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007那由多 第二章「狐面」

主な登場キャラクター

那由多

Manifold マーケットプレイス

※注意:この物語には暴力描写が含まれます。

目次

第一章 「ドブネズミ」
第二章 「狐面」
第三章「怪物」
第四章「You Complete Me」
第五章「Tangsten Lycoris」

第二章 「狐面」

 那由多と別れて意気揚々と自分のマンションに戻った洛叉。
 那由多がいる廃公園からは2キロ弱位の距離にある。
 彼女のマンションは繁華街に近い住宅区域に建っていた。

 洛叉は自らの意思でサイボーグになった。
 その結果生身を失った事に一切の後悔はない。
 それと引き換えに得た、最高の義体、教育、職場。
 何不自由無い「人」…いやそれ以上の暮らしを謳歌できている。
 反社会的勢力から怯えることもない。
 FloatingBits社員とわかるとむしろ畏怖を持って接された。
 生活に不満は無い。
 ただ一点、洛叉には大きな精神的な傷跡が残っていた。
 5年前、FloatingBits社とヤクザの争いで事故に巻き込まれて死んだ妹阿伽羅(あから)。
 両親が事故死した後残されたたった1人の肉親。
 那由多にはまだあまり話してないが洛叉は妹を溺愛していた。
 事故直後、FloatingBits社に連れて行かれたり、サイボーグ化したり、その後の訓練、慣れない仕事等で忙しく、まともに阿伽羅の埋葬をしてやれなかった。
 阿伽羅の亡骸は洛叉が義体を普通に扱えるようになるまでの数週間FloatingBits社で保管され、洛叉の立ち会いのもと火葬され遺灰は海に撒かれた。
 墓はない。
 死亡データとして政府が管理するブロックチェーン『日本デジタルデータ総合チェーン(JDGC)』上に載っているだけ。
 阿伽羅の所持品で手元に残ってるのはガラス玉のかんざし2つと小さい狐の面が付いた髪飾りのみ。母親から彼女が譲り受けたもので母親の形見でもあった。
 阿伽羅が死んだのち、洛叉の心にぽっかりとあいた穴は、何をしても埋まることはなかった。
 
 そんな中、1年ほど前仕事帰りに偶然見かけた阿伽羅と背格好がよく似ている娘。
 顔も少し阿伽羅に似ていた。
 洛叉は慈善事業部に所属しており、定期的に炊き出しを行なっている。
 沢山の浮浪児が集まってくるが、それに混じって那由多もたまに顔を出していた。
 彼女を発見した時、その日仕事が手につかなくなる程動揺した。
 阿伽羅を守れなかった自分への罰…否、最後のチャンスなのではないか。
 今度こそ彼女を守れと。
 今の洛叉ならできる。
 ただ、迷いもあった。
 自分を信用してくれるようになるだろうか。
 逃げてしまうのではないか。
 二度と会えなくなってしまうのではないだろうか。
 那由多は常に自らの存在を隠すように、目立たないように行動していた。
 警戒心が非常に強い。
 洛叉自身あまりコミュニケーションが得意な方ではない。
 話しかけるかどうか散々迷った。
 三ヶ月前思い切って話しかけてみた。
 しかし実際出会ってからは急速に距離が縮んだ気がした。
 境遇は違えど浮浪児としてお互い共感できたのかもしれない。
 聞けば2年以上1人で生活しているとの事。
 向こうももしかしたら誰か頼れる人が欲しかったのかもしれない。
 何度も何度も繰り返し会い、いっぱい話した。
 お菓子もおしゃべりしながら食べれるようになった。
 手料理も美味しいと言ってくれた。

 出会って3ヶ月。
 明日は初めてのお泊まり会。
 那由多にお泊まり会の事を聞く際めちゃくちゃドキドキしたが、結果はOK。
 真っ赤になって小さく頷く那由多が阿伽羅と被り抱きしめたくなるのを必死で我慢した。

