは三着の浴衣をミズキに当ててみて

「やっぱり、ミズキちゃんはこれがいいね」

淡水色に朝顔の模様の浴衣をミズキに着せ始めました。

 ありさに言われるままに制服を脱ぎ、浴衣をはおり、正面を向かせられたり後ろを向かされたりしながら、

「ありささん、浴衣着せられるんですね」

「うん、ハルさんに教わったから」

 ミズキはありさがもう大人だと思っていたので高校生というのにびっくりしていました。親がいなくて下宿生活で、それでも浴衣の着付けができるなんて、自分が急に子どもに思えました。

 そのとき、ミズキのケータイが鳴りました。

 ありさが帯を締めていた手を離したので、ミズキはリュックからケータイを取り出し、着信を確認しましたが、電話に出ません。

「ミズキちゃん、それ、ママからでしょ?出なくていいの?」

「え?ママ?ああ……ちょっと違いますけど」

 ありさは帯をちょうちょに結び「はい、完成!それじゃ私はやっぱりこれかなあ。お姉ちゃんには紺色のやつでいいね」

 うなずきながら華やかな感じの絞り染めの浴衣を自分に合わせているところに

「ただいまー。あ、友達来てるの?」紺色のスーツを着た女の人が入ってきました。

「あ、お姉ちゃん、この子、ミズキちゃん。ぬり絵手伝ってくれたの」

「こんにちは。みちるです」と挨拶したありさの姉は就活中の女子大生でした。

「こんにちは」とペコリと挨拶したミズキ。

「浴衣、かわいいね。ねえ、ありさ、ここで脱いでたら誰か来るよ!部屋で着替えなよ」

「はーい、ミズキちゃん、部屋へ行こう!」

 ミズキを引っ張り、廊下の向かい側の部屋へ連れていきました。二段ベッドと二つの机と化粧品の置かれた小さなテーブルのある、六畳くらいの部屋でした。

 ありさは自分が着替えながらミズキに

「ねえ、ミズキちゃん、家出してきたの?」

 ミズキは不意をつかれて思わず、

「はい。あ……いえ、ちょっと違うんですけど……あ、でもなんだったっけ」正直に言ってその頃は自分が何をしに出てきたのかわからなくなっていました。

「ここは家出してきた人でも一泊だけは泊めてくれるから。お祭り見て泊まっていけば?」

 ミズキはありさに言われて、その流れに身を任せていきそうな自分を感じていました。リビングに戻ると、ハルとみちるが台所の冷凍庫から食材を出しているところでした。

「ハルさん、行ってきます。それからミズキちゃん、今日一泊してもいいですか?」

ありさはハルに声をかけました。ハルは振り向き、

「いいけど、ミズキちゃん、そういうことは自分で言うものだよ。おうちには連絡した?泊まっていいって?」

「あの、両親とも今日は出かけて、うちにはいないので……。ハルさん、今夜泊まっていいですか?連絡は……これから……します」

「そう、必ず家には連絡するんだよ。気をつけてね、いってらっしゃい。9時までには帰ってね」

 ほどなく、ありさの高校の友達二人がやってきて、四人は露店が立ち並び、神輿が始まった大通りに出かけていきました。神輿を見る人、歩きながらなにか食べている人、露店を覗く人、神輿のまわりの半纏姿の担ぎ手などで溢れかえっています。焼きそばやお好み焼きやイカ焼きなどの入り交じった匂いの中、ひとつひとつ覗きながら、ゆっくりと人波に合わせて歩く三人の後を着いて行くミズキ。

