プロとは如何
たった一人でも他人様が、
金銭あるいは大絶賛を寄せて下さったならば、
言い換えれば、
ただ一人でも他人様に、
金銭ないしは敬意を払わせてしまったならば、
その作者は営業形態や売上金額に関わらず、
プロと認識して然るべきだという、
おそらく一風変わった価値観を私は有している。
「ただ一人に褒められた程度で図々しい」とか、
「無用なプライドは捨てて謙虚になれ」といった、
不快感を抱かれる方もいるかも分からないが、
縁もゆかりも血の繋がりも無い一人の人間から、
価値を見出してもらえた以上は、
己の作品を卑下する事など不可能だ。
他人様の感性と価値観に対する非礼になる。
そもそも「プロ」とは何であるか。
「人前に」や「公に」を意味する接頭辞である。
「そこかい!」と苦笑された方には、
語源や字義にこそ物事の本質が見て取れる、
場合が多い(絶対ではない)事を申し添えておく。
例えば坪内逍遥『当世書生気質』における「プロ」とは
「吉原の娼妓」を意味していた。
pro-fessor(人前で、語る者)が「教授」であり、
pro-stitute(人前で、並ぶ者)が「娼妓」である。
「語る」事に対して西欧社会が、
どれほどの重きを置いてきたかが透けて見える。
余談だが、
pro-grammer(人前で、書く者)が「調整者」だという事は、
公的な文書はあくまでも「プログラム」であり、
そうした情報には基本間違いなど許されない事が分かり、
小説や物語といった「創作」は、
個人に属する文書である事も透けて見える。
amateur は語源から言えば「愛好者」だ。
創作に携わる者であれば、
本来収益の有無や多寡を問わず、
堂々と自称して構わないように思うが、
「人前に堂々と自称する」行為がそもそも、
professである以上は、
同時にprofession(技能者)とも言い切れる。
故に私に限らず全ての創作者に対して、
提案したいのだが、
自らを「プロ」と認識するに、
何の不都合や、
恥を感じさせられる道理があるだろうか。
すでに我々は人前に、
何らかの文章を展開した身である。
とは言え私自身は、
イメージや場の雰囲気よりも、
本質を重要視する人間であり、
私個人の感覚が必ずしも、
万人に適用できない事は把握している。