 掃除洗濯を済ませ、明日の料理を決める。
 買い物は一緒に行くのを嫌がるかもしれない。
 その間那由多が退屈しないように好きそうな映画をいくつかピックアップした。
 出来れば…一緒に暮らさないか提案をしたい。
 いや出会って3ヶ月はまだ早いかな…
 そいや遠慮して両親がいるかどうか聞いてなかった…
 どうやって聞き出そうか…
 色々と考えをめぐらせながら部屋を片付けているとーー

「Emergency Alert: Nayuta」

 耳障りなブザー音と共に急にスクリーンが立ち上がり、洛叉の視界を赤く染めた。
 びっくりして立ち上がった。
 緊急連絡用携帯ストラップからの発信。
 何かあったらボタンを押せと。
 いらないと言い張る那由多に無理やり持たせたモノだ。
 押し間違い…?
 滅多な事で人に頼るようなコではない。
 落とした拍子に起動するようなモノでもない。
「那由多ちゃん…」
 那由多は人と会わず隠密に徹していたから今まで生存出来ていた。
 それが洛叉と会う事で崩れた可能性。
 急にドス黒い不安が沸々と湧き上がり洛叉にまとわりつく。
 また「妹」を失うかもしれない。
 一気に血の気が引いた。
 スイッチの押し間違いでもいい。
 まず確認しないと…
 急いで靴を持ってベランダに出た。
 マンションの30階から那由多の方向を確認。
 全速力で行けば30秒はかからない。
 洛叉が飛び出すと同時に手すりがべこりとひしゃげたーー

「え?」
 一瞬浮浪者ほ何が起こったか分からず、ポカンと洛叉と自分の潰れた右拳を交互に見た。
 ようやく状況がわかったのか顔がみるみる青くなっていった。
「あぁあぁぁあ!
 いってぇぇえええぇ!!」
 潰れた右手を抱え地面をのたうち回る。
「那由多ちゃん!!」
 右手を潰した張本人はそれを全く気にする事なく那由多に声をかけた。
「俺の…俺の手がぁあぁ!」
「うるさい!」
 気が狂った様に叫びながら転げ回っている浮浪者を洛叉はまるでボールを蹴るかの様に蹴り上げた。
 浮浪者は弾丸のようなスピードで吹き飛び、パァンと軽快な音をたててコンクリートの壁にぶち当たると、血の入った風船が弾ける様に破裂した。
 肉片がコンクリートにこびりつき、ズルリと壁を伝って落ちた。
「那由多!」
 洛叉は再び那由多のそばに駆け寄ると状態を確認しようとしゃがみ込んだ。
「おいおい何してくれてんだ姉ちゃん。」
 浮浪者の相方だったサイボーグが土管から降りて洛叉に声をかけた。
「奴ぁ情報屋として結構役に立ってたんだぜ」
 言うが早いか彼は素早い動きで洛叉との間合いを詰め、機械の腕で殴りかかった。
 体格差は歴然。
 拳は洛叉の頭ほどもある鉄の塊。
「貴様もそのガキと同じ目にしてやry」
「邪魔するなぁあ!」
 そう叫ぶと洛叉は迫り来る鉄の塊を振り向きざま紙一重で避け、サイボーグの顔面に拳を叩き込んだ。
 小型の大砲のような洛叉の拳は、チタン製の頭蓋骨を砕き脳味噌もろとも叩き潰し、吹き飛ばした。
 頭部を失ったサイボーグはこときれた人形のように地面に倒れた。
 再び洛叉は那由多のそばにしゃがみ込んだ。
「那由多!」
 地面に串刺しになっている両手を中心に真っ赤な血の池が出来ている。
 目は虚。
 顔面が死体のように青白くなっている。
 口からも血を吐き出した跡があった。
 左の脇腹から肋骨が突き出ていた。
 下半身も血の池と化していた。
 心音微弱。

 ーー持たない。
 数分で死ぬ!
 