交差点まで来たとき、ありさの友達のケータイに着信音が。

「あっ、松田からライン来た!」もう一人が「えっ?マジ?何だって?」

「ねえ、松田が二人男子連れてきてるって。今から駅前まで来ないかって」

「えー、マジ?誰連れてきてるんだろ?行ってみる?」ともう一人がちょっとうれしそうにありさに言うので、ありさは振り返って、

「ミズキちゃんも一緒に行こうよ。松田ってうちらのクラスの男子で、へんなのじゃないから大丈夫だよ」

 ミズキは「私はいいです。今日はちょっと疲れちゃったんで……。もうちょっと真っすぐ行って端まで見たらまたそのままハルさんの所に帰りますから」

たしかに朝からずっといろんな人に出会って疲れていたミズキ、これ以上また知らない人に会うのが面倒になっていたのです。

「ほんと?大丈夫?帰れる?じゃあ、うちら駅の方に行くからね。気をつけてね」

 その交差点で駅方向に左に曲がって行くありさたちを見送ったミズキは、しばらく露店や人通り続く前方を見ていました。

 神輿の飾りのシャンシャンという音、先導する拍子木のカンカンという音、わっしょい!という掛け声、うっ!はっ!という担ぎ手の重低音の息遣い、露店で風船に空気を入れるチューッ!という音、子供の泣き声、下駄の音、ざわめきの声、声……、その中にかすかにサラサラという水の流れる音が耳に入ってきます。(川が流れてるの?)ミズキはその水音が聞こえる右の方に吸い寄せられるように歩いて行きました。けれど、その水音は川ではなく、岩や石で作られた小川のような、人工的なじゃぶじゃぶ池みたいなものだとすぐに分かりました。

「なんだ……」少しがっかりしましたが、前方には橋が見えます。そちらには川がありそうです。橋の方からはカランカランと下駄の音を響かせて祭り見物のカップルのようなふたり連れなどが歩いてきます。

 ミズキはその流れとは逆に歩いて、銀色のアーチのようなものがかかったベンチのある橋に立ち、

「もしかすると、これが隅田川かな?」橋の欄干に肘をかけ、川を眺めていると……。

「ここは大落古利根川じゃ」と、おじいさんの声がしました。

「え?おおおとし?」おじいさんはどこにいるのかとキョロキョロ見回しましたが、どこにも見えません。

「いにしえの隅田川はこの上流の二股に割れた左のほうじゃ」

 またおじいさんの声がするので目を凝らしましたが、人影はなく、川面にかすかに光る輪が見えたきりでした。

(上流ってあっちのほう?)川の流れの逆の方向を見ました。

 向こうの橋の方にはお祭りのちょうちんが並んで、ぼんやりと明るくなっていますが、川沿いは真っ暗です。まるで異界への入り口のように感じる道。そこを歩くミズキは孤高の女剣士ではなく、不安の中をそれでも前に進もうとする十四才の等身大の女の子でした。

 ようやくもう一つの橋にたどり着くと、たしかに川は二股に分かれています。左側に少し下がりながらカーブしている川は幅も狭く、ここまでのような遊歩道もなく、川岸に草が生い茂るばかりです。ミズキはさらに進むかどうかちゅうちょして立ち止まっていました。

 そのとき、首筋をなでる冷たい風を感じ、振り返ると、長い髪を振り乱した着物の女の人!かすれたような声で

「……私の大事な人、どこですか……」

 ミズキは恐ろしさのあまり声にならない声で

「し、し、しりません!」と逃げようとしましたが、浴衣の足元がもつれて、転んでしまいました。

 いったい何分経ったのか、ワンワンという犬の声でミズキは我に返りました。。

 顔を上げると、転んで脱げたミズキの下駄をくわえた犬と男の人が心配そうに覗き込んで

「どうしたんですか?気分でも悪いんですか?」

「大丈夫です」幸い痛むところもなく、立ち上がれました。

「顔色があまり良くないようですな。さては何か見ましたか?時々あるようです。このあたりは時代の痕跡も魂も残すところだから。それでうちの石は全部こちらに向けて結界を張っているんです」

(出るとか、結界とか……何?もうやだ!)

「私、もう戻らなくちゃ。それでは」

「ひとりで大丈夫?家まで送ってあげますよ。どこまで帰るんですか?」

「自分の家ではないんです。食堂ハルというところに行くだけですから」

「ああ、ハルさんのところ。それなら僕も行こうと思っていたところだから一緒に行きましょう。ちょっと待って、犬を店に連れて帰るから」

 その男の人が犬を連れて入った店のウインドウをのぞくと、一面に墓石が同じ方向を向いて並んでいました。

 さっきの交差点まで来たとき、向こう側から

「ミズキちゃーん!」と大声で呼ぶ声がしてそちらを見ると、手を振っているありさでした。

「ミズキちゃん、探したんだよー!」と駆け寄ってきました。

「すみません。お友達と男子は?」

「うん、ちょっと会ったけど、まあ、いいやって、別れてきた。どうせ学校でまた会えるし。ごめんね、一人にしちゃって。さあ、帰ろう」

「ただいまー!」

「あら、ありさ、ミズキちゃんお帰り。バーベキュー全部焼いちゃったよ。皿に盛ってあるから食べて。あら、石屋さんもいっしょなの?どうぞどうぞ、座って食べて飲んでって」

「ハルさん、すいません、うちらが友だちに会いに行くって言って、別行動になっちゃって……」

「すみません。別行動したいって言ったのは私の方なんです。川があったから隅田川かと思って行ってみたんですけど、もっと上流の方と聞いて、歩いて行って見つけたんですけど、そこで、あの……」

