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二つの戦争のはなし〜兵隊として南方へ出兵した祖父と軍事工場の娘だった祖母の話〜

Aloha !!
E komo mai !!

ここは私たちが

「自然体」

「誰かに何かを伝えたい」

願望がつまった場所です。

はじめまして、みなさまこんにちは!
いかがお過ごしですか?
今週から雨が続きそうですね。

改めまして、こんにちは!

『EKO@Natural Life Artist』

です。

「知ってることを知っているだけで終わらせたくない」
「知らないことを学んでアウトプットする場所を作りたい」

から始まったこの『EKO@Natural Life Artist』

本日のテーマは

【戦争】

本日は『YUKO』の祖父母の経験談を私なりの言葉でまとめました。

なかなか重い題材だと思いますが
今回このテーマを選んだ理由は
TBS報道局さんがSNS連動キャンペーンを行っています。
そこで企画の主旨を読んだ時
10年前に亡くなった祖父の話を思い出したからです。

いつか戦争を経験した人が周りにいなくなり
話を聞く機会も減っていくと思いました。

今覚えているうちに
今聞けるうちに

言葉に残して、昔の戦争をいつかの未来の子供たちへ
繋いでいこうと思います。

間もなく
「8月15日」
あなたは誰と「平和」について語りますか。

▼「戦争」というテーマについて

今回このテーマにすることに
少し抵抗がありました。

それは祖父や祖母から聞いた
辛くて悲しい過去を思い出そうとすると
グッと胸が詰まるからです。
そして、10年前の祖父との思い出を振り返ると
未だに泣きたくなるからです。
私にとっては祖父という存在が
とても大きく
とても大切な存在でした。

そんな祖父との会話を思い出すと
私がどれだけ大事にされ
愛されていたか思い出されます。

▼思い出のままにしたくない

ただ、今回TBS報道局さんのキャンペーンを見た時
「私の思い出だけにしたままでいいのだろうか」
という疑念を抱きました。

祖父や祖母が経験した悲しい出来事が
私だけの思い出であってはいけない

このnoteを始めたのも

「知ってることを知っているだけで終わらせたくない」

という精神から始めた

だからこそ

「誰かに祖父母が経験したことを“繋げたい”」

そう思いました。

▼悲しい記憶を忘れないようにするために

悲しい記憶も時間が経てば色褪せてしまう。
だからこそ、今まだ鮮明に覚えているうちに
書き記しておこうと思いました。

今、元気な祖母もきっと
いつか記憶が薄れてしまうかもしれない
いつか話すことも難しくなるかもしれない

その「いつか」のために
書き記していこうと思います。

▼記せる今だから「繋ぎたい」

今回キャンペーンテーマが
「つなぐ、つながる」

なかなか戦争経験者の話を聞く機会って少ない

私は祖父母の他に聞いたとすれば

沖縄のひめゆりの塔
広島の平和記念記念資料館
ハワイのパールハーバー

くらいなんです。

非常に少ないですよね。
あとは歴史の授業くらいで

本当はもっと聞くべきことだと思うのに
なかなか機会を作ることが出来ない。

だからこそ、私が知っている知識を
誰かのために繋ぎ、記したい。

そしてまた、誰かが誰かへ繋いでくれることを願いたいです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが
これから私『YUKO』が聴いた
祖父母の戦争経験のお話をしたいと思います。

▼南方へ出兵した祖父の話

祖父は新潟の山間部で三男として生まれました。
そんな祖父は20歳になる年
南方へと出兵していきました。

祖父は兄弟が多く、早くに父親を亡くしたこともあり
中学を卒業後、集団就職で東京に上京していました。

そんな社会人になった祖父が
19歳の時、第二次世界大戦が勃発

20歳となり、出兵が決まり南方へと行くことになります。

▼祖父の口癖

毎年、8月15日の12時になると黙祷をしていた祖父。

黙祷が終わり
一呼吸を置いてから必ず私に

「ゆうが生まれてくる前に平和になってよかった」

と言います。
「ゆう」とは私の愛称

祖父は何気なく言っているのかもしれませんが
私にとってはとても重みを感じる言葉でした。

私たち世代が
この「平和」を
守らなくてはいけないんだなと。

そう思わせる瞬間でした。

それと同時に
祖父からのかけがえのない愛情を感じました。

▼人が人でなくなった日

祖父は必ず「平和」に安堵した後
戦時中の話をしてくれました。

出兵し、戦地についた瞬間

「人が人でなくなった」

その言葉で戦時中の私たちには計り知れない恐怖を伝えてくれました。

とにかく
アメリカは敵だからと
銃を構え、いつも緊張しながら
息を潜め、敵との攻防が続いたそうです。

銃を構えた瞬間から
祖父は
「国が変わるだけで、人が人に見えなくなった」
と言いました。

▼右足に受けた銃弾

祖父は銃撃戦の中
自身の足に銃弾を受けました。

幸い重症化せず、足を切断することなく済みました。

「怪我」

をしたらその瞬間からお荷物になる
そう、祖父は感じていたそうです。

当時歩けないでいた祖父は
その場に他の怪我した仲間と置いて行かれたそうです。
ただ、生きて戻れたのは
南方で森林の中に果物が多くなっていて
食べ物に困らなかったからだったそうです。