「緊急搬送!
 13歳女児!
 私が連れて行きます!」
 パニックになりそうなのを必死で抑えFloatingBits社所属病院に緊急連絡をとる。
「救急医療班了解しました。
 南側H6エントランスで待機しています。
 状態を教えて下さい」
 手早くオペレーターに那由多の状況を伝えた。
「了解しました。
 お待ちしております。」
 ここから2キロほど那由多を担いで移動しなければならない。
 自分のスカートの裾を引き裂き紐を作ると、那由多の両手首をキツく縛った。
「痛いけど頑張って!」
 ナイフを一気に引き抜く。
 既に出血が致死量を超えている。
 血はほとんど飛び散らなかった。
 那由多の反応もない。
「…寒い…」
「!!」
 虫が囁くような小さな声が聞こえた。
「那由多!
 しっかり!」
「洛叉…
 ど…こ…?」
 それ以降那由多は何も言葉を発さなくなった。
 瞳が急速に光を失っていく。
 彼女の部屋から毛布を掻っ攫ってきてグルグル巻きにする。
 サイボーグの移動速度は公道では車同様制限されている。
 だがそんなものはもはやどうでも良かった。
 洛叉は那由多を担ぎ上げ、ありったけの力を込めて地面を蹴った。
 全力で300キロ近く出る。
 病院まで30秒弱。
「那由多!
 もう少し!
 頑張って!」
 
『手術中』の電灯が夜中の病院の通路を青白く照らした。
 洛叉は手術室から反対側にある壁まで後ずさると背中を壁に預けてズリズリと冷たい床に崩れ落ちた。
 血みどろの両手が、ブルブルと震えていた。
「那由多…」
 手術室に入る前。
 那由多の心臓は、動いていなかった。
 震える両手で自分をかき抱き、床にへたり込んだまま洛叉は嗚咽を漏らした。
 嗚咽はやがて悲痛な慟哭となって誰もいない通路に響き渡ったーー

 どれくらい経っただろう。
 手術中の電灯が消えた。
 何人かの医師と看護師が扉の外に出てきて座り込んでいる那由多を困ったように眺めていた。
 最後に、血だらけの白衣を着て赤い縁のメガネをかけた若い女が出てきて皆を解散させた。
 白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、深いため息をついた。
「死んではいない」
 その言葉に洛叉がぴくりと反応した。
 虚ろな目で女医を見上げた。
「紫苑(しおん)…」
「ただ、アレで生きてる…とは、言えないな…」
「…」
「両手裂傷がひどい。
 中三本指はもはや自由には動かせない。
 左肋骨がバラバラになって肺に突き刺さっていた。
 左肺が穴だらけで使い物にならない。
 背骨もズレてる。
 脳内出血。
 まぁこれは軽度だ。
 子宮は…」
「やめて…!」
 洛叉は耳を塞いだ。
 わかっていた…
 那由多の状態は敵を倒した後すぐにチェックした。
 紫苑はもう一度深くため息をついた。
「そしてこれが最も深刻…」
 洛叉は紫苑から目を逸らした。
「心臓は最早活動を再開しない。」
 洛叉の歯が離れていても聞こえるほどガチガチと音を立てて震え出した。
「目覚めることもない。」
 ボロボロと大粒の涙が洛叉の頬を濡らした。
「あぁああぁ…!」
 悲痛な嗚咽が通路にこだました。
 救えなかった。
 またしても。
 阿伽羅と同じ運命にさせてしまった。
 那由多と出会うことで目立つようになってしまったのが原因なのはほぼ確実。
 私が、壊したーー