「隅田川?古隅田川のこと?何故そこへ行きたかったの?」

「あの、変なこと言うと思うでしょうけど、頭に聞こえてくるんです。フルスミダとか、ナリヒラバシとか、ウメワカヅカとか。気になっていたので。でも、あの、あの、最近寝不足で疲れているから気のせいだと思うんですけど」

「ふ~ん、何か意味があるんでしょうね、そこに行く意味がきっと」

ハルはうなずきました。

「あらま、梅若塚?ちょうど明日納骨で満蔵寺さんに行くんですよ。そこに行きたいなら車で一緒に乗せていってあげますよ」

 そう言う石屋の言葉を制して、ハルはミズキに

「古隅田川に沿ってまっすぐ歩いていけばいいのだから、自分で歩いて探したらいいよ。明日涼しいうちに出かけなさいよ。寝不足はいけないから早くお休み。ありさはミズキちゃんをゲストルームに案内してね」

「はーい」

 ぐったり疲れていたミズキは朝まで熟睡していました。かすかに、川の風景が夢に出てきた気がしますが、怖い夢ではありませんでした。

 日曜日の朝食の時間は8時と聞いていましたが、7時に部屋をノックされ、ドアを開けると、ハルが、

「ミズキちゃん、朝ごはんの支度手伝って!はい、エプロン!」

 台所で昨夜の住人らしき若い男の人が準備をしています。

「おはようございます!一泊さん?ぼく、長島っていいます。今日の朝飯当番です。よろしく!」

 ぴょこんと頭を下げたので、ミズキも

「おはようございます。実島です。よろしくお願いします」

「ミズキちゃん、一泊さんはね、朝食の準備とお掃除が宿代なの。さて、今日の朝ごはんは昨日のバーベキューの残りものといただきもののそうめん。あと、おむすび。なんてどお?」とハル。

 大きな鍋にぐらぐらとお湯を沸かしてそうめんを茹で、薬味を刻み、バーベキューの残り物を温め直しておむすびと大皿に盛り、八人分の食器を並べ、リビングの大きなテーブルいっぱいに並ぶ頃、皆が起きてきました。

 昨夜は見なかった人まで含めて八人の朝食はテレビで見た大家族の食事風景のようなにぎやかさでした。朝ごはんはあっという間にみんなのお腹に入って消えていきましたが、それでもミズキはいつもの二倍は食べたような気がします。

「ごちそうさまでした!」

 その後は各自のスケジュールと食事の必要ありなしをホワイトボードに書いていきます。

 そのとき、

「ねえ、これ誰のケータイ?ミズキちゃんの?ソファに置いてあったよ!」とありさが見つけて持ってきました。

「あ、そうです。そういえば、浴衣に着替えるときに出して……」

 それを見たハルはミズキに

「ミズキちゃん、私とアドレス交換して。連絡用に」

「はい」ミズキはハルとアドレス交換をしました。

 食事の後の片付けを済ますと、リビング、下宿の廊下、玄関の掃除です。掃除当番はありさの姉のみちる。手短に要領を説明しながらてきぱきと掃除していきます。ミズキが

「あの、下宿なのに、食事当番とか掃除当番とかあって、たいへんですね」と話しかけると、みちるは

「学生はもともと家賃は安いし、当番とか食堂の手伝いをするとバイト代として家賃から引かれるから、うちなんか家賃なしの、お小遣い少し付き、みたいなもん。生活の心配しないで就活できるから助かる!」

 みちるは掃除の手を休めずに話しました。掃除も終わったことをハルに報告すると、

「そう、それでは行ってらっしゃい!気をつけてね。はい、水。持って行きなさい」

 ありさにも別れの挨拶をしてミズキは川に向かって歩きはじめました。

   六、川に沿って

 今日は祭りの二日目らしく、祭ばやしがスピーカーから流れ、前日の露店の食べ物の匂いの残る大通りから川の方向に曲がって歩いて行くと昨夜とはまったく違う明るく緑多い古利根川の水面がキラキラと光っています。

 遊歩道を歩き、川が二股に分かれる場所に来ました。古隅田川と呼ばれる左の細い川をさかのぼって歩いていきます。そこはうっそうと草の生い茂る狭い川で、川べりの道も狭く、くねくねと曲がっています。

