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愛と死の物語—「星の王子さま」

サン=テグジュペリの「星の王子さま」はこれまで三回ほど読んだと思うが、どんな話だったかあまり記憶に残っていない。特別心を動かされた、ということもなかった。

今回読んだのは、定期的に参加している読書会の課題本だったからだ。

そんな消極的な理由で読んだくらいで正直なところ期待はしていなかったのだが、意外にも引き込まれて、気付くとメモを取りながら丁寧に内容を追いかけていた。

こんなに深い内容だったのかと驚いた。


王子さまの成長の物語

「星の王子さま」は、愛するとは何か、ということが一つの大きなテーマになっている。王子さまが、愛するということの意味を知る話である。

この物語が、王子さまの学びの物語である、ということは今回読んで初めて知った。というのも、これまでのぼんやりとした記憶では、王子さまが「ぼく」に何か大切なことを教える物語だという印象だったからだ。王子さまを教師のような存在だと思っていた。そのせいか、「星の王子さま」は僕の中で、教訓めいたあるいは説教くさいといったマイナスのイメージによって色付いてしまっていた。

また、純粋な子供と愚かな大人、という対立構図でこの物語を捉えることもやはり違うのだろうと思った。確かに王子さまの目線を通して、大人たちへの批判が行われているようにも見えるが、批判は大人それ自体に向けられているわけではなさそうだ。むしろここで問いかけられるのは、大人の多くは、大切なものを見失っているという事態であり、それはいかなる事態なのか、ということである。決して大人になることが悪いといっているわけではない。実際、この物語では王子さまの成長が描かれる。王子さまは、子供の純粋さの模範、あるいは教師のような存在ではなく、もっと不器用で生き生きとしている。王子さまは、「ぼくは、あんまり小さかったから、あの花を愛するってことが、わからなかったんだ」といって、故郷の星に咲く花から逃げてしまったことの後悔を打ち明ける。この王子さまの後悔を、僕はすっかり忘れていた。


大人になることに潜んでいる罠

王子さまが故郷の星を発っていくつかの星を巡る中で、滑稽な大人たちと出会う。命令ばかりして、どんな出来事も自分の思い通りになっていると思い込もうとしている王さま。人に感心されることばかり求めるうぬぼれ男。恥ずかしい、という思いに捉われてひたすら酒を飲んでいる男。忙しそうに星を数え、星を自分の所有物だと思っている実業家。

王子様は彼らを「滑稽だ」と思う。そこにはやはり、彼ら大人たちに対する作者の批判的な視点がある。では、彼らの何が問題なのだろう。そこを細かく考えてみると面白い。

王子さまは、実業家にこんなことをいう。

「ぼくはね、花を持ってて、毎日水をかけてやる。火山も三つ持ってるんだから、七日に一度すすはらいをする。火を吹いてない火山のすすはらいもする。いつ爆発するか、わからないからね。ぼくが、火山や花を持ってると、それがすこしは、火山や花のためになるんだ。だけど、きみは、星のためには、なってやしない……」

実業家が大切にしているものは、王子さまから見れば、全く大切なものではない。王子さまは違和感を覚える。

実業家のいる星を去った王子さまは別の星で、街燈に火を付ける仕事をする点燈夫と出会うが、そこで違和感の理由がわかる。点燈夫とそれまでに出会った大人たちとの違いに気づくのだ。

でも、ぼくにこっけいに見えないひとといったら、あのひときりだ。それも、あのひとが、じぶんのことでなく、ほかのことを考えているからだろう。

滑稽な大人たちが大切にしているのは、結局は自分であるということ。点燈夫は確かに馬鹿馬鹿しいかもしれないが、それでも自分のために行動していないので、王子さまは好感を持っている。この物語が愛をテーマにしているとするなら、このエピソードは「大事な仕事をしている」といって忙しそうにしている実業家よりも、自分の仕事の意味など考えずに淡々と働いている点燈夫の方が、それでも愛に近い、ということを示しているようにも思える。

それにしても、点燈夫の他に誰もいない星で、「命令だから」という理由だけで街燈を付けたり消したりしている仕事を、僕はつい「無意味」だと思ってしまう。しかし王子さまは点燈夫の仕事をこんな風にいうのだ。