「洛叉」
 泣きじゃくる洛叉に対して紫苑はただ淡々と語りかけた。
「言っただろう。
 彼女は『死んではいない』。
 彼女がどれだけ頑張れるか次第だが、脳の損傷は軽度だ。
 直ぐに全身サイボーグ化すればあるいは…
 ただ、未成年だから親の許可がいる。
 彼女の親には連絡したのか?」
 混乱していて言葉がうまく出ない。
 無言のまま洛叉は首を振った。
 両親のことは何も聞いてない。
「…ではお前の判断でやるしかない。
 生命維持装置はつけているが、いつ状態が悪化するかわからない。
 今ここで決めろ。
 ただし、両親がいた場合訴えられる可能性もある。
 それに…この世の地獄を見た彼女だ。
 そのまま死なせてほしいと思っているかもしれない。」
「…」
「どうする?」
 洛叉の答えは決まっていた。
 生きていて欲しい。
 しかし、一方で那由多自身はどう考えるだろうか。
 彼女は2年以上前から一人で、この劣悪な環境で生き残っている。
 それどころか、ブロックチェーンや経済に関して深い興味と理解があることがわかった。
 彼女がいない時に部屋に入ったことがある。
 教科書はおろか政治経済の本まで大量に読破していた。
 ただの浮浪少女が普通そんな本を読むだろうか…
 そのまま継続して勉強すれば確実に浮浪者生活から抜け出せる。
 彼女は生きることに執着している。
「…彼女は、生きたいと思ってると思う」
 ぽつりとつぶやいた。
「いいんだな?」
 無言で頷く。
「わかった。
 契約書はFBチェーン上のコントラクトで行う。サインしろ。
 あとの諸々は私の方で何とかする。
 それと…」
 少し間をおいて紫苑は続けた。
「色々法的に裏側で操作してやる代わりに『ある情報』を定期的に私に流してほしい」
 この時代、裏取引等は日常茶飯事だ。
 浮浪児の時代から何度も経験したことだ。
 タダでやってもらえるとは思っていない。
「…どんな情報が必要なの…?」
「なに、そんなに重大な情報じゃない。」
 そう言って紫苑は内容を洛叉に耳打ちした。
「…分かったわ…
 ただし、私が組んだコントラクト上に情報を流す。
 そうね…JDGCにするわ。」
「痕跡を残しておくということか。
 構わん。
 デプロイする前にソースコードを見せろ。
 交渉成立だな。
 やれやれ、今日は徹夜だ。」
 薄暗い通路に洛叉を置いたまま紫苑は手を振ると去っていった。

 那由多が目を覚ますと誰かが必死に何かを言っていた。
 何も聞こえない。
 ぼやけててピントが合わない。時折り、ザザっと砂嵐のようなものが視界に入る。
 ぼんやりと女性っぽい輪郭だけは掴めた。
「…洛…叉…?」
 そう呟くのが限界。
 手も足も感覚が無い。
 凄まじく気怠い。
 再び眠りに落ちた。