 川は自分の地元のほうがずっとキレイだなと思いながらも、道が途切れたところの橋の下に木でできた歩道を見つけ、そろそろと降りて登って、まるで、探検みたいだと、少しワクワクしました。川は狭くなったり少し広くなって歩道がついていたり、橋もいくつか越えました。まだ業平橋は先のようです。川が続いていく限り川沿いの道を広い道路も横断してどんどん歩いて行くミズキでしたが、歩き出して一時間くらいで、歩みがぱったりと止まりました。

(川がない……)梅若塚にも業平橋にも行き着いていないのに、川がなくなっています。川の行き止まりの先には田んぼと林のようなところ。ミズキはあたりを見回しましたが道を聞けるような人影がありません。目印を見失った迷子です。

「そうだ、ハルさんに連絡して聞いてみよう」

 メールすると返信はすぐに来ました。返信は

「ミズキちゃんが家を出るときにお母さんから渡されたメモの番号に電話して」とだけ。

「お母さんからって、いったい?何のことを言っているのだろう?メモって?」

 そういえば、家を出るときに渡された封筒にお金が入っていたこと、それを渡すときに洋子さんが連絡先のメモと言っていたことを思い出しました。

 ミズキはリュックの中から封筒を取り出すと、中に「おばさんのケータイ」と書かれた電話番号のメモが入っていました。

(おばさん?誰だろう?お父さんには女の兄弟はいないし、洋子さんの?)

 どっちみち、ここは遠いから法事に行けない言い訳はできる。そう思ってその番号にかけてみました。電話が通じると、すかさず向こうから

「ミズキちゃん?今どこにいるの?おばちゃん、すぐに迎えに行きますから」

「あの、今、春日部なんです。遠いから迎えに来られないと思います。それからあの、おばちゃんて言われてもどなたかわかりません」

「ああ、ごめんね。おばちゃんは春日部のおばちゃん。小田っていいます。あはは、そう言っても知らないよねえ。今、どのへん?」

 ミズキはとても混乱していました。洋子さんが書いたメモに春日部のおばちゃんという人の番号が書いてあって、自分が春日部にいて……。偶然なのか、何か意味があるのか?言葉をなくしているミズキに

「もしかしたら、暗きょの手前?それなら正面の緑道を左に歩いて行くと、休憩できる東屋があるから、そこで座って待っていて。おばちゃん、あと10分くらいでそこに行けるから」

 ミズキには暗きょの意味は分かりませんでしたが、緑道という歩道があります。ミズキは電話で言われた通り、左に歩いて東屋を見つけ、腰掛けました。そこにまもなく

「あー、ミズキちゃん、来てくれてよかったあ!あたしはすぐにわかったよー」

 見知らぬ女の人が手に花束を持って、ふくよかな笑顔で近づいてきました。

 ミズキは立って、お辞儀をして

「あの、こんにちは。私のこと知っているんですか?」

「知ってるよ、ちょくちょく写真を見せてもらったもの。幼稚園の頃の遠足の写真やら小学校の入学式、卒業式の写真、他にも何枚もね、豊さんが写真と手紙を送ってくれたから」

「え?お父さんが?おばさんはお父さんの兄弟なんですか?」

「ああ、何も知らなかったんだね。あたしは由加里さんのお母さんの三千代さんの息子の嫁。といっても旦那さんは三千代さんの養子だけど」

「三千代さん?お母さんのお母さん?それは私のおばあちゃんということですか?初めて聞きました。お母さんから聞いたことなかったです」

「そうね、由加里さん、三千代さんと喧嘩別れして家出して連絡はいっさいしなかったから」

「喧嘩別れ?お母さんは家出したんですか?」

 ミズキは初めて聞く話に驚きました。明るくていつも笑っていたお母さんが家出していたとは……。

「三千代さん土地持ちのご主人と結婚して、人に貸していたから生活は楽だったけれども、ご主人が遺伝性の心臓の持病もちで。由加里さんの次に生まれた男の子も五才の時に同じ病気を発症して、わかったときにはもう手遅れで、かわいいさかりに亡くなってね。ご主人もその後すぐ三千代さんと由加里さんの二人を残して亡くなって。だから三千代さん、由加里さんだけは病にとられたくなくて。三千代さんは跡取りになる由加里さんにたとえ心臓病の遺伝があっても、なんとか悪化させずに自分の手元で大切に育てたかった。遊び盛りも飛んだりはねたりするのは禁止。あちこち出歩くのも禁止。室内でできるお稽古事だけやらせて。それはそれは大事に育てていたけど。由加里さんにしてみれば窮屈だったでしょうね。まあ、小さい頃は三千代さんの言いつけを守っていたけど、中学生くらいにはね、反抗期というのもあって、なにかにつけて親子喧嘩が絶えなかった。それにね、年頃になれば好きな人とお付き合いだってしたいじゃない?それも自由にできず高校を卒業するころはもう、婿さんの候補も上がっていたらしいの。由加里さんはもう耐えられなくなって、三千代さんと大喧嘩して、もう家には戻ってこない。自分を捜索しないで欲しい。と書き置きして家出してしまったの。由加里さん本人も自分が遺伝の病気を持っていること、分かっていたんだと思うの。それなら好きなように生きたいと思ったんでしょうね」