「この男もばかばかしい人なんだろうな。それでも、王さまや、うぬぼれ男や、実業家や呑み助よりは、ばかばかしくないだろう。ともかく、この男の仕事には、なんか意味がある。街燈に火をつけるのは、星を一つ、よけいにキラキラさせるようなものだ。でなかったら、花を一つ、ぽっかりと咲かせるようなものだ。点燈夫が街燈を消すと、花もつぼんでしまうし、星も光らなくなる。とてもきれい仕事だ。きれいだから、ほんとうに役にたつ仕事だ」

この王子さまの眼差しに、僕は憧れる。

物語の後半で、「かんじんなことは、目には見えない」とキツネが王子さまにいう。「星の王子さま」のよく知られている言葉。

愛するとは、目に見えないものを見ることだ。そんな風に解釈することもできるだろう。王子さまは、花の言葉や態度など、目に見えるもの、耳に聞こえるものから物事を判断していたこと、そのせいで花の優しさを見ることができなかったことを後悔する。

目に見えないものが見えるようになることは、成長だといえる。王子さまは、そうして愛することを知った。しかし一方で、大人たちは、目に見えないものに捉われてしまっている。ここに、大人になることに潜む罠があるのだと思う。

大人になるとは、目に見えないものが見えるようになることであり、それは何かを愛するためには必要なことだ。しかしそれが行き過ぎると、見えないものへの執着に変わる。意味、目的、価値、幸福……そんな言葉によって視界が曇ってしまう。愛と執着は地続きになっている。想像の景色はいつの間にか観念の檻に変わる。そういう怖さを感じた。

この物語はだから、子供の純粋さと大人たちの愚かさの対立ではなく、「愛を知らない王子さま」と「愛を忘れた大人たち」の中間にある、常に揺いでいて不安定な、愛するという状態ついて、行き先を定めているのだと思う。

愛と死

「星の王子さま」には、重要な場面でヘビが登場する。これは読書会に参加していた方の指摘で、はっとさせられた。「ぼく」が子供の頃に描いた、象を飲み込んだヘビの絵。そこからこの物語は始まる。そして、王子さまが砂漠で死ぬのは、ヘビに噛みつかれたからだ。「ヘビで始まりヘビで終わる物語」、確かにそうかもしれない。それから、王子さまが地球に来て最初に出会うのもヘビである。ヘビと王子さまの会話は、謎めいている。

「おれがさわったやつぁ、そいつが出てきた地面にもどしてやるんだ。だけど、あんたは、むじゃきな人で、おまけに、星からやってきたんだから……」
王子さまはなんとも答えません。
「あんたみたいに弱い人が、こんな、岩でカチカチの地球にやってくるなんて、かわいそうだな。もし、あんたが、いつか、あんたの星が、なつかしくてたまらなくなって帰りたくなったら、おれが、あんたをなんとか助けてやるよ。それから……」
「ああ、わかったよ、わかったよ。だけど、なぜきみは、なぞのようなことばかりいうのかい」と、王子さまがいいました。
「なぞは、みんなおれがとくさ」と、ヘビはいいました。
そしてふたりはだまりました。

ヘビは、世界の秘密を知っている存在のように思える。そして、ヘビはどうやら死を表しているらしい。「星の王子さま」は、死のイメージが色濃い物語だ、ということも今回の発見だった。愛の物語であると同時に、死の物語でもある。愛することは死ぬことだ、といっているようにさえ思えた。

王子さまの死は唐突に訪れる。なぜ王子さまは死ななければならなかったのか。王子さまの死の背後に、生きることは愛することであり、愛することは死ぬことだ、という作者の思想を感じた。

サン=テグジュペリは飛行機乗りだった。偵察飛行中に姿を消したとされる。彼にとって死はとても近いものだったのだと思う。愛することを知り、「ぼく」と友情を結んだ王子さまが、しかし唐突に旅立ってしまうのは、サン=テグジュペリが人生をそういうものだと思っていたからではないか。愛することは命を懸けることであり、人生はそう長くはない。そして死は、故郷へ、生まれた場所へ帰ること……。

人は愛を知るために生まれ、愛を知って死んでいく。

そういう愛と死の物語として、僕は「星の王子さま」を読んだ。


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