 どれだけ経ったかわからない。
 再度目を開くと白い天井が目に入った。
 病室にいる。
 窓の外は薄暗かったが、空がオレンジ色に染まりつつあった。ひんやりとしている。
 ピー、とベッドの横にある機械から音が聞こえた。
「那由多!」
 相変わらず気だるい。
 首だけ声の方向を向けると、心配そうな顔をした洛叉が飛びついてきた。
「洛叉…?」
 体がうまく動かない。
 痛くはない。
 手足はついてはいるようだが、そもそも首から下の感覚がない。
「…生きてる…」
 死んだと思った。
 あんだけの地獄を味わい、もはや生きてるとは思っていなかった。
 洛叉は強く那由多を抱きしめるだけで何も言葉を発さない。
 小刻みに体を震わせながら嗚咽を漏らすのみだった。
 そういえば携帯ストラップを踵で思いっきり踏みつけた記憶がある。
「洛叉が…助けてくれたの…?」
 洛叉はそれを聞くと何故か苦しそうな顔をして一層那由多を強く抱きしめた。
「おぅ目覚めたか」
 ノックの後、女医が部屋に入ってきた。
 洛叉がベッドから離れ、代わりに紫苑が横に座る。
 紫苑は早速那由多の状態を確かめながら話し始めた。
「那由多君。
 とりあえず君の担当医の紫苑だ。
 洛叉の担当医でもある。
 宜しく頼む。
 いきなりですまないが一番大切な事だ。
 最初に伝えておく。
 君はFloatingBits社のサイボーグになった。」
「…」
 気づいていた。
 洛叉の先ほどの苦しそうな顔がそれを物語っていた。
「洛叉に感謝するんだな。
 君が運ばれてきた時すでに心肺停止状態だった。
 内臓もズタズタだった。
 ほんの僅かでもここに来るのが遅れていたら確実に死亡していた。」
 紫苑はタブレット端末と横に設置してある機械のモニターを見比べながらテキパキと何やら作業している。
「本来ならご両親の許可がいるのだが緊急を要したのでな。
 私と洛叉の独断でサイボーグ化をさせてもらった。
 非合法ではあるが違法ではない。
 それと…」
 そう言って彼女はベットに併設してある小さい机の引き出しから手かがみを取り出すと那由多に渡した。
「外見は自由に設定できるが大抵の人は現状を好む。
 君のそれも『生前』のままだ。」
 上手く手を動かせず、那由多は鏡持ち上げられなかった。
「あぁすまない。
 義体が馴染んでいないな。
 少し調整に時間がかかりそうだ。
 特に若い子でサイボーグになった場合こういうことがよくある」
 そう言って手かがみを持って那由多に見せてあげた。
「…」
 透き通るような水色の大きな瞳。
 背中まで伸びているサラサラの黒髪。
 薄肌色の皮膚は土埃一つついていない。
 首筋にQRコードが烙印されている。
 そこには浮浪児だった那由多とはまるで別人が写っていた。
「これ…私…?」
「言っただろう。
 外見は一切いじってない。
 まぁ瞳は結局ガラス玉だから人間の瞳よりは光を多めに反射してしまうがな」
 それから洛叉とともにサイボーグの説明を受けた。
 生活はほぼ人間のそれと同様。
 食べ物でエネルギーを作るシステムらしいので普通に食事をしろとのことだった。
 正社員の場合サイボーグとなる人間の生身は冷凍保存され、退職する際返却される。
 一方那由多や洛叉のような、特殊なケースで入社した場合、肉体はNFTとして医療機関に売却され、会社の費用として自身の教育、メンテ、訓練等の費用にあてられる。
 社員となったからには何歳だろうと関係無く給料は支払われるそうだ。
 当然だが全身サイボーグ化されているので妊娠する事は今の技術では不可能。
 ただ、技術開発は進んでおりあと少しのところまで来ているらしい。
 昼頃、那由多が限界を迎えたため説明は一旦お開きとなった。
 那由多はこと切れるように眠りについた。

 ふたたび目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。
 洛叉は相変わらず那由多のベッドのそばのイスに腰掛けていたが、空中にホログラムの様なスクリーンを広げて何かプログラムを組んでいた。
「…仕事?」
 自分でも驚くくらい声が小さい。
 那由多に気付くと洛叉はスクリーンを閉じた。
 辺りは月明かりと足元の間接照明だけになった。
「…まぁね。
 お腹減った?
 何か食べる?」
 微かに首を振ってそれに応える。
 暫くの後洛叉が切り出した。
「ごめんなさい…
 全部私のわがまま…
 あなたを…あんな形で失いたくなかった…」
 洛叉はそう言うと俯いて膝の上で拳を強く握った。
「…」
 彼女のせいで那由多は強制的に人間を止める事になった。
 肉体は他人の判断によって売却された。
 最早戻る事は出来ない。
「…私は…」
 洛叉を恨んでる…?
 いや…
 彼女のお陰で助かったのも事実…
 わからない…
「…明日…行きたい場所があるの」
 ケジメをつけなければ。
「…分かったわ」
 今までの自分にーー