 ミズキはそれを聞いて、はっと思い当たることがありました。そういえば、自分も子供の頃、外での運動を制限されていたし、毎月決まって自分には何の自覚症状もないのに病院に通わされていました。(もしかしたら、自分も心臓の病気を持っているの?)急に胸ががドキドキしてきましたが、それでもおばさんが話を続けるのを聞いていました。

「由加里さんが家出した当時、三千代さんは、狂ったように捜し歩いたそうでね。一度、浅草で由加里さんを見たという人があって、何度も出かけて行ったらしいけど、みつけることができなくて、疲れて諦めかけていた時に、手紙が来たんだって。生まれたばかりのミズキちゃんの写真が同封されて。由加里さんは絶対に連絡しないで欲しいと言っていたけれど、豊さんは内緒で三千代さんに連絡をとってくれたの。豊さんがお医者さんで、優しい人で、子供も産んで、由加里さんが幸せなのがわかってね、三千代さんはようやく踏ん切りがついて。跡取りは夫の血縁でなく、自分の血縁から選べば心臓病の心配しなくて済むから、三千代さんの兄弟の次男坊だったうちの旦那を養子にして、そこへあたしが嫁いできたの。豊さんが時々手紙や写真を送ってくるのを三千代さんといっしょに見ていたの」

「あの、おばあちゃん、三千代さんは今もお元気ですか?」

「そう、それなんだけど、ちょうど、由加里さんが亡くなったころ、三千代さんも亡くなったの。脳内出血で。不思議なものね、やっぱり母娘の縁は。こちらもそんな状態だから由加里さんの葬儀にも出られなくて、あとでお墓参りに行こうと思って連絡したけど、お墓にはまだ埋葬していないって。それはおかしいと思って聞いたらね、由加里さん、豊さんとは正式に結婚していなくて、内縁の妻のままでいさせてくれって言っていたんだって」

「え?それはどういう事ですか?父と母は結婚していました。内縁ってなんですか?」

「内縁ていうのは正式に籍を入れていないということ。せめてミズキちゃんが生まれた時には入れてもいいものを。戸籍には今はどの子も『子』と書かれるだけだからって。豊さんの戸籍にミズキちゃんはちゃんと入っているけどね。がんとして、由加里さんが入籍しなかったの。家出して会わずにいても三千代さんの娘でいたということ。だから今日は二人の三回忌を機に同じお墓に埋葬することになっているの。さあ、そろそろ法事が始まる時間。ミズキちゃん、行きましょ」

 おばさんは立ち上がり、ミズキの手を握り、歩きはじめました。

 ミズキは祖母のこと、病気のこと、戸籍のこと、法事のこと、今日おばさんから聞いたすべてのことが頭の中でぐるぐるまわり、ぼうぜんとおばさんに手を引かれて歩いて行きました。緑道を戻り、暗きょの田んぼの細い畦道を歩き、農家の脇の道を通りぬけると、そこにはお寺がありました。

 お寺の入口には満蔵寺と書いてあります。その手前のこんもりと土が盛られた祠のようなところを指差しておばさんが

「あれが梅若塚。梅若伝説の因縁の場所。」

 近寄ってみると、「梅若塚」と彫られた石碑があり、その脇にはここが梅若塚伝説の地だという解説の立て札があります。

(ここだったのか……)とよく見るまもなく、おばさんに促されてミズキはお寺の本堂に入ると、十数人の見知らぬ人たちの中から立ち上がって出てきたのがお父さんと洋子さんでした。

「よくここまで来られたね。ミズキ。由加里と三千代さんが導いてくれたのかもしれない」

お父さんの傍らで洋子さんが涙ぐんでいました。

「さあ、読経が始まるから、こっちに座って」

 法要の読経と焼香が済み、お墓へ移動すると、そこには昨日の石屋さんがいました。

「おや、また会いましたな。ご縁がありますな」

「納骨って、私の母のお骨を納めることだったんですね」

 ミズキのお母さんは十六年間の別れを経て、また、母の眠る墓に入ったのです。

 けれどもミズキは墓前に手を合わせてもまだ実感がわきませんでした。

   七、祖母の家

 法要の食事を用意してありますからと、おばさんが皆に言い、歩いて五分ほどの家に着きました。その家は屋根のついた門のある立派な家で、表札には「小田」と書いてありました。