▼敵兵との出会い

怪我をして取り残された祖父は
怪我をした敵兵と出会います。

そんな祖父最初銃を構えたそうですが

打つことができませんでした。

理由を聞いたところ
「彼もまた置いてかれた人だったから」

同じ境遇の敵兵をさらに追い討ちをかけるように
打つことができなかったそうです。

▼生きて戻るということ

祖父は結局無事日本へ生還しました。
それは終戦1年後のこと。

祖父は初め生きて戻ることを恥じていました。
なんで自分はあの場で死ねなかったんだろうと
悔いたそうです。

それでも日本は戦後復興に向けて
前へと進んでいました。

そんな時代の波に揉まれ祖父は社会人復帰し、結婚。
子供にも恵まれ、会社を退職後は大学にも通い学問に励み
89歳という年で生涯を終えました。

生前の祖父の口癖

「平和になってよかった」

最初のうちはそう思えないほど心が荒んでいました。
ただ、時が流れ子が生まれ、孫が生まれた時
その子達が「平和」の世に生まれてきたことで
「平和」になって、そして
生きて戻れたことがとても幸せなことだと気づけたそうです。

だからこそ
失った仲間の分まで生きること
そして、学ぶことをし続けたのかもしれません。

▼軍事工場の娘だった祖母の話

祖母は東京・目黒の軍事工場の次女として生まれ
生まれた時から奉公さんがいるような裕福な家庭で育ちました。

よく目蒲線に乗り(今の東急目黒線・多摩川線)
渋谷の親戚のところなどへ遊びに出かけていたと話してくれました。

第二次世界大戦が始まったのは祖母が12歳の頃

日に日に日常が大きく変わっていきました。

▼祖母の父親の口癖

「この戦争は負ける」

第二次世界大戦が始まってすぐのこと
祖母の父親
私にとっての曽祖父は口癖のように
私の祖母へそう話したそうです。

あの時そんなことを言ったら
「非国民」

外では言えない話でしたが
曽祖父は家族に
「負ける」
という言葉を伝えていたようです。

それもきっと軍事工場を経営していた曽祖父は
早い段階で「敗戦」に気づいてたのかもしれません。

▼祖母の日常

戦争が始まった頃、祖母はまだ12歳で
女学校に通っていたそうです。
最初は淑女になるために勉強をしていたそうですが
戦火が日に日に増していく中で
戦争に関わるような仕事などをすることが増えていました。

▼死と隣り合わせ

学校から家へ帰る途中
空撃にあうこともしばしばで
よく空襲警報がなると近所の人が
「早くうちの防空壕へ入りなさい!」
と叫んで身を守ってもらうことも多くあったようです。

空襲が終わるまで爆撃音を聴きながら静かに静かに身を潜めていました。

空襲が終わるとまたいつものように道を歩く
そんな毎日を過ごしていたそうです。

戦火が増す中で
疎開する子が増えていき
祖母の家族も東京大空襲の前に橋本の方へ疎開しました。

▼東京の空が真っ赤に染まる

祖母が疎開して間もない頃
東京大空襲が起こります。

橋本へ疎開していた祖母は
東京方面の空が真っ赤に染まることを目にし
こんなにも恐ろしい空は見たことない
そう思ったそうです。

▼生きているということ

祖母は自分が生きているということは
あたりまえではないと話します。

もし、自分が疎開せず東京にいたら
もし、自分の置かれた立場が変わっていたら

「もし」

それは起きえるであろう事柄を考えると
今生きていることは

「奇跡」

に近い。
そう、祖母は話してくれました。

だから、
「生きる」
ことがあたりまえと考えず
「生きる」
ということを大切にしていかなきゃいけないのです。

▼「平和」の尊さを考える

私は平成生まれで
「戦争」というものを経験したことがなく
私の知る「戦争」は
どこか遠くの国で起こっていることで
教科書に載っている歴史の1ページのことで
身近になことではないのです。

今「平和」な理由は
誰かが犠牲になり
誰かが誰かのために戦った
その結果だと私は考えます。

祖父も祖母も
「命の尊さ」
を戦争の話と合わせて話してくれました。

「今生きていることが大切なんだよ」と

日本は「平和」で
今戦うべきは
「新型ウイルス」だったり
「性に対する平等」だったり
「環境問題」だったり
しますが

世界を見渡すと
国同士の戦いや
クーデターでの内紛
まだまだ、人が人を傷つける
そんな場所が存在します。

いつかその世界が
「平和」を手にした時
どんな世界が待っているでしょうか。

爆弾が降る空ではなく
星が降る空を見上げることができるのでしょうか

血が流れ命が消えていくのではなく
川が流れ森が育ち命を育むことができるのでしょうか

人と人が殺し合う
子供が武器を持つ
そんな世界じゃなくて

人と人が手を取り合い
子供がペンを持つ
そんな世界になって欲しい

今だから祖母に聞ける話をたくさん聞いて
誰かに繋いでいきたい

祖母と一緒にいったテーマパークで
一緒にジェットコースターに乗った時
「大丈夫?」
と聞いたら
「戦争経験したらこんなの大したことじゃない」
と言われたことがあります。

祖母は今はこうして戦争について話してくれますが
戦後すぐは言葉にすることも難しいことだったと思います

「誰かの死と隣り合わせだったあの時代」

祖母は懸命に今を生きています。
祖父も亡くなるまで生きてることに感謝していました。

私が聞いた身近な「二つの戦争」
それは全く違う状況だったかもしれません
でも、言えるのは
「戦争していいことなんてほとんどない」
ということ
私たちはこれからも
今の「平和」を
守り続ける必要があります。
そして、「未来」に繋げる必要があります。

さて、間もなく
「8月15日」
あなたは誰と「平和」について語りますか。

いつか世界中で
「It's a small world」
をみんなで歌ったら、平和になるのかなとか
ちょっと大それたことを考えて
今日の長いお話を終えたいと思います。

更新は、毎週金曜日
次回は【8月20日】です。


今日、誰か一人でも「Happy」になれるように!


Mahalo !
A hui hou !


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