 次の日。
 一次的に病院を出る手続きを洛叉にしてもらった。
 まだ体は上手く動かない。
 かろうじて松葉杖で立てる程度。
 病院を出ると、シトシトと雨が降っていた。
 灰色の雲がどんよりと一面空を覆っている。
 洛叉と一緒に黒いタクシーに乗り込んだ。
 窓から見える摩天楼とメガストラクチャー。
 その足元にある廃ビル群は余りにも小さく窓からは見えなかった。

 那由多と洛叉は終始無言だった。
 気まずい雰囲気が狭いタクシーの車内に立ち込める。
 洛叉はチラチラと那由多の方を見て気にかけてはいたが、那由多はずっと窓の外をみていた。
 やがてタクシーは商店街を抜け、住宅街を抜け、廃墟が広がるエリアに入った。
 窓越しに見るゾンビのように徘徊する浮浪者。
 カビの生えたダンボールの家。
 錆びた鉄骨が剥き出しの廃ビル。
 ゴミ溜めの路地裏。
 狭い道幅はタクシーが通るとほぼ塞いでしまう。
 やがて、タクシーはとある2階建てボロアパートの側で止まった。
 そのアパートは3方向を廃ビルに挟まれて立っていた。
 雨は次第に激しくなっており、洛叉は傘をさしながら那由多がタクシーを降りるのを手伝った。
 その場所は日中でもほぼ日がささない。
 アパートの鉄骨は細くボロボロに錆びていてすぐに崩れそうだ。
 壁のペンキはほとんど剥がれ落ちており、剥き出しのコンクリートは黒いカビや錆から出る赤いシミが一面にできていた。
 一階のコンクリート通路も緑のシミのような苔が生えており大きな水溜まりは一階の各部屋のすぐ前まで広がっていた。
 那由多は洛叉の手を借りながら松葉杖でゆっくりと1階の一番奥の部屋まで歩を進めた。
 無言で。
 唇を噛み締めながら。
 やがて、目的地であるドアの前にたった。
 茶色い木目のドアの表面はノリが剥がれてめくれており、雨で飛び散った泥がこびりついていた。
 ここで幼少の頃暮らした。
 こんな雨の日でも外で座り込んで寝たことがあった。
 苦しい思い出しかなかった。

 3歳、4歳の時だろうか。
 祭りの夜。
 母親に連れられて出店が立ち並ぶ通路を歩いていた。
 那由多はそこで白い狐の面を目にした。
 ちっちゃい那由多は何故かそれがいたく気に入ったらしく珍しく駄々を捏ねたようだった。
 当然母親には断られたが、尚も駄々を捏ねる那由多に根負けしたのか母親は狐の面を那由多に買い与えた。
 那由多はそれがとても気に入っていたのを覚えている。
 寝る時も頭につけていたので母親に苦笑された。
 母が那由多のわがままを聞いてくれた唯一の思い出。
 白い狐面。
 今となってはどこにあるのかもわからない。

 腐りかけのドアの前。
 昔のことを思い出していた。
 ドアの向こう。
 母親はいるだろうか。
 会ったらなんて言おう。
 今の私を見たらなんて言うだろうか。
 那由多を顧みなかった母。
 手足が震える。
 洛叉が心配そうに支えてくれている。
 大丈夫。
 彼女がいれば私はーー