「ミズキ、ここがお母さんの生まれて育った家だよ」

 お座敷の大きなテーブルに食事が用意されていました。お父さんが正面に二つの位牌と額に入った写真を置きました。

(あ、ママ……)額に入っている写真の一つはたぶん三千代さんなのでしょう。そしてもうひとつはにっこりと笑ったときの母親の顔でした。ミズキは胸がギューッと締め付けられ、口をキュッと固く結びました。

 おばさんの旦那さんが挨拶して、二つの位牌の前にも食事が供えられ、お酒がつがれ、旦那さんの「献杯!」の声の後に続き、一同「献杯!」と盃を上げ、食事が始まりました。

 その時に奥の部屋からお父さんが、風呂敷に包まれた四角いものを持ってきて、二つの位牌の前で、包みを開けると、それは絵の入った額でした。

「あっ!それは……」

三年前、ミズキがコンクールで入賞した絵でした。

(何故?その絵がここに!……)ミズキは胸がざわざわして落ち着かない気持ちになりました。ミズキは母親が亡くなった日に受賞した絵を、あの日以来自分で見ることはなかったのです。

 お父さんはその絵を一同に見せてから、二つの遺影に向かって語り始めました。

「お母さん、これはあなたの孫、ミズキが描いて賞を頂いた絵です。由加里が無事に子供を産み、育てていけたのはあなたが由加里を大切に育ててくれたおかげです。ありがとうございました。由加里は本当はミズキを連れてあなたに会いに来たかったはずです。今日になってしまい、すみません」

 会食していた人から涙をすする音が聞こえました。お父さんはさらに

「そして、由加里、自分の病を知りながらミズキを産んで、育ててくれてありがとう。この絵に描かれているように君の明るい笑顔をミズキは見て育ってくれた。本当にありがとう。この絵は君が心待ちにしていたミズキの十二才の誕生日を描いた絵だ。ミズキは今も元気だ。もうすぐ十五才になる。ぼくと洋子は君の思いを受け継いでいくから心配しないでくれ。」

 それを聞いてミズキはずっとずっと胸に閉じ込めて蓋をしてきた思いがもう限界に達してどっと溢れました。

「ごめんなさい!ごめんなさい!お父さん!ママを死なせたのは私です!ごめんなさい!」

「う~うっ!うっ!」と嗚咽しながらミズキは

「あの日、授賞式の日、ママに挨拶していこうと思って、病院に行ったら、ママ、いつもより息が荒くて、声も弱々しくて、気になったんだけど、ママ、笑顔で、早く授賞式に行きなさい、早く!っていうから、私、看護士さんに連絡するの忘れてそのまま会場に行っちゃって……行かなければ、私がちゃんと伝えていれば、ママ、助かったかもしれないのに、ううっ!私のせいなんです。ほんとにごめんなさい!ママ、ごめんなさい!ううう……賞状を一番先にママに見せようとして病院に行ったら、あんなことになってて、もう、それからは覚えてなくて……そのあともいつか言わなきゃって思ったのに言えなくて、ずっとずっと……ごめんなさい!ごめんなさい!ううわ~!」

 ミズキは声を上げて泣きじゃくりました。

 泣きじゃくるミズキを隣から洋子さんがしっかりと抱え、背中をさすりながら、

「そうじゃないの、そうじゃないの、ミズキちゃん。違うのよ。ずっと心のなかに抱えたまま苦しんでいたのね。辛かったでしょう。分かってあげられなくてごめんなさいね」

 父親もミズキの前に来て

「ミズキ、今まで本当のことを話してやれなくてすまなかった。本当はミズキの十二才の誕生日にすべて話そうと由加里と洋子と三人で決めていたんだ。ミズキが無事に十二才の誕生日を迎えるということは心臓の病気の発症の心配がないという証、それをみんなで祝おうと思っていたんだ。由加里は自分の病のことを知っていた。どうして三千代さんがあんなに自分に厳しく行動を制限するのかも知っていた。それでも、自分の思うとおりに生きることを選んで家を出てミズキを産んで、一緒に生きられて本当に幸せだったと思う。ミズキにも好きなようにさせたかった。絵が好きなら才能を伸ばしてやりたい、そう思って絵の教室にも通わせて、ミズキが描いてくる絵をいつも楽しみにしていた。実は由加里はミズキの誕生日の前に自分の死を覚悟していたんだ。それでも、授賞式まではどうしても生きていたかった。ミズキを送り出してすぐに由加里はナースコールを押した。だからミズキのせいじゃない。これは断じて言える。送り出したかったんだよ。あの日以来ミズキが口をほとんどきかなくなって絵も描かなくなったのは母親の死のショックから立ち直れないんだと思って、癒えるまでそっとしておこうと思っていたんだ。しかし、それが三年にも及んだものだから、三回忌の機会に話そうと洋子と決めたんだ」

 洋子も続いてミズキに話しかけました。

「ミズキちゃん、ほんとにごめんなさいね。ずっとずっと話したかったけど、受け止められる状況じゃないと思って、言い出せなかったの。豊さんが、妊娠した由加里さんと奥多摩の診療所に来た時からの看護士の私は家族同様にしてもらっていたの。由加里さん、無事にあなたを産めたとき、本当に喜んでいたの。そして私に言ったの。『洋子さん、私の死んだあとはこの子の母親になってね。私は籍を入れないから、あなたが実島の籍に入ってね』って。赤ちゃんを産んだ時にそんな事言うなんて、やめて!と言ったんだけど、それからも度々、私にミズキちゃんの母親になって欲しい、豊さんの奥さんになってほしいって言い続けたの。入退院するようになってからは豊さんにもそう言うので、三人で話し合ったの。由加里さんの命のある限りは豊さんの妻として、ミズキちゃんの母親として思うとおりに生きてもらおうって。その後のことは豊さんと私とで由加里さんの思いを継いで行こうって」

 これまで流したことのない涙を流すだけ流したミズキは顔をあげて言いました。

「私、陽子さんのこと好きでした。ママがいる時はママには言えないことを話せたし、ママが入院していたときにはとてもよく面倒を見てもらって寂しくなかった。でも、ひとつはっきり聞きたいのは……、全部私のため?お父さんとの結婚も。洋子さん、お父さんを好きなの?それならいいの。お父さんも、洋子さんのこと好きなの?素直に言って!」

 これを聞いてお父さんと陽子さんははっとして顔を赤らめました。

 この話を黙って聞いていたお坊さんが口を開きました。

「ははは、これは娘に一本とられたようですな。ところでミズキさん、その絵を皆に見せて、何を描いたのか説明してくれませんか。」

 ミズキはおずおずと絵に近寄り自分の胸の前に持ち、皆に見せながら

「これは私の十二才の誕生日に向けた願いを空想を交えて描いたものです。星がたくさんきらめいている宇宙に浮かんでいる風船。その中でママがサンバを踊っています。お誕生ケーキのろうそくを吹き消す私をニコニコして見ているお父さんと洋子さん。もうひとり男の子を描いたのは……、家族が増えて欲しいから」

「ほう、素晴らしい絵ですな。素直な願いが美しい色彩で描かれている。人間、素直が一番ですな。ははは。さて、みなさん、せっかくのご供養の料理、素直に、美味しくいただきましょうか」

 一同に笑いが起こり、和やかに会食を終えると、お坊さんと親戚の者は引き上げていきました。

 おばさんが、位牌と遺影を奥の仏間に安置して、ミズキたちを招きました。

 お父さんと陽子さんがお仏壇に線香をあげ、お参りしているとき、ミズキは鴨居にかけてある写真の一つを見て、あっ!と驚きました。

「あの写真は?誰ですか?」とミズキの指さした写真を見ておばさんは

「ああ、新太郎ちゃん。三千代さんの長男で五才で亡くなった、由加里さんの弟。ミズキちゃんには叔父さんにあたるわね。かわいい子でしたね」

 麦わら帽子をかぶり、にっこりと笑っている男の子、その子こそ、昨日、ミズキの手を握り春日部駅から外に引っ張り出した、男の子だったのです。何日か続いた奇妙な体験のすべてが繋がって、温かいものが頬を伝いました。ミズキはその涙を拭わずに仏壇に手を合わせました。