 ドアのぶに手をかけた。
 鍵はかかっていなかった。
 ずりずりと音を立ててドアを開けた。
 「お母さん…?」
 ドアを開けると玄関、通路と併設されている小さいキッチンを経て、その向こうに6.5畳程度の狭い部屋がある。
 薄暗い玄関はゴミ溜め状態。
 キッチンは洗い物と残飯が放置されて異臭を放っていた。
 その先の部屋の中は真っ暗。
 サイボーグになってまだ間もない那由多の目は慣れるのに時間を有した。
 部屋の奥、天井から吊るされた一本の縄が見えた気がした。
 とたんーー
「ダメエエェェエ!」
 悲痛な叫び声と共に那由多は物凄い力で引っ張られ、外の通路に投げ飛ばされた。
 洛叉は壊れる勢いでドアを閉めて背中で押さえている。
 顔が真っ青だ。
 息が荒い。
 見開いた目いっぱいに涙を浮かべ、那由多の方を見ながら懇願するように頭を左右に振っていた。
 ノロノロと立ち上がる。
 那由多はゆっくりと洛叉に近付いた。
「洛叉。
 どいて。」
「あぁ…那由多…
 やめて…!
 ダメ!
 見なくていい…!
 これ以上はあなたがもたない…」
 那由多は尚も立ちはだかる洛叉を無理やり横にどけた。
 再びドアを開けた。
「…」
 洛叉は最早中を見なかった。
 背を向けたまま那由多の手を強く握っている。
 震えていた。
 ゴミだらけの玄関。
 生ごみの匂いと共に、チーズの腐ったような匂いがした。
 キツく握られている洛叉の手を無理やり振り払って通路を進む。
 部屋に入る手前で立ち止まる。
 部屋の真ん中辺りの天井から一本のカビた縄が吊り下がっていた。
 先端には小さい輪がくくられてあった。
 髪の毛と黒く腐敗した肉片がこびりついていた。
「…」
 その下。
 どす黒い『何か』の塊。
 グズグズに溶けていて最早どこがどうなっているか分からない。
 嗅いだことのない、強烈な腐敗臭。
 辺り一面に広がる黒いシミ。
 ところどころ白い木の棒のようなものが見える。
 大量のウジの死骸。
 蝿は飛んではいたものの数は少ない。
 黒く変色した腐肉はほとんどが既に乾燥していた。
 死後だいぶ経っている。
 見渡すと、ゴミだらけの部屋の隅に黒いシミを作っている塊が転がっていた。
 ところどころ白骨化した人間の頭部。
 首を吊った後、誰にも発見されず肉が腐り、自重に耐えきれず千切れて転がっていったのだろう。
 部屋に足を踏み入れた瞬間、耐えきれなくなりしゃがみ込んで嘔吐した。
 手元を見ると、半ば白骨化したミイラのような手…とおぼしき物体が何かを掴んでいた。
 腐った肉の汁で黒く変色していた為最初はわからなかったが、よく見るとそれは那由多が小さい頃駄々を捏ねて買ってもらったあの狐の面だった。
 床には子供の服が散乱していた。
 いくつかの古い変色した写真。

 幼い那由多が写っていた。

 自分を顧みなかった母。
 産まなければよかったと言われた。
 その言葉に耐えられなくなって2年前家を出た。
 一度も家に帰らなかった。
 未練もなかった。
 一方その2年間母はどんな思いでいたのだろう。
 行方知れずとなった娘。
 死の間際、数少ない娘の思い出の品を引っ張り出し母は何を思っていたのだろう。
 写真を撮って貰った覚えは無い。
 だか写真の中で幼い那由多は狐の面を頭につけて笑っていた。
 大粒の涙が那由多の頬を濡らした。
 嗚咽が漏れる。
 それを聞きつけた洛叉が慌てて那由多を部屋から引きずり出した。
「那由多!
 あぁ那由多…!」
 洛叉はただただ強く彼女を抱きしめることしかできなかった。
「お母さん…!
 お母さん…!!」
 何度も何度も那由多は母を呼んだ。

 雨が錆びたトタン屋根を激しく打ち付ける。
 その音に混じって那由多の悲痛な慟哭がこだましていたーー

第一章 「ドブネズミ」
第二章 「狐面」
第三章「怪物」
第四章「You Complete Me」
第五章「Tangsten Lycoris」


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