   八、帰途

「ここはミズキちゃんの実家だと思っていつでもおいで」

「はい、また来ます。そうだ、あの……業平橋ってどこにあるんですか?」

「ああ、業平橋ね。近くにあるよ。帰り道にあるから見て行ったら?小さな橋だから見落とさないようにね」

 帰途はお父さんの運転する車でした。車に乗り込むと、洋子さんが

「下宿屋のハルさんにお礼を言って帰りましょう」と言いました。

「え?洋子さん、ハルさんのこと何故知っているんですか?そういえば、ハルさんのメールで洋子さんのメモのところに電話しなさいっていうのもおかしいと思ったんです」

「あのね、昨日何度もミズキちゃんのケータイに電話したけど、出なかったでしょ。何度目かの時に女の人が出て、登録名が『ママ母』だったから何か訳ありかと思って出ましたって。場所を聞いたら春日部だからびっくりしたわ。法事があるから迎えに行きますと言ったら、今日はうちの下宿に泊まると言っていますし、おそらく、明日自分で行くでしょうから待っててあげてくださいって。だからメモのことを伝えておいたの」

(ハルさん、わかっていて黙って送り出したなんて。でももしその時に言われてたら素直に行かなかったかもしれない……)見抜かれていたことがありがたくも、少し悔しくもありました。

 そのとき前方に小さな橋。

「お父さん、ちょっと止まって。あ、これ、業平橋!」

 細い用水路のような川の両側は草が生い茂って橋そのものも小さくて見落としそうなものでしたが、橋のたもとに「なりひらばし」と書かれていました。

 ゆっくりと橋を渡り市街地に入っていく間、お父さんはこう話しました。

「由加里から以前聞いたことがあったんだ。自分の家の近くに古隅田川と梅若塚と業平橋があるって。梅若伝説っていうのは子どもを人さらいにさらわれて、母親が狂いながら探して、病気で死んだわが子の墓にたどり着く話でしょ。だからぼくはこのまま黙っていたら人さらいと同じになるから嫌だと思ってね、由加里のお母さんに連絡をとったんだ」

 春日部の市街地に入っていくと、祭り二日目の露店の準備やらお囃子やらでにぎやかでした。交通規制が始まるまであと少しだけ時間があり、車は食堂ハルの駐車場に到着。

駐車場には昨日と同じように街キャラカードのぬり絵やデザインをしている子供たちとありさとハルがいました。

「昨日、みんながデザインしたカード、できたよー!大事にしてね」と子供たちに名刺大のカードを渡していました。

 ありさは笑顔で「ミズキちゃん、お帰りー!パパとママに会えたんだね、よかったね」

 ミズキのお父さんと洋子さんは何度も頭を下げてハルにお礼を言いました。

 ミズキもお礼を言おうとすると、ハルは家の中に入ってしまい、またすぐに出てきて、一枚の紙をミズキに渡して言いました。

「これ、あなたが自分自身のキャラクターを描いたんでしょ?でも、女剣士はあなたのキャラじゃないね。次に来るときには違うのを描いて持ってきてね。」

 渡された紙は昨日みゆにお手本として描いてあげた美少女剣士の絵でした。気がつけば、自分の中の孤高の女剣士は昨日から姿を消していました。

 奥多摩に帰りついた頃はもう日が暮れていましたが、車を降りると、かすかに聞こえる川のせせらぎの音、木々の青く濃い匂いに包まれ、それが自分の体の中にすーっと染みこんでくるのを感じ、何年かぶりに故郷に帰ったような気分でした。 

 ミズキはその後、学校の移動教室に参加しました。浅草寺、スカイツリー、隅田川、梅若塚、木母寺などを回り、レポートを書いて二学期に提出したのでした。そのレポートには墨田区だけでなく埼玉県の春日部市に同じ伝説、同じ名の史跡があることを付け加えたところ、歴女の大木先生がたいそう興味津々に食いついてきて、案内することを約束させられてしまったのでした。

 ミズキの家ではお父さんと洋子さんが婚姻届を役所に届け、九月半ばになると、ミズキは「洋子さん」という呼び方に「お母さん」という呼び方が交じるようになりました。

 絵を描くこともぼちぼちと再開していました。まずはかき氷を作るえんどうのおばちゃんの絵から。

 ただ、自分にだけ聞こえていた「あの声」は聞こえてこなくなり、

ちょっと寂しいような気がしていました。

 そんなある日、ハルさんからメールが届き「十月に春日部の八幡神社の境内で薪能があって、そこで隅田川が演じられるから来てみない?」とありました。このことは大木先生には伝えませんでした。言えば、きっとまた食いついてくるでしょうから、面倒です。一人で行くことにしました。

 ミズキが再び春日部に行った話はいつか機会があったらお話ししたいと思います。

     

  続編  かすかべ思春期食堂~おむすびの隠し味~連載終了 